The Circle Be Unbroken ←→ Amazing Grace
- 2017/01/30
- 03:45
正月二日にうpした記事、『作曲少女』のレビューの続きを書かねばと思ってるのだけど、なかなか筆が進みませぬ。
仰木日向/まつだ ひかり『作曲少女~平凡な私が14日間で曲を作れるようになった話~』
その翌週にちょっと面倒な頼まれ仕事を引き受けてしまい、今月はそれで手一杯になりそうなうえ、10日ほど前から自分的には数年ぶりの本格的な風邪をひいてしまった。
喉がせろせろ→ひどい咳と痰→ひどい鼻水→ひどい発熱→も一度鼻水
のフルコースを約10日で巡り、一昨日くらいからようやく正気を取り戻しつつある現状。じゃあさっそく前記事の続きを・・ではなく、
"Will The Circle Be Unbroken"という曲があります。
Will The Circle Be Unbroken? -wiki
なんで↑の動画を貼るかというと、私はステイプルズでこの曲知ったから。ですが元々、この宗教歌を最初にポップス化したのはカーター・ファミリー。
Can the circle be unbroken The Carter Family -youtube検索
カーター版はWillじゃなくてCanだとか、先に貼ったwikiに載ってる歌詞と全然違うとか等々はおいといて;
このメロディはアメイジング・グレイスの借用なのですね、という事に私は一昨日、突然気付いたのですよ。
amazing grace -youtube検索
私がステイプルズ版の"The Circle Be Unbroken"を知ったのは、少なくとも2年以上前。聴き馴染みしやすい良い曲だと思いましたよ。更にその後、自分のWalkman用データ約130GBを曲名検索してみたら他にもいろんな人がカバーしてるのに気が付いた。つまり現在はどうか知らんけど、以前はわりと人気曲だったもよお。
でまあステイプルズ以外の版も含めしばらく楽しく聴いてたのだけど、元が聴き馴染みしやすい曲なだけに直ぐに飽きました。
というような事が以前にあったのだけど、この曲がアメイジング・グレイスの替え歌だとは全く気が付かなかった。というのも迂闊だけど、それを今頃になって急に気が付いたのも不思議な話しです。風邪ひいて脳みそが過熱したせいで、アタマの電線が数か所どうかしたのかも知れない。まあともかくそういう事があったので、せっかくだから記事に書き残しとこうかと思って。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アメイジング・グレイスは3拍子。それを4拍子にして、別歌詞を載せるため若干の変形を施したのが"Circle Be Unbroken"。
カーター・ファミリー系の"The Circle Be Unbroken"はすぐに聴き飽きてしまったのだけど、それとは別系統のもあって、
自分的には、この曲はモンローズ版の方が良いなと思ってる。歌詞は先に貼ったWikiに載ってる方ので、その点も含めカーター版とはまるで別の曲・・・と思ってたのだけど、こっちもメロディの骨子だけを描いてみると、やはりアメイジング・グレイスなんですなあ。ちょっとびっくり。
*)なお、ステイプルズの"The Circle Be Unbroken"も、今日久しぶりに聴いたらやっぱりこれもいいね!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本の江戸期三味線音楽とかだと、メロディってのは数パターンしかないんですよ。どの曲も、歌詞内容は様々だけどメロデイは似たり寄ったり。歌で重要なのは歌詞≒言葉。
「歌とは、歌の形を与えられた言葉の事なのだよ」
みたいな音楽観。メロディってのは言葉を盛るための器(うつわ)にすぎないくらいの扱い。昔の人は、あまり新しいメロディを作りたがらなかった。たまに新タイプのメロディを用いた曲を作ると、それは既存のとは別ジャンルの、新しい流派の曲って扱いになっちゃう勢い。常磐津から清元が分派したような。
で、そういうのは日本だけでの事かと思ってたんだけど、今さっき軽くググって調べてみたところ、"Will the Circle Be Unbroken?"が発表されたのは1907年。レコードが本格普及し始める前の時期ですが、その頃のアメリカでも、メロディの使い回しというか、
・歌詞は新しく、
・しかし歌うのはお馴染みのメロディで
という習慣はけっこうあったみたいなのですね。つまりAmazing Grace→The Circle Be Unbrokenみたいな作られ方の曲が、他にも多数あったもよお。
となると日本に限らずわりとどこの国の人にとっても、
「歌といったら言葉の事」
だった時代はあったなのかなとも思われてくる。
なおこの感覚、というか新曲作りの方式というかはもっと後年のフォーク系シンガーも用い続け、ボブ・ディランの師匠格のウディ・ガスリーがわりとそうだったし、そしてボブ・ディランにはかの有名な、
"No More Auction Block"→"Blowin' In The Wind"
という作例があって云々
no more auction block -youtube検索
blowin in the wind -youtube検索
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
新しい曲≒新しい言葉
ではなく
新しい曲≒新しいメロディ
という音楽観が定着し始めたのはいつか?
