新海誠と黒澤明
- 2018/01/15
- 08:30
新海誠と黒澤明、というタイトルの記事だけど、べつにこの二人を比較してどうこう言うのではなく、たまたま、12月の末から1月あたまの時期、つまりアニメ秋クールと冬クールの合い間の時期、つまり深夜アニメがちょっとお休みの時期に、この2監督の作品をまとめて見たというだけの事で、ただし見た順番が、
新海を3作品→黒澤を3作品
だったのが私的には重要で、ひとまとめの記事にするのが良いのでそうします。要約すると、
・私的に、新海作品はツボじゃない。
・でも何かと話題だし、一応見ておくか。
・3作品見て、やっぱつまらないけど、
・これはこれで良いのかなみたいな気がしてきた。
・けれどその直後、黒澤を見てその感想は吹っ飛んだ。
・結論;やっぱ新海はダメ。
以上の事について詳しく説明する記事を書くのは面倒というか、新海ファンからしたらディスってるみたいに思われちゃうかもな内容になるし。でも新海作品がダメというのは私にとってだけの事で、新海を見るなとか主張したいのではない。むしろ好きな人はどんどん見たらいい。
それと、黒澤作品は面白いのだけど、以前の記事にも書いた通りこの人の劇伴はダサい。その感想は今回見ても相変わらずで、だから黒澤作品が完璧な映像作品だとか永遠の名作だとか、そんな風にも思ってない。1950~60年代の痛快娯楽時代劇の中の傑作の一つ、というのが妥当な評価かな。
でもその痛快娯楽の痛快さが、ケタ違いに痛快なのだ。

つまりこの記事は、作品がすごく良かったから是非ともなテンションで書くのではなく、だから先に書いた要約以上の事を詳しく書くのは面倒なのだけど、作品の良し悪しとかとは別の事でやや是非とも書き残しておきたい事があるので書くのです。
でまともかく新海と黒澤の作品、都合6本をまとめて見る事になった経緯について。とその前に一応念のため、両監督についての基本情報を。
新海誠 -wiki、黒澤明 -wiki
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2016年の冬クールに「彼女と彼女の猫 -Everything Flows-」というショート・アニメが放映されました。これの原作は新海監督の「彼女と彼女の猫」という短編映画。ネットで見れるので、そちらも見ました。その感想は過去記事に書いた通りで、
2016冬アニメ、彼女と彼女の猫 2016/3/26
簡単に「とくに印象はなし」と書いたけど、これもうちょっと詳しく書くと、
「1990年代の頃に、こういうのあった。いまだにあるんすねえ、というかまあ、こういの定番化してるかも。」
みたいな感想だったです。今、ウィキの記事を読んだらオリジナル彼女の猫は1999年の作品だそうで、だったら90sぽくて当然か。
私が見たいアニメとは御流儀が違うんですよ。だからとくにディスりたいような事もなく、「君の名は」も当然のようにスルーで。
ところが2017年の3月から7月にかけて、テレビ朝日の深夜時間帯で新海誠特集3作品が放映され、私はそれらを録画しました。その3作とは、
言の葉の庭 -wiki
秒速5センチメートル -wiki
雲のむこう、約束の場所 -wiki
「彼女の猫」を見て自分にとってはツボじゃない作家だとは分かってるから、録画したけど見るの面倒で、でもそのうち見るかもだから消さないでいた。そして2017年の9月末、つまり夏クールと秋クールの合い間の時期に「言の葉」を見て、その3か月後の12月末に「秒速5」と「雲のむこう」を見た。
*)だから本当は2017年の暮に3本まとめて見たんじゃないんだけど、3カ月なんて誤差の範囲よろ。
何故つまらないと分かってる作品を録画したかというと、私の職場に新海作品が好きだという30代男性社員が一名いるんです。彼は;
・映画やアニメが好きだけど、
・とても熱心に好きなほどでもない、いわゆる「たしなむ程度」の人。
・ヲタクは嫌い、アキバは嫌いと明言してるのだが、
・「四月は君の嘘」が好きだという。
私にとっての「君嘘」は、演出がタルいお涙頂戴ものっぽいから初回で切った作品で、だから私の中には君嘘みたいのが好きな人が新海作品も好きらしいみたいな予測バイアスが生じてもしまったのだけど、
ともかくその30代の彼と私との、アニメ趣味の接点は乏しい事は明らかで、だけど私の職場ってのは従業員数が少ないんですよ。だから彼は数少ないアニメ仲間で、だからできることならば、共通の価値観に基づいてアニメの雑談をしたいじゃないですか。なのでこの場合は私の側から新海派に歩み寄る形で、せめて「新海作品にも良いところはあるぞ」くらいの事は思えるようになったらいいなと、そんな思惑で新海特集を3本録画し、1年近く放置したけどそれでもなんとか、年末の暇な時期にまとめて見れたという。
でまあそんな背景があるから、なるたけ良いとこを探すつもりで見てたわけです。すごく退屈だけど人畜無害系だから、さらっと見流せるのではある。それで、
・言の葉→くらきもい
・5cm→めめしい
・雲のむこう→凡作
というのが大まかな第一印象だったけど、上記の順番で見ていって3本目になる頃は、これはこれでまあ良いのかなと。少なくともその、私の職場の新海ファンとアニメの話になったら新海作品について「それなりに面白かったよ」程度の当たり障りのない言い草で言い逃れても私の良心は痛まないかもくらいの程度には、新海ワールドを受け入れられるようにはなりました@一時的に。つまり年明けてから黒澤作品を見た、それまでの数日間だけ、なんかそんなような気分になってたけど、それは勘違い。一時の気の迷いにすぎなかったです。
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2017年の暮だかにNHK BSで黒澤作品がまとめて何本か放映された。それを私の父が録画してて、私の自宅にはBSの電波きてませんので、親の家に行ったときその録画を見つけ、ついつい見てしまったのが以下の三本。