アメリカでのポップスでならレコードとラジオ放送が、つまり音声メディアが普及し始めた1920年代前後から、だと思います。他の国でも(工業化の進展度に比例して)大体は同じ。
音声メディアが誕生した事で、直接面識のない、地縁も、職業縁も、血縁もない人の歌を聴く機会が生じたわけです。
この点ヨーロッパ大陸ではもう100年近く前から、民族主義の台頭という形で似たような動きがあって云々
フレデリック・ショパン -wiki
国民楽派 -wiki
日本人の歌は、だいたいどれも同じメロディ。アメリカのアパラチア山脈に住む農民の歌も、ミシシッピの農園で働く黒人の歌も、まあそんなもの。
歌は言葉=国語=民族語と一体のもの。
だから、民族が異なれば定型メロディも異なる。それを他民族が聴いた時に、不快と思うか良い・新しいと思うかは状況次第なのだけど、ともかく19世紀後半のヨーロッパ、とはつまり帝国主義時代のヨーロッパなのでもあるけど、
帝国主義 -wiki
ともかくこの時期、音楽界では各民族が自分の独自色を打ち出すのが盛んで、結果、異民族のメロディを「新しい曲」とすんなり認識できる音楽観が定着していった、のかも知れない。
ポップス方面では20世紀の後半になっても「異民族のネタ元」を拡張する動きは続き、
・インドの楽器を用いたビートルズとか、
・中南米やケルトをなにしたサイモン&ガーファンクルとか、
・アフリカ人の音楽を欧米人向けに味付け直したワールド・ミュージックとか、
そういう諸々を取り込んで流行歌のネタ元を拡張し続ける動きが、1990年代くらいまで続いてましたっけかね。
なのですごく大雑把に、ショパンの活動が本格化した1830年代から1990年代までの約150年間が、音楽史上におけるメロディ拡張の時代。
この期間での音楽観は、メロディを重視する。
大事なのはメロディ。そして新しい曲とは、新しいメロディの事。
1830年代ごろというのは、音楽の大衆化が本格化し始めた時期なのでもありますね。
なんだけど、音楽にとってメロディの多彩さ・新しさって、それほど重要じゃないです。という音楽観もあります。
1830年代から1990年代までの約150年間てのはずいぶん長いように思われるかもだけど、人類の音楽史全体からいったら、たいして長くもない。その前はずっと、いっつも同じメロディで何とかしてたのだし。音楽で大事なのは歌。そして歌とは言葉。メロディは二の次でおk。
1800年代より以前は器楽が未発達だった、という事も関係あります。素人が趣味で気安く弾けるピアノとかが普及し始めたのは1800年代以降。
ところが器楽に言葉はないし、とくにピアノでは、これでメロディを弾いても(棒)にしかならない。だから器楽はメロディの多彩さを求めざるを得ないが、音楽全体から言ったらそれは、べつになくてかまわないものである。
ピアノは(棒)だからダメだってんじゃないですよ。下手っぴが雑に弾いても最低限の棒レベルは保ってくれる。それこそがピアノの良いところ。たいていの楽器はまず音高を自分で管理するとこから始めなきゃで、棒すらままならない。
あと、無個性な棒キャラだからこそ、脇役≒伴奏にはうってつけの楽器。
テレビの、5分枠のニュース番組で、無駄情報のない原稿を几帳面に読み下す局アナって、いい仕事っぷりじゃないですか。ところがそれを1時間にも引き延ばし、聞いてもない解説や御意見を語ってくれちゃうのはどうよ?大衆の代弁者って事ですか?しかしそれ全部仕込み。他人の書いた台本を、あたかも自分自身の言葉のように、感情をこめて☆表現する☆お猿さん☆
ピアノで歌の真似事をするってのもつまり大概、そういうような事です。
なお私には「美しいメロディ」ってのが何の事かが分かりません。メロディは審美の対象じゃないでしょ?出来の良し悪しは問えるけど。
こと器楽に関して、審美を問える作品というのはごく稀だと思う。ぱっと思い付けるのは、
art of fugue -youtube検索
Schoenberg op.25 -youtube検索
の2曲くらいしかない。
器楽は具体的な何物も表現し得ない、とはよく言われる事だけど、実際のとこは、音楽から
・意味性
・感情表出
・目的追求の意識
等々を完全に消し去るのはとても難しい事なんですね。聴く側がそれらを勝手に足してしまうので。単に無機的で無目的な音の連なりに過ぎない作品ってのは沢山あるけど、そういうのもまた当然、審美の対象ではない。ざっくり言い方を変えると;