椿三十郎 -wiki
七人の侍 -wiki
用心棒 -wiki
あと「生きる」も録画されてたけど、それは見なかった。そして「七人」と「用心棒」は見た事あるし、そもそも私は黒澤作品がとても好きという程でもなく、ただ「椿三十郎」は見てない。なのでこれだけは見ておこうと。そしたらやはりというべきか、すこぶる面白いわけですよ。何かと語り草の、ラスト間際の斬り合いは当然すごいのだけど、私的に一番感銘を受けたシーンは別の箇所なのだな。
それはともかく、「三十郎」ラス前殺陣とわりと似た斬り合いが「七人」にもあるから、そこを見たくなった。「七人」は3時間ある映画だから、全部は見てられない。そのシーンは前半の方だからそこまで見て・・・・と思って見始めたら、やっぱりこの作品も面白くて全部見てしまった。じゃあもうこの際だから「用心棒」も見ときましょう。
という事で3作みたのだけど、新海作品との絡みについては、つまり「新海作品もまあなんとなく良いのかも」みたいなフワフワした気分をきれいに吹き飛ばすには「椿三十郎」一本で十分だったので、あとの2本は付けたりみたいなものです。
「椿三十郎」は冒頭から面白い。展開が早くて緊張感に満ちてる。お家騒動ものだから、それなりに入り組んだ背景と状況の説明をしなきゃだけど、必要最低限のセリフで大まかにアウトラインだけを了解させる手際とか上手いなあとか思ってるうち、どんどん作中に引き込まれてしまう。やっぱ映像作品を見てて面白いのはこのスピード感と緊張感。新海作品に、これは全くない要素だよなあ、などという事も思いながら見てたのだけど決定的だったのは;
椿三十郎が武家屋敷の門をドンドンと叩き「入れろ!」と怒鳴る。
だが返答なし。
と思ったら大門が開き騎馬隊がどっと出てくる。
それを身をかわし避けながら見送る三十郎を、膝くらいの低い位置のカメラが寄りながらアップ。
というシーン。
むちゃくちゃかっこいいんですよ。「これが映画だ!」と思っちゃいました。心底しびれる。まさに、これが映画だ。でまあ、職場の人に話を合わせるみたいな思惑があったとはいえ、新海作品みたいのをちょっとでも良いかもなどと思ってしまった自分をいたく恥じ、大いに反省いたしました。黒澤明にガーンと頭一発殴られたくらいの感触。彼はほんと、映画の神様かも知れんね。
という事で結局、私の新海作品に対する評価は2016年に「彼女の猫」を見た時と変わらずで、もはや職場の彼と新海作品について楽しく話すのも無理なもよお。というかアニメの話題全般を避ける方向だな今後は。
彼はギターを弾く人なのでもあります。Youtubeに何本かうpしてたりしてます。実は、私的には新海云々よりこっちの方が主たる関心事なのだ。いやそれも、彼のギターがどうこうというより;
ネット上には自称「おやじロッカー」みたいな人が大勢いて、懐メロックのコピーとかを披露してる。たいてい音痴で下手くそで、演るのも聴くのも大昔のヒット曲ばかり。私の職場のその彼は現在30才くらいだから10代の頃からネットを使ってて、そういう懐メロッカーを横目でチラチラ見ながら過ごしてきて、そんなおやじさん達を心底ダサいと思ってる。たぶん。まあそういう話しを私とする時は、私が懐メロッカーをダサいと思ってるからうんそうだそうだみたいなバイアスが掛かってるかもだけど、ともかく彼は、中高年が懐メロしか聴かなくなるのをダサい事だと思ってる。
統計的に、確率的に、いわゆる音楽ファンの大多数は、高齢化すると若い時に慣れ親しんだ曲しか聴かなくなる。これはまあ皆さんよくご存じの事。
ただ、ごく少数の人は高齢化しても、新しい音楽、聴いた事がない音楽への興味を失わず、若いころほどハイペースではないにしても、好きな音楽の範囲を広げ続ける。めったにいないレア・ケースですけど、けしてゼロではない。
高齢化して懐メロしか聴かなくなる、あるいは新しいものを受け入れられなくなる人と、そうはならない人がいる。その違いは何から生じるのだろうか?
あるいは、新しいものを受け入れられなくなるのは何時からなのだろうか?
新しいのを受け入れられなくなるのは、平均すると40代くらいからその傾向が表れ始めるでしょうかね?もちろんもっと早くからの人もいますけど、まあ大抵は、中高年と呼ばれる年齢になった頃にそうなる。だからこれは、加齢に伴う事柄なのだと思われてる。
ですが私はこの、懐メロ・オンリー・コースに落ちるかそうはならないかの分岐点は、もっとずっと早い時期にあると考えてます。早いってどのくらいかというと、音楽を好きになった最初の時期、10代の頃とか、人によってはもっと早く。その時に音楽をどう好きになったかで、その後に進む道はもうあらかた決まってる。
また、その人の音楽家としての能力の高低も関係ある。音楽を消化する能力が高ければ、高齢化しても音楽への興味は失われない。音楽家としての能力の土台を築けるのは遅くとも20代まで。ちょっと厳しいけど、運が良ければ20代でもギリ可能。という事で結論;
懐メロしか聴かない高齢者になるかどうかは、遅くとも20代にまでは決まってる。
これ、私がネット上の懐メロッカーさん達、あとロック等のポップスだけじゃなく、クラシックとかジャズとかの諸ジャンルの中高年音楽ファンのサイトを多数長期間ROMしてきた結果の、今のところの結論です。
だから、私の職場の30代の彼も将来、懐メロッカーになるかどうかは既に決まってる。私の目から見ると、彼は懐メロッカーへの道を絶賛進行中。日頃の発言とかギターの演奏能力から判断して、もうどう考えてもそっちコース。
と私には思われると、彼には告知してあります。何かの雑談からの流れで、つい口が滑った。いやまあ彼が懐メロッカーの事をあんまりバカにするような事を言うものだから、あんたも同じだよって。
私が懐メロッカーに対して懐メロッカーなどというさもバカにしたような呼び方をするのは、自分がそうはなりたくないと強く思ってるからで、一般的に、人が高齢化して昔を懐かしむばかりになるのを悪い事だと思ってるのではありません。例えば私の両親なんてもうヨボヨボで、それでも何か活き活きとした会話をこの二人と交わせるとしたら、それはほぼ全て遠い昔の思い出話。そしてそれは、とても楽しい事なのだ。老人が思い出に浸って、なに悪い事があろうか。