音楽から俗臭を完全に消し去るのは、とても難しい。
人が音楽を聴いて「美しい」と言う時、それはたいてい音楽そのものの美についてではなく、音楽によって連想された何物かについてを述べてるのだよ。
云々
じゃあメロディなんてどーでもいいのかというと、そうではないです。
先に動画を貼ったモンローズの"The Circle Be Unbroken"。これはアメイジング・グレイスの変形。だけど、ぱっと聴いてそうだと分かる人いますか?私には分かりません。理屈では理解できてる現状でも、聴いた感じでは依然、全く別の曲。こういうとこ、メロディって不思議だよね。
メロディ枯渇論みたいの、あるじゃないですか。早くは1960年代ごろから言われ始めてたとか。
メロディ 枯渇 -google検索
メロディを「音符の組み合わせ」と捉えると、この考え方に陥りやすい。まあ中学生とか、わりと誰でもこれは考える事ですよねっていうか、私は中学の時にここに墜ちました。ラジオ等でポップスを聴き始めて4~5年目の頃。現在の私は以下のように考えてます;
先に書いたように、メロディの多様性と新しさを重視するのは、音楽史上のごく一時期の傾向にすぎない。それはまた、音楽が大衆化した時代でもある。従って;
大衆音楽は、メロディの多様性と新しさを重視する。
ならば、メロディが枯渇すれば、大衆音楽は衰退する。私的には、大衆音楽が衰退してもとくに困らない。むしろ、大衆音楽ってたいがいゴミなんで、衰退してくれちゃった方が良いかも。
とはまた別に;
これも先にも書いた通り、メロディって音楽にとって最も重要な要素じゃないです。更に言うと、多様性も新しさ(斬新さ・新奇さ)も、べつになくてもかまわない。そういうのが全て涸れきっても、私たちは何かしら「新しい音楽」を作り続けなければならないし、そして実際とこ、音楽は現在でも少しずつ新しくなり続けてる。
だからメロディなんてどーでもいい、という事でもないんですよねえ。
というか、どーでもいいなんて言い始めたら、リズムだってどーでもいいし、楽器の音色とか、アレンジとか、その他もろもろの全てだってどーでもいいって事になります。音楽では、どれか一つだけが重要ってことは無いんですね。というのを踏まえたうえで、メロディーに新しさとか多様性とか、あるいは美しさだとか、そういうのべつに要らないけど、だからと言ってメロディなんてどーでもいいのでもない。それでまあ、モンローズの"The Circle Be Unbroken"は良いなって話し。
1930年代にはカーター・ファミリーやモンロー兄弟のような、アパラチア地方出身の血縁グループが他にも数組いて、農民の伝承曲を仕立て直して、いわば「モダンにして」演奏するのが流行ってた。それが当時の人々にとっては、とても新鮮で素晴らしいものだったらしい。なんだけど当時の人にとっての新しさは、100年近くも後の時代になって聴いてる私にはちっとも分からない。どれも鄙びた、すごく昔のフォークソングって風にしか聴こえない。
なんだけどモンローズの"The Circle Be Unbroken"の作り替えは、今現在の私にとっても面白い。すごいと思う。1930年代の人達の感じ方ってこんなんだったのかな?ってちょっと思える、貴重なサンプルです。
仰木日向/まつだ ひかり『作曲少女~平凡な私が14日間で曲を作れるようになった話~』
その翌週にちょっと面倒な頼まれ仕事を引き受けてしまい、今月はそれで手一杯になりそうなうえ、10日ほど前から自分的には数年ぶりの本格的な風邪をひいてしまった。
喉がせろせろ→ひどい咳と痰→ひどい鼻水→ひどい発熱→も一度鼻水
のフルコースを約10日で巡り、一昨日くらいからようやく正気を取り戻しつつある現状。じゃあさっそく前記事の続きを・・ではなく、
"Will The Circle Be Unbroken"という曲があります。
Will The Circle Be Unbroken? -wiki
なんで↑の動画を貼るかというと、私はステイプルズでこの曲知ったから。ですが元々、この宗教歌を最初にポップス化したのはカーター・ファミリー。
Can the circle be unbroken The Carter Family -youtube検索
カーター版はWillじゃなくてCanだとか、先に貼ったwikiに載ってる歌詞と全然違うとか等々はおいといて;
このメロディはアメイジング・グレイスの借用なのですね、という事に私は一昨日、突然気付いたのですよ。
amazing grace -youtube検索
私がステイプルズ版の"The Circle Be Unbroken"を知ったのは、少なくとも2年以上前。聴き馴染みしやすい良い曲だと思いましたよ。更にその後、自分のWalkman用データ約130GBを曲名検索してみたら他にもいろんな人がカバーしてるのに気が付いた。つまり現在はどうか知らんけど、以前はわりと人気曲だったもよお。
でまあステイプルズ以外の版も含めしばらく楽しく聴いてたのだけど、元が聴き馴染みしやすい曲なだけに直ぐに飽きました。
というような事が以前にあったのだけど、この曲がアメイジング・グレイスの替え歌だとは全く気が付かなかった。というのも迂闊だけど、それを今頃になって急に気が付いたのも不思議な話しです。風邪ひいて脳みそが過熱したせいで、アタマの電線が数か所どうかしたのかも知れない。まあともかくそういう事があったので、せっかくだから記事に書き残しとこうかと思って。
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アメイジング・グレイスは3拍子。それを4拍子にして、別歌詞を載せるため若干の変形を施したのが"Circle Be Unbroken"。
カーター・ファミリー系の"The Circle Be Unbroken"はすぐに聴き飽きてしまったのだけど、それとは別系統のもあって、
自分的には、この曲はモンローズ版の方が良いなと思ってる。歌詞は先に貼ったWikiに載ってる方ので、その点も含めカーター版とはまるで別の曲・・・と思ってたのだけど、こっちもメロディの骨子だけを描いてみると、やはりアメイジング・グレイスなんですなあ。ちょっとびっくり。
*)なお、ステイプルズの"The Circle Be Unbroken"も、今日久しぶりに聴いたらやっぱりこれもいいね!
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日本の江戸期三味線音楽とかだと、メロディってのは数パターンしかないんですよ。どの曲も、歌詞内容は様々だけどメロデイは似たり寄ったり。歌で重要なのは歌詞≒言葉。
「歌とは、歌の形を与えられた言葉の事なのだよ」
みたいな音楽観。メロディってのは言葉を盛るための器(うつわ)にすぎないくらいの扱い。昔の人は、あまり新しいメロディを作りたがらなかった。たまに新タイプのメロディを用いた曲を作ると、それは既存のとは別ジャンルの、新しい流派の曲って扱いになっちゃう勢い。常磐津から清元が分派したような。
で、そういうのは日本だけでの事かと思ってたんだけど、今さっき軽くググって調べてみたところ、"Will the Circle Be Unbroken?"が発表されたのは1907年。レコードが本格普及し始める前の時期ですが、その頃のアメリカでも、メロディの使い回しというか、
・歌詞は新しく、
・しかし歌うのはお馴染みのメロディで
という習慣はけっこうあったみたいなのですね。つまりAmazing Grace→The Circle Be Unbrokenみたいな作られ方の曲が、他にも多数あったもよお。
となると日本に限らずわりとどこの国の人にとっても、
「歌といったら言葉の事」
だった時代はあったなのかなとも思われてくる。
なおこの感覚、というか新曲作りの方式というかはもっと後年のフォーク系シンガーも用い続け、ボブ・ディランの師匠格のウディ・ガスリーがわりとそうだったし、そしてボブ・ディランにはかの有名な、
"No More Auction Block"→"Blowin' In The Wind"
という作例があって云々
no more auction block -youtube検索
blowin in the wind -youtube検索
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
新しい曲≒新しい言葉
ではなく
新しい曲≒新しいメロディ
という音楽観が定着し始めたのはいつか?