しかし現在50代の私と、その私にとっての音楽は、老人一般の問題とは違う。と思ってる。違わないかも知れない。かどうかを私自身の生涯を用いて現在検証中。
なんか新海黒澤とは関係ない事のための文字数が多くなってしまいましたが、つまりこっちの方が本当の関心事なのです。私のリアルの知り合いに、将来は懐メロッカーになるであろう30代男性がいて、彼はたまたまかもだけど、新海アニメも好きらしい、というお話でした。
でま、私は彼に私の考えを告ってしまったわけで、これが本当になるかどうか今後も長期間観察を続けたいのだけど、残念な事に彼は今年で辞めるんだって。てのはずいぶん前からそう言ってたので、だから君は将来おやじロッカーだよみたいなドギツい事も言われちゃうのかもだけど、ともかく私は彼の10年後20年後の姿を知る事は出来ないのだな。
私は彼に、おやじの道に堕ちて欲しくないからこれを告げたんじゃないです。人には出来る事と出来ない事がある。彼の進む道は既定路線。ただ、私が余計な事を言ったせいで変な捻じれが生じ、それでなんか逆恨みとかされないかは心配。まあ私は性格が悪い。新海作品のファンは、いわゆるナイーブな人が多いかもだから、職場や学校で何かしらの雑談をするにしても、相手は慎重に選びましょう。
老化すると懐メロしか聴かなくなるかならないかの問題は、いずれ別記事でちゃんと書く予定です。
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私の考える、新海作品の特徴;
・キャラクター・デザイン
中庸的で無難路線。誰からも熱烈に愛されないかわり、誰からもとくに嫌われない系。空気。
キャラが物語を作ってく、時には物語の枠を壊しさえもする、というタイプのキャラデザではなく、作者が定めた物語の枠内できちんと役割を果たす、操り人形型。
深夜アニメだとキャラデザ命みたいなとこあるけど、特徴的すぎるキャラデザは好き嫌いも分かれやすく、少数の人からしか支持されない。つまりマーケットが小さい。
劇場アニメは一回見るごとに課金される商品で、大きく儲けたいならキャラデザは無難路線が妥当。
この点、私が見たいアニメとは御流儀が違うのです。
・背景とか自然描写、水作画
「言の葉の庭」では、水作画が多い。すごく手数が掛ってると思うし2013年時点では画期的なものだったかもだけど、私的な感想は;
娯楽作品の中で、才能のない人が頑張って努力してる様を見せつけられるのは辛い。
才能が有ろうがなかろうが努力は必要だけど、それが作品の中に漏れ出てくるのはNG。テレビとかの報道番組・ニュースショーという形態の娯楽では努力が見世物にされる事は多いから、世間一般的には人が努力してる様を見物するのも娯楽なのかもだけど、映画でそれは、私はイヤだな。
先に書いた、「椿三十郎」の中で私的に一番ガツンと来たシーン、門が開いて騎馬隊がっていう、あの何十秒も無いシーンを一つ作るための労力って、たぶんものすごいと思うのですよ・・・というのは後から振り返って考えるとたぶんそうだろうなと思われてくる事で、映画見てる最中は、これ作るの大変だったろうななんて1mmも思ってない。三船敏郎をカメラで追っかけてたら偶然あの場面に遭遇した、くらいの自然さがある。自然さというか、臨場感、ライブ感がある。
実写とアニメを比べちゃダメと思う人もいるかもだけど、私はこれらを区別しない。優れた映像作品をそうでないのがあるだけ。肝心なのは、技量が高い人の仕事は意図性を感じさせない、という事。意図性が透けて見えるなら、それは作品じゃない、「説明」だ。スナップ写真の名手~木村伊兵衛とか~の写真も、てきとーに気ままにぱっぱと撮ったように見える。でも実際はそうじゃない場合も多いのだな。
黒澤映画の名シーンとかって、どれも短い。そんなのを作るために膨大な労力と予算を費やして。儚いものです。でもその一瞬が、見る人の心に一生消えないくらいの印象を残し、いつかまた新たな名シーンを生み出す種となる。
新海作品の、才気を感じさせないのに手数だけは多い水作画とか背景とかは、それらを見せるための時間を長めに使うという事もあり、見てるうち、私の時間をドブに捨てさせられたような気分になります。とても退屈。
なんだけど、そういうのが好きという人も多いのかもですよね。娯楽というのを、とくに何もすることのない余暇、持て余した時間を潰すためだけに利用するという人にとっては、新海作品って良いものなのかも。いや、「君の名は。」はすごく売れたらしいからそうかなと思うだけですが。
・1990年代っぽさ
これは曖昧なことだけど、ざっくり説明すると;
あってもなくてもいいような事柄を、何かしら特徴的な語り口で語る事で、なんか高級っぽいふいんきに見せかける作品。
てのがバブル期か、それが崩壊した頃だったかに現れ始めた、ような気がする。でもこれ間違いかも。浅田彰とか一部ではやりましたけど、そういうのの事。あと、中学生が考えた格言ぽいのを色紙に筆書きして路上で売るみたいの。私的には新海作品もその系統。バブル後遺症≒昭和の負の遺産みたいな、でも2010年代の日本ではこういうの、けっこう需要高いんですかねえ。
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とま、新海作品をディスってるかのような事ばかり書いてしまいましたけど、「君の名は。」が大ヒットした事はとても良い、目出度い事だと私は思ってます。映画産業というのは、映画館の経営も含めた、巨大な産業複合体なわけです。これを維持するのは大変。だからたまには大儲けしないとね。映画館が維持されてさえいれば、いつかまた私にとっても面白い映画に出会える可能性もあることでしょう。
私は「君の名は。」は見てません。映画館で見てないし、こないだの正月にテレビ放映されたけのもスルー。だからこれについては何も言えないけど、すごく売れた要因は、たまたまゴジラと抱き合わせた格好になり、高齢者の需要が一皮上乗せされた分もはずみになったのかなとも思います。日本の映画界にもまだ、上手く雪だるまを転がせば大儲けできるだけの潜在的需要はあるのですね。
商品を売る業界ってのは、キラー・コンテンツを生むためのキーワード・ストックみたいのを抱えてるもので、歌舞伎だったら勧進帳と忠臣蔵。映画ならゴジラと、それほどキラーじゃないかもだけど「君の名は」とかも。昔カシオが「カシオペア」という製品を売り出して、
カシオペア (コンピュータ) - Wiki
カシオ的にはこれに社運を賭けるくらいの意気込みだったらしいけど、見事に滑った。こういうのをしくじるのは痛い。「君の名は。」でそんな事にならなかったのは目出度い事ですよ。
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正月に3本みた黒澤映画のうち;
「七人の侍」は今回が3度目か4度目
「椿三十郎」は初
「用心棒」は2度目
「用心棒」を最初に見たのは、1980年代ごろのテレビ放映だったと思います。たぶん80年代。その一度きりしか見てないけど、ストーリーは単純ですし、場所と人物の絡みが良く整理されてて全体像を把握しやすいしで、だからすごく久しぶりに見たはずなのに既視感、良く覚えてる感は多かった。新鮮味が無い分あまり楽しめなかった、とも言える。
この映画はアメリカで翻案ものが作られてます。ブルース・ウィリス主演のラストマン・スタンディング。
ラストマン・スタンディング -wiki
私はこれ、たしか2000年代の初期頃にDVDを買って見ました。劇伴がライ・クーダーなんですよ。それを聴きたくて。「用心棒」のリメイクだというのも知ってたから、その点にも興味あった。でもこれウルトラ駄作で、原作の良さがひとかけらもない。でも劇伴を聴くため2回くらい見たかも。
それで、ラストマンスタンディングの画面を見ながら黒澤の方の絵を思い浮かべてたりもする。このシーンは「用心棒」の方ではたしかああだったみたいな。つまり一度しか見てない「用心棒」を記憶の中で反芻してる。という事があった分、一回しか見てないのにわりと良く記憶されてたのかも。でまあ、良く覚えてるだけに新鮮味は無い。
なのに、今回見て面白かった点が一つだけある。面白いというか、80年代の頃は気付かなかった事、あるいは気にもしてなかった事。それは;
「用心棒」には奇形見世物の要素が少しある。
神社縁日などで不具や奇形の人々を見物する見世物小屋。
見世物小屋 -wiki
私は入った事ないんだけど、中学生の頃、つまり70年代の末期、靖国神社の夏祭りに見世物小屋が立つのは知ってた。というかその近くまで行って遠巻きに見てた。
見世物小屋 靖国神社 -google
1970年代中期は女子プロレスが盛り上がってきた時期でもあって、女子プロレスと共に興行してた小人プロレスも、その頃はそういうのがあるのはわりと誰でも知ってる事だった。テレビでやってたし。
ミゼットプロレス -wiki
テレビで云々というより、小人症の人は町でよく見かけましたけどね。小人症だけでなく、様々な不具の人々。上野に行けば傷痍軍人という名のお乞食さん達もいたし。
傷痍軍人 -wiki
傷痍軍人 物乞い -google画像検索
↑の画像検索には戦後の焼け跡風景みたいな写真が並んでるけど、1970年代まで、もちろん少数ではあるけどいた。
1970年代、あるいは昭和50年代の東京は、そんなような世界だったです。いわゆる健常者の生活圏の外縁に障害者はちらほらと存在し、時々出くわすと横目で盗み見るようにしながらやり過ごす。
それが祭になると立場が逆転し、健常者がぐるりと輪になって障害者を取り囲み、ここぞとばかりにジロジロと眺めまわす。
しかし80年代になった頃からか、世の中の空気が変わり、お笑い芸人としての、あるいは笑われる対象としての小人、あるいは不具者はテレビから排除され現在に至る。この件に関して知りたい人は、例えば↓のリンク先の記事のいくつかを参照してください。
小人プロレス -google
私は見世物小屋に入った事はないけど、高校になってから寺山修司の映画「書を捨てよ」を見て、これは今思えば見世物小屋っぽかった。そしてまたその頃、奇形映画の小ブームみたいのがあった。
フリークス -wiki
イレイザーヘッド -wiki 1977
エレファントマン -wiki 1980
私はこれら3本とも見てない。PVの断片とかヒカシューのライブ会場でイメージ映像的に流されたのとかは見たっけな。そのヒカシューのアルバム、
うわさの人類 -wiki
これは持ってた。
奇形見世物を、いわゆる健常者の世界から完全に排除しようとする動きが起こってた時期に、そのカウンター的に奇形映画がちょっとだけ注目されてたのかもと、当時を振り返るとそうも思われてくるのだけど、ともかくそんな80年代の頃に私は「用心棒」を見た。それで例えばこのシーン↓

当時は「すげえ悪そうな奴ら」くらいにしか思ってなかった(はず)だけど、2018年に見ると、これって奇形見世物じゃんと思ってしまった。もちろん見世物小屋ほどあからさまな奇形見世物ではないけど、
・巨人症(丑寅の用心棒かんぬき)
・知能の欠如(新田の亥之吉)
・人間性の欠如(新田の卯之助)
といった様々な不具を抱えた異形の集団。フェリーニとチャンバラを混ぜたような映画だな。なんて事、80年代に見た時は考えもしなかった。気にするまでもない事だった。ところが現在の日本は小ぎれいな世界になって、先に紹介したような諸々に接する事が無くなった。知識として、あるいは記憶として、それらの事を知ってはいても、もはや日常生活の中に隣り合って存在してはいない。私の感覚も、いつの間にかいやがおうにも、小ぎれいな世界に慣らされてしまってた。だから現在「用心棒」を見ると、これに含まれてる見世物的な性格が、ことさら特徴的なように感じられてしまうのではなかろうか。