アメリカでのポップスでならレコードとラジオ放送が、つまり音声メディアが普及し始めた1920年代前後から、だと思います。他の国でも(工業化の進展度に比例して)大体は同じ。
音声メディアが誕生した事で、直接面識のない、地縁も、職業縁も、血縁もない人の歌を聴く機会が生じたわけです。
この点ヨーロッパ大陸ではもう100年近く前から、民族主義の台頭という形で似たような動きがあって云々
フレデリック・ショパン -wiki
国民楽派 -wiki
日本人の歌は、だいたいどれも同じメロディ。アメリカのアパラチア山脈に住む農民の歌も、ミシシッピの農園で働く黒人の歌も、まあそんなもの。
歌は言葉=国語=民族語と一体のもの。
だから、民族が異なれば定型メロディも異なる。それを他民族が聴いた時に、不快と思うか良い・新しいと思うかは状況次第なのだけど、ともかく19世紀後半のヨーロッパ、とはつまり帝国主義時代のヨーロッパなのでもあるけど、
帝国主義 -wiki
ともかくこの時期、音楽界では各民族が自分の独自色を打ち出すのが盛んで、結果、異民族のメロディを「新しい曲」とすんなり認識できる音楽観が定着していった、のかも知れない。
ポップス方面では20世紀の後半になっても「異民族のネタ元」を拡張する動きは続き、
・インドの楽器を用いたビートルズとか、
・中南米やケルトをなにしたサイモン&ガーファンクルとか、
・アフリカ人の音楽を欧米人向けに味付け直したワールド・ミュージックとか、
そういう諸々を取り込んで流行歌のネタ元を拡張し続ける動きが、1990年代くらいまで続いてましたっけかね。
なのですごく大雑把に、ショパンの活動が本格化した1830年代から1990年代までの約150年間が、音楽史上におけるメロディ拡張の時代。
この期間での音楽観は、メロディを重視する。
大事なのはメロディ。そして新しい曲とは、新しいメロディの事。
1830年代ごろというのは、音楽の大衆化が本格化し始めた時期なのでもありますね。
なんだけど、音楽にとってメロディの多彩さ・新しさって、それほど重要じゃないです。という音楽観もあります。
1830年代から1990年代までの約150年間てのはずいぶん長いように思われるかもだけど、人類の音楽史全体からいったら、たいして長くもない。その前はずっと、いっつも同じメロディで何とかしてたのだし。音楽で大事なのは歌。そして歌とは言葉。メロディは二の次でおk。
1800年代より以前は器楽が未発達だった、という事も関係あります。素人が趣味で気安く弾けるピアノとかが普及し始めたのは1800年代以降。
ところが器楽に言葉はないし、とくにピアノでは、これでメロディを弾いても(棒)にしかならない。だから器楽はメロディの多彩さを求めざるを得ないが、音楽全体から言ったらそれは、べつになくてかまわないものである。
ピアノは(棒)だからダメだってんじゃないですよ。下手っぴが雑に弾いても最低限の棒レベルは保ってくれる。それこそがピアノの良いところ。たいていの楽器はまず音高を自分で管理するとこから始めなきゃで、棒すらままならない。
あと、無個性な棒キャラだからこそ、脇役≒伴奏にはうってつけの楽器。
テレビの、5分枠のニュース番組で、無駄情報のない原稿を几帳面に読み下す局アナって、いい仕事っぷりじゃないですか。ところがそれを1時間にも引き延ばし、聞いてもない解説や御意見を語ってくれちゃうのはどうよ?大衆の代弁者って事ですか?しかしそれ全部仕込み。他人の書いた台本を、あたかも自分自身の言葉のように、感情をこめて☆表現する☆お猿さん☆
ピアノで歌の真似事をするってのもつまり大概、そういうような事です。
なお私には「美しいメロディ」ってのが何の事かが分かりません。メロディは審美の対象じゃないでしょ?出来の良し悪しは問えるけど。
こと器楽に関して、審美を問える作品というのはごく稀だと思う。ぱっと思い付けるのは、
art of fugue -youtube検索
Schoenberg op.25 -youtube検索
の2曲くらいしかない。
器楽は具体的な何物も表現し得ない、とはよく言われる事だけど、実際のとこは、音楽から
・意味性
・感情表出
・目的追求の意識
等々を完全に消し去るのはとても難しい事なんですね。聴く側がそれらを勝手に足してしまうので。単に無機的で無目的な音の連なりに過ぎない作品ってのは沢山あるけど、そういうのもまた当然、審美の対象ではない。ざっくり言い方を変えると;
音楽から俗臭を完全に消し去るのは、とても難しい。
人が音楽を聴いて「美しい」と言う時、それはたいてい音楽そのものの美についてではなく、音楽によって連想された何物かについてを述べてるのだよ。
云々
じゃあメロディなんてどーでもいいのかというと、そうではないです。
先に動画を貼ったモンローズの"The Circle Be Unbroken"。これはアメイジング・グレイスの変形。だけど、ぱっと聴いてそうだと分かる人いますか?私には分かりません。理屈では理解できてる現状でも、聴いた感じでは依然、全く別の曲。こういうとこ、メロディって不思議だよね。
メロディ枯渇論みたいの、あるじゃないですか。早くは1960年代ごろから言われ始めてたとか。
メロディ 枯渇 -google検索
メロディを「音符の組み合わせ」と捉えると、この考え方に陥りやすい。まあ中学生とか、わりと誰でもこれは考える事ですよねっていうか、私は中学の時にここに墜ちました。ラジオ等でポップスを聴き始めて4~5年目の頃。現在の私は以下のように考えてます;
先に書いたように、メロディの多様性と新しさを重視するのは、音楽史上のごく一時期の傾向にすぎない。それはまた、音楽が大衆化した時代でもある。従って;
大衆音楽は、メロディの多様性と新しさを重視する。
ならば、メロディが枯渇すれば、大衆音楽は衰退する。私的には、大衆音楽が衰退してもとくに困らない。むしろ、大衆音楽ってたいがいゴミなんで、衰退してくれちゃった方が良いかも。
とはまた別に;
これも先にも書いた通り、メロディって音楽にとって最も重要な要素じゃないです。更に言うと、多様性も新しさ(斬新さ・新奇さ)も、べつになくてもかまわない。そういうのが全て涸れきっても、私たちは何かしら「新しい音楽」を作り続けなければならないし、そして実際とこ、音楽は現在でも少しずつ新しくなり続けてる。
だからメロディなんてどーでもいい、という事でもないんですよねえ。
というか、どーでもいいなんて言い始めたら、リズムだってどーでもいいし、楽器の音色とか、アレンジとか、その他もろもろの全てだってどーでもいいって事になります。音楽では、どれか一つだけが重要ってことは無いんですね。というのを踏まえたうえで、メロディーに新しさとか多様性とか、あるいは美しさだとか、そういうのべつに要らないけど、だからと言ってメロディなんてどーでもいいのでもない。それでまあ、モンローズの"The Circle Be Unbroken"は良いなって話し。
1930年代にはカーター・ファミリーやモンロー兄弟のような、アパラチア地方出身の血縁グループが他にも数組いて、農民の伝承曲を仕立て直して、いわば「モダンにして」演奏するのが流行ってた。それが当時の人々にとっては、とても新鮮で素晴らしいものだったらしい。なんだけど当時の人にとっての新しさは、100年近くも後の時代になって聴いてる私にはちっとも分からない。どれも鄙びた、すごく昔のフォークソングって風にしか聴こえない。
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