以上が、今回「用心棒」を見て最も面白かったというか、興味深く感じられた点です。
新海を3作品→黒澤を3作品
だったのが私的には重要で、ひとまとめの記事にするのが良いのでそうします。要約すると、
・私的に、新海作品はツボじゃない。
・でも何かと話題だし、一応見ておくか。
・3作品見て、やっぱつまらないけど、
・これはこれで良いのかなみたいな気がしてきた。
・けれどその直後、黒澤を見てその感想は吹っ飛んだ。
・結論;やっぱ新海はダメ。
以上の事について詳しく説明する記事を書くのは面倒というか、新海ファンからしたらディスってるみたいに思われちゃうかもな内容になるし。でも新海作品がダメというのは私にとってだけの事で、新海を見るなとか主張したいのではない。むしろ好きな人はどんどん見たらいい。
それと、黒澤作品は面白いのだけど、以前の記事にも書いた通りこの人の劇伴はダサい。その感想は今回見ても相変わらずで、だから黒澤作品が完璧な映像作品だとか永遠の名作だとか、そんな風にも思ってない。1950~60年代の痛快娯楽時代劇の中の傑作の一つ、というのが妥当な評価かな。
でもその痛快娯楽の痛快さが、ケタ違いに痛快なのだ。

つまりこの記事は、作品がすごく良かったから是非ともなテンションで書くのではなく、だから先に書いた要約以上の事を詳しく書くのは面倒なのだけど、作品の良し悪しとかとは別の事でやや是非とも書き残しておきたい事があるので書くのです。
でまともかく新海と黒澤の作品、都合6本をまとめて見る事になった経緯について。とその前に一応念のため、両監督についての基本情報を。
新海誠 -wiki、黒澤明 -wiki
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2016年の冬クールに「彼女と彼女の猫 -Everything Flows-」というショート・アニメが放映されました。これの原作は新海監督の「彼女と彼女の猫」という短編映画。ネットで見れるので、そちらも見ました。その感想は過去記事に書いた通りで、
2016冬アニメ、彼女と彼女の猫 2016/3/26
簡単に「とくに印象はなし」と書いたけど、これもうちょっと詳しく書くと、
「1990年代の頃に、こういうのあった。いまだにあるんすねえ、というかまあ、こういの定番化してるかも。」
みたいな感想だったです。今、ウィキの記事を読んだらオリジナル彼女の猫は1999年の作品だそうで、だったら90sぽくて当然か。
私が見たいアニメとは御流儀が違うんですよ。だからとくにディスりたいような事もなく、「君の名は」も当然のようにスルーで。
ところが2017年の3月から7月にかけて、テレビ朝日の深夜時間帯で新海誠特集3作品が放映され、私はそれらを録画しました。その3作とは、
言の葉の庭 -wiki
秒速5センチメートル -wiki
雲のむこう、約束の場所 -wiki
「彼女の猫」を見て自分にとってはツボじゃない作家だとは分かってるから、録画したけど見るの面倒で、でもそのうち見るかもだから消さないでいた。そして2017年の9月末、つまり夏クールと秋クールの合い間の時期に「言の葉」を見て、その3か月後の12月末に「秒速5」と「雲のむこう」を見た。
*)だから本当は2017年の暮に3本まとめて見たんじゃないんだけど、3カ月なんて誤差の範囲よろ。
何故つまらないと分かってる作品を録画したかというと、私の職場に新海作品が好きだという30代男性社員が一名いるんです。彼は;
・映画やアニメが好きだけど、
・とても熱心に好きなほどでもない、いわゆる「たしなむ程度」の人。
・ヲタクは嫌い、アキバは嫌いと明言してるのだが、
・「四月は君の嘘」が好きだという。
私にとっての「君嘘」は、演出がタルいお涙頂戴ものっぽいから初回で切った作品で、だから私の中には君嘘みたいのが好きな人が新海作品も好きらしいみたいな予測バイアスが生じてもしまったのだけど、
ともかくその30代の彼と私との、アニメ趣味の接点は乏しい事は明らかで、だけど私の職場ってのは従業員数が少ないんですよ。だから彼は数少ないアニメ仲間で、だからできることならば、共通の価値観に基づいてアニメの雑談をしたいじゃないですか。なのでこの場合は私の側から新海派に歩み寄る形で、せめて「新海作品にも良いところはあるぞ」くらいの事は思えるようになったらいいなと、そんな思惑で新海特集を3本録画し、1年近く放置したけどそれでもなんとか、年末の暇な時期にまとめて見れたという。
でまあそんな背景があるから、なるたけ良いとこを探すつもりで見てたわけです。すごく退屈だけど人畜無害系だから、さらっと見流せるのではある。それで、
・言の葉→くらきもい
・5cm→めめしい
・雲のむこう→凡作
というのが大まかな第一印象だったけど、上記の順番で見ていって3本目になる頃は、これはこれでまあ良いのかなと。少なくともその、私の職場の新海ファンとアニメの話になったら新海作品について「それなりに面白かったよ」程度の当たり障りのない言い草で言い逃れても私の良心は痛まないかもくらいの程度には、新海ワールドを受け入れられるようにはなりました@一時的に。つまり年明けてから黒澤作品を見た、それまでの数日間だけ、なんかそんなような気分になってたけど、それは勘違い。一時の気の迷いにすぎなかったです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017年の暮だかにNHK BSで黒澤作品がまとめて何本か放映された。それを私の父が録画してて、私の自宅にはBSの電波きてませんので、親の家に行ったときその録画を見つけ、ついつい見てしまったのが以下の三本。
椿三十郎 -wiki
七人の侍 -wiki
用心棒 -wiki
あと「生きる」も録画されてたけど、それは見なかった。そして「七人」と「用心棒」は見た事あるし、そもそも私は黒澤作品がとても好きという程でもなく、ただ「椿三十郎」は見てない。なのでこれだけは見ておこうと。そしたらやはりというべきか、すこぶる面白いわけですよ。何かと語り草の、ラスト間際の斬り合いは当然すごいのだけど、私的に一番感銘を受けたシーンは別の箇所なのだな。
それはともかく、「三十郎」ラス前殺陣とわりと似た斬り合いが「七人」にもあるから、そこを見たくなった。「七人」は3時間ある映画だから、全部は見てられない。そのシーンは前半の方だからそこまで見て・・・・と思って見始めたら、やっぱりこの作品も面白くて全部見てしまった。じゃあもうこの際だから「用心棒」も見ときましょう。
という事で3作みたのだけど、新海作品との絡みについては、つまり「新海作品もまあなんとなく良いのかも」みたいなフワフワした気分をきれいに吹き飛ばすには「椿三十郎」一本で十分だったので、あとの2本は付けたりみたいなものです。
「椿三十郎」は冒頭から面白い。展開が早くて緊張感に満ちてる。お家騒動ものだから、それなりに入り組んだ背景と状況の説明をしなきゃだけど、必要最低限のセリフで大まかにアウトラインだけを了解させる手際とか上手いなあとか思ってるうち、どんどん作中に引き込まれてしまう。やっぱ映像作品を見てて面白いのはこのスピード感と緊張感。新海作品に、これは全くない要素だよなあ、などという事も思いながら見てたのだけど決定的だったのは;
椿三十郎が武家屋敷の門をドンドンと叩き「入れろ!」と怒鳴る。
だが返答なし。
と思ったら大門が開き騎馬隊がどっと出てくる。
それを身をかわし避けながら見送る三十郎を、膝くらいの低い位置のカメラが寄りながらアップ。
というシーン。
むちゃくちゃかっこいいんですよ。「これが映画だ!」と思っちゃいました。心底しびれる。まさに、これが映画だ。でまあ、職場の人に話を合わせるみたいな思惑があったとはいえ、新海作品みたいのをちょっとでも良いかもなどと思ってしまった自分をいたく恥じ、大いに反省いたしました。黒澤明にガーンと頭一発殴られたくらいの感触。彼はほんと、映画の神様かも知れんね。
という事で結局、私の新海作品に対する評価は2016年に「彼女の猫」を見た時と変わらずで、もはや職場の彼と新海作品について楽しく話すのも無理なもよお。というかアニメの話題全般を避ける方向だな今後は。
彼はギターを弾く人なのでもあります。Youtubeに何本かうpしてたりしてます。実は、私的には新海云々よりこっちの方が主たる関心事なのだ。いやそれも、彼のギターがどうこうというより;
ネット上には自称「おやじロッカー」みたいな人が大勢いて、懐メロックのコピーとかを披露してる。たいてい音痴で下手くそで、演るのも聴くのも大昔のヒット曲ばかり。私の職場のその彼は現在30才くらいだから10代の頃からネットを使ってて、そういう懐メロッカーを横目でチラチラ見ながら過ごしてきて、そんなおやじさん達を心底ダサいと思ってる。たぶん。まあそういう話しを私とする時は、私が懐メロッカーをダサいと思ってるからうんそうだそうだみたいなバイアスが掛かってるかもだけど、ともかく彼は、中高年が懐メロしか聴かなくなるのをダサい事だと思ってる。
統計的に、確率的に、いわゆる音楽ファンの大多数は、高齢化すると若い時に慣れ親しんだ曲しか聴かなくなる。これはまあ皆さんよくご存じの事。
ただ、ごく少数の人は高齢化しても、新しい音楽、聴いた事がない音楽への興味を失わず、若いころほどハイペースではないにしても、好きな音楽の範囲を広げ続ける。めったにいないレア・ケースですけど、けしてゼロではない。
高齢化して懐メロしか聴かなくなる、あるいは新しいものを受け入れられなくなる人と、そうはならない人がいる。その違いは何から生じるのだろうか?
あるいは、新しいものを受け入れられなくなるのは何時からなのだろうか?
新しいのを受け入れられなくなるのは、平均すると40代くらいからその傾向が表れ始めるでしょうかね?もちろんもっと早くからの人もいますけど、まあ大抵は、中高年と呼ばれる年齢になった頃にそうなる。だからこれは、加齢に伴う事柄なのだと思われてる。
ですが私はこの、懐メロ・オンリー・コースに落ちるかそうはならないかの分岐点は、もっとずっと早い時期にあると考えてます。早いってどのくらいかというと、音楽を好きになった最初の時期、10代の頃とか、人によってはもっと早く。その時に音楽をどう好きになったかで、その後に進む道はもうあらかた決まってる。
また、その人の音楽家としての能力の高低も関係ある。音楽を消化する能力が高ければ、高齢化しても音楽への興味は失われない。音楽家としての能力の土台を築けるのは遅くとも20代まで。ちょっと厳しいけど、運が良ければ20代でもギリ可能。という事で結論;
懐メロしか聴かない高齢者になるかどうかは、遅くとも20代にまでは決まってる。
これ、私がネット上の懐メロッカーさん達、あとロック等のポップスだけじゃなく、クラシックとかジャズとかの諸ジャンルの中高年音楽ファンのサイトを多数長期間ROMしてきた結果の、今のところの結論です。
だから、私の職場の30代の彼も将来、懐メロッカーになるかどうかは既に決まってる。私の目から見ると、彼は懐メロッカーへの道を絶賛進行中。日頃の発言とかギターの演奏能力から判断して、もうどう考えてもそっちコース。
と私には思われると、彼には告知してあります。何かの雑談からの流れで、つい口が滑った。いやまあ彼が懐メロッカーの事をあんまりバカにするような事を言うものだから、あんたも同じだよって。
私が懐メロッカーに対して懐メロッカーなどというさもバカにしたような呼び方をするのは、自分がそうはなりたくないと強く思ってるからで、一般的に、人が高齢化して昔を懐かしむばかりになるのを悪い事だと思ってるのではありません。例えば私の両親なんてもうヨボヨボで、それでも何か活き活きとした会話をこの二人と交わせるとしたら、それはほぼ全て遠い昔の思い出話。そしてそれは、とても楽しい事なのだ。老人が思い出に浸って、なに悪い事があろうか。
しかし現在50代の私と、その私にとっての音楽は、老人一般の問題とは違う。と思ってる。違わないかも知れない。かどうかを私自身の生涯を用いて現在検証中。
なんか新海黒澤とは関係ない事のための文字数が多くなってしまいましたが、つまりこっちの方が本当の関心事なのです。私のリアルの知り合いに、将来は懐メロッカーになるであろう30代男性がいて、彼はたまたまかもだけど、新海アニメも好きらしい、というお話でした。
でま、私は彼に私の考えを告ってしまったわけで、これが本当になるかどうか今後も長期間観察を続けたいのだけど、残念な事に彼は今年で辞めるんだって。てのはずいぶん前からそう言ってたので、だから君は将来おやじロッカーだよみたいなドギツい事も言われちゃうのかもだけど、ともかく私は彼の10年後20年後の姿を知る事は出来ないのだな。
私は彼に、おやじの道に堕ちて欲しくないからこれを告げたんじゃないです。人には出来る事と出来ない事がある。彼の進む道は既定路線。ただ、私が余計な事を言ったせいで変な捻じれが生じ、それでなんか逆恨みとかされないかは心配。まあ私は性格が悪い。新海作品のファンは、いわゆるナイーブな人が多いかもだから、職場や学校で何かしらの雑談をするにしても、相手は慎重に選びましょう。
老化すると懐メロしか聴かなくなるかならないかの問題は、いずれ別記事でちゃんと書く予定です。
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私の考える、新海作品の特徴;
・キャラクター・デザイン
中庸的で無難路線。誰からも熱烈に愛されないかわり、誰からもとくに嫌われない系。空気。
キャラが物語を作ってく、時には物語の枠を壊しさえもする、というタイプのキャラデザではなく、作者が定めた物語の枠内できちんと役割を果たす、操り人形型。
深夜アニメだとキャラデザ命みたいなとこあるけど、特徴的すぎるキャラデザは好き嫌いも分かれやすく、少数の人からしか支持されない。つまりマーケットが小さい。
劇場アニメは一回見るごとに課金される商品で、大きく儲けたいならキャラデザは無難路線が妥当。
この点、私が見たいアニメとは御流儀が違うのです。
・背景とか自然描写、水作画
「言の葉の庭」では、水作画が多い。すごく手数が掛ってると思うし2013年時点では画期的なものだったかもだけど、私的な感想は;
娯楽作品の中で、才能のない人が頑張って努力してる様を見せつけられるのは辛い。
才能が有ろうがなかろうが努力は必要だけど、それが作品の中に漏れ出てくるのはNG。テレビとかの報道番組・ニュースショーという形態の娯楽では努力が見世物にされる事は多いから、世間一般的には人が努力してる様を見物するのも娯楽なのかもだけど、映画でそれは、私はイヤだな。
先に書いた、「椿三十郎」の中で私的に一番ガツンと来たシーン、門が開いて騎馬隊がっていう、あの何十秒も無いシーンを一つ作るための労力って、たぶんものすごいと思うのですよ・・・というのは後から振り返って考えるとたぶんそうだろうなと思われてくる事で、映画見てる最中は、これ作るの大変だったろうななんて1mmも思ってない。三船敏郎をカメラで追っかけてたら偶然あの場面に遭遇した、くらいの自然さがある。自然さというか、臨場感、ライブ感がある。
実写とアニメを比べちゃダメと思う人もいるかもだけど、私はこれらを区別しない。優れた映像作品をそうでないのがあるだけ。肝心なのは、技量が高い人の仕事は意図性を感じさせない、という事。意図性が透けて見えるなら、それは作品じゃない、「説明」だ。スナップ写真の名手~木村伊兵衛とか~の写真も、てきとーに気ままにぱっぱと撮ったように見える。でも実際はそうじゃない場合も多いのだな。
黒澤映画の名シーンとかって、どれも短い。そんなのを作るために膨大な労力と予算を費やして。儚いものです。でもその一瞬が、見る人の心に一生消えないくらいの印象を残し、いつかまた新たな名シーンを生み出す種となる。
新海作品の、才気を感じさせないのに手数だけは多い水作画とか背景とかは、それらを見せるための時間を長めに使うという事もあり、見てるうち、私の時間をドブに捨てさせられたような気分になります。とても退屈。
なんだけど、そういうのが好きという人も多いのかもですよね。娯楽というのを、とくに何もすることのない余暇、持て余した時間を潰すためだけに利用するという人にとっては、新海作品って良いものなのかも。いや、「君の名は。」はすごく売れたらしいからそうかなと思うだけですが。
・1990年代っぽさ
これは曖昧なことだけど、ざっくり説明すると;
あってもなくてもいいような事柄を、何かしら特徴的な語り口で語る事で、なんか高級っぽいふいんきに見せかける作品。
てのがバブル期か、それが崩壊した頃だったかに現れ始めた、ような気がする。でもこれ間違いかも。浅田彰とか一部ではやりましたけど、そういうのの事。あと、中学生が考えた格言ぽいのを色紙に筆書きして路上で売るみたいの。私的には新海作品もその系統。バブル後遺症≒昭和の負の遺産みたいな、でも2010年代の日本ではこういうの、けっこう需要高いんですかねえ。
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とま、新海作品をディスってるかのような事ばかり書いてしまいましたけど、「君の名は。」が大ヒットした事はとても良い、目出度い事だと私は思ってます。映画産業というのは、映画館の経営も含めた、巨大な産業複合体なわけです。これを維持するのは大変。だからたまには大儲けしないとね。映画館が維持されてさえいれば、いつかまた私にとっても面白い映画に出会える可能性もあることでしょう。
私は「君の名は。」は見てません。映画館で見てないし、こないだの正月にテレビ放映されたけのもスルー。だからこれについては何も言えないけど、すごく売れた要因は、たまたまゴジラと抱き合わせた格好になり、高齢者の需要が一皮上乗せされた分もはずみになったのかなとも思います。日本の映画界にもまだ、上手く雪だるまを転がせば大儲けできるだけの潜在的需要はあるのですね。
商品を売る業界ってのは、キラー・コンテンツを生むためのキーワード・ストックみたいのを抱えてるもので、歌舞伎だったら勧進帳と忠臣蔵。映画ならゴジラと、それほどキラーじゃないかもだけど「君の名は」とかも。昔カシオが「カシオペア」という製品を売り出して、
カシオペア (コンピュータ) - Wiki
カシオ的にはこれに社運を賭けるくらいの意気込みだったらしいけど、見事に滑った。こういうのをしくじるのは痛い。「君の名は。」でそんな事にならなかったのは目出度い事ですよ。
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正月に3本みた黒澤映画のうち;
「七人の侍」は今回が3度目か4度目
「椿三十郎」は初
「用心棒」は2度目
「用心棒」を最初に見たのは、1980年代ごろのテレビ放映だったと思います。たぶん80年代。その一度きりしか見てないけど、ストーリーは単純ですし、場所と人物の絡みが良く整理されてて全体像を把握しやすいしで、だからすごく久しぶりに見たはずなのに既視感、良く覚えてる感は多かった。新鮮味が無い分あまり楽しめなかった、とも言える。
この映画はアメリカで翻案ものが作られてます。ブルース・ウィリス主演のラストマン・スタンディング。
ラストマン・スタンディング -wiki
私はこれ、たしか2000年代の初期頃にDVDを買って見ました。劇伴がライ・クーダーなんですよ。それを聴きたくて。「用心棒」のリメイクだというのも知ってたから、その点にも興味あった。でもこれウルトラ駄作で、原作の良さがひとかけらもない。でも劇伴を聴くため2回くらい見たかも。
それで、ラストマンスタンディングの画面を見ながら黒澤の方の絵を思い浮かべてたりもする。このシーンは「用心棒」の方ではたしかああだったみたいな。つまり一度しか見てない「用心棒」を記憶の中で反芻してる。という事があった分、一回しか見てないのにわりと良く記憶されてたのかも。でまあ、良く覚えてるだけに新鮮味は無い。
なのに、今回見て面白かった点が一つだけある。面白いというか、80年代の頃は気付かなかった事、あるいは気にもしてなかった事。それは;
「用心棒」には奇形見世物の要素が少しある。
神社縁日などで不具や奇形の人々を見物する見世物小屋。
見世物小屋 -wiki
私は入った事ないんだけど、中学生の頃、つまり70年代の末期、靖国神社の夏祭りに見世物小屋が立つのは知ってた。というかその近くまで行って遠巻きに見てた。
見世物小屋 靖国神社 -google
1970年代中期は女子プロレスが盛り上がってきた時期でもあって、女子プロレスと共に興行してた小人プロレスも、その頃はそういうのがあるのはわりと誰でも知ってる事だった。テレビでやってたし。
ミゼットプロレス -wiki
テレビで云々というより、小人症の人は町でよく見かけましたけどね。小人症だけでなく、様々な不具の人々。上野に行けば傷痍軍人という名のお乞食さん達もいたし。
傷痍軍人 -wiki
傷痍軍人 物乞い -google画像検索
↑の画像検索には戦後の焼け跡風景みたいな写真が並んでるけど、1970年代まで、もちろん少数ではあるけどいた。
1970年代、あるいは昭和50年代の東京は、そんなような世界だったです。いわゆる健常者の生活圏の外縁に障害者はちらほらと存在し、時々出くわすと横目で盗み見るようにしながらやり過ごす。
それが祭になると立場が逆転し、健常者がぐるりと輪になって障害者を取り囲み、ここぞとばかりにジロジロと眺めまわす。
しかし80年代になった頃からか、世の中の空気が変わり、お笑い芸人としての、あるいは笑われる対象としての小人、あるいは不具者はテレビから排除され現在に至る。この件に関して知りたい人は、例えば↓のリンク先の記事のいくつかを参照してください。
小人プロレス -google
私は見世物小屋に入った事はないけど、高校になってから寺山修司の映画「書を捨てよ」を見て、これは今思えば見世物小屋っぽかった。そしてまたその頃、奇形映画の小ブームみたいのがあった。
フリークス -wiki
イレイザーヘッド -wiki 1977
エレファントマン -wiki 1980
私はこれら3本とも見てない。PVの断片とかヒカシューのライブ会場でイメージ映像的に流されたのとかは見たっけな。そのヒカシューのアルバム、
うわさの人類 -wiki
これは持ってた。
奇形見世物を、いわゆる健常者の世界から完全に排除しようとする動きが起こってた時期に、そのカウンター的に奇形映画がちょっとだけ注目されてたのかもと、当時を振り返るとそうも思われてくるのだけど、ともかくそんな80年代の頃に私は「用心棒」を見た。それで例えばこのシーン↓

当時は「すげえ悪そうな奴ら」くらいにしか思ってなかった(はず)だけど、2018年に見ると、これって奇形見世物じゃんと思ってしまった。もちろん見世物小屋ほどあからさまな奇形見世物ではないけど、
・巨人症(丑寅の用心棒かんぬき)
・知能の欠如(新田の亥之吉)
・人間性の欠如(新田の卯之助)
といった様々な不具を抱えた異形の集団。フェリーニとチャンバラを混ぜたような映画だな。なんて事、80年代に見た時は考えもしなかった。気にするまでもない事だった。ところが現在の日本は小ぎれいな世界になって、先に紹介したような諸々に接する事が無くなった。知識として、あるいは記憶として、それらの事を知ってはいても、もはや日常生活の中に隣り合って存在してはいない。私の感覚も、いつの間にかいやがおうにも、小ぎれいな世界に慣らされてしまってた。だから現在「用心棒」を見ると、これに含まれてる見世物的な性格が、ことさら特徴的なように感じられてしまうのではなかろうか。
以上が、今回「用心棒」を見て最も面白かったというか、興味深く感じられた点です。
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