推論と創作、その1
- 2018/02/12
- 05:37
趣味のための入門書や教則本は昔からあるけど近年は、作品を作る事、つまり創作を目標に掲げてるものが増えてきたかも知れない。作曲の方法とかシンセサイザーを作るとか、小説の書き方マンガの描き方CGソフトの使い方その他諸々。
また、何かを作ったり道具の使い方を練習する趣味ではない、もちょっと勉強っぽい入門書、つまり例えば数学や物理の入門書・啓蒙書の類でも、最近は出版点数が多いし、しかもその内容が試験勉強に役立つとか物知りになりましょう的な事より、いわゆる本質的理解の重要性を説く本が増えてきたかも知れない。
ちゃんと統計を取って調べたのではなく、アマゾン等をざっと見渡して、そう思われるというだけの話しで、しかしここ数年で放映されたアニメや連載中のマンガでも、創作を題材にした作品は増えてるかもだし、メイカーズムーブメントというのが興って2008年からアメリカでイベントが催され、日本でもやってる。
メイカーズムーブメント -wiki
Maker Faire -wiki
Maker Faire Tokyo 2017 -公式サイト
ビッグサイトの東7-8ホールで二日間だから、そこそこ大きなイベント。Maker Faireとは別の、これと同規模の物作りイベントは他にもある。
等々の事を合わせてみると、やはり近年は創作への気運が高まってるのかなと、そう考えても大筋では間違いなさそうです。でもなぜだろうか?私が思い付けた理由は6つ;
1. 趣味の多様化
昭和の頃の大人の趣味と言えば、平日の夜はテレビで野球見て、休日は一日中ごろ寝。どっか出かけるとしたらパチンコか競馬。稼ぎの良い人はゴルフ。あとは草野球とかママさんバレーとか。
まあこれひどく雑な単純化ですけど、昭和なんてそんなもんってのはある程度ホントの話。そこでこれらに、
・テレビ→受動的
・ギャンブルとかゴルフ→消費的
というキーワードを与えてみる。スポーツも体力を消費するという意味では消費的(と言えなくもない)。つまり、昭和の趣味とは受動的で消費的だった。しかし近年は趣味が多様化し、以前には無かった欲求が生じたのなら、上記2語の反対、つまり
・能動的で生産的
な趣味をしたいと思う人が増えるのは、自然な流れかもしれません。ある世代より下の層はテレビをあまり見ないし、給料が減っちゃったので金を捨てる遊びなんてしてられないという事もありますし。
そして、能動的で生産的な活動といったら、自分で作業して何かしらを作る、それもなるたけなら役に立つ物を作る。それを余暇に行うならそれがつまり、創作を目指す趣味という事になろうかと思います。
2. ゆとり教育の影響
2002年から2010年代初期まで行われてた、通称ゆとり教育。
ゆとり教育 -wiki
詰め込み式の是正、思考力を鍛える、主体的に考える、体験学習、個性を重視、表現力の育成、等々がキャッチフレーズで、当初から賛否両論あったけど尻すぼみで終了。しかし世間の風潮には多かれ少なかれ影響を与え、それはゆとり教育を受けてない世代にまで及んでる(かも)。そして、ゆとりの方針に沿う、あるいは補強する方向で趣味の教科書を作るなら、暗記より本質理解、お手本通りより自分らしさ、自分にしか作れないものを重視する内容になるだろうから、そういう本が増えたのかも。
3. 生きた証(あかし)を残したい
人が人生を終えるとき、子供と財産を残したい。いや、残さねばならぬ、というような人生観・価値観の支配力は、ある時期まで強力だったけど、近年は子供を作らず(あるいは作れず)、財産を残さず(あるいは残せずに)、人生を終えそうな人が増えた。
人間にとって、この世に自分が存在した証を残したいというのは強い欲求で、昭和の頃までは大人になったら結婚して子供を作って働いて貯金して、という生涯イメージ、人生設計が多くの人に共有されてたけど、近年はそうではない。しかしそうなると、何も残せず死んでいく。そして誰からも思い出されず消えてしまう。その死後のイメージは寂しいというより、強い恐怖を引き起こす。どうせ死んだら何も思わなくなるかもとも思いつつ、しかし生きてる人間ってのは死んだ後の事を思いながら、今をどう生きようかと考える。
そのため、子供や財産の代わりの生きた証として、何か作品を残したいと思う人も増えてるのかも知れません。
4. やり残した事をやりたい
人は高齢化すると新しい事への興味は薄らぎ、自分の過去を振り返る事が多くなる。すると、時間が経つと出来事を遠くから見れるようになる効果のおかげで、例えばひどい失敗をしたとか、上手くいかなかった何かが過去にあって、その直後は思い出したくもない。忘れたい。だけど何年も、あるいは何十年も経てば、それらも自分史の中のしかるべき位置に、私自身の正当な一部分として組み込めるようになる(ならない人もいる)。
組み込める人の場合、自分の余命を思いつつ来し方を眺め渡せば、完成に近づきつつある自分史の全体像には所どころ穴がある、という感想が生じたりもする。やはり失敗は失敗なので、そこは私にとっての欠落部分。年輪を重ねた幹に虫食い穴がいくつかあるような状態。
自分にまだ伸びしろがあるなら、新たな年輪を重ねて幹を太くしてもいい。つまり例えば、今までした事がない新しい趣味を始めるのもいい。けれど、虫食い穴を埋めて自分の幹を完全なものにするのでもいい。
どっちでもいいけど穴埋めの方を選んだならば例えば、子供の頃に習った楽器を再び練習するとか、勉強で苦手だった数学を等々。
ただし昔の勉強法、つまり昭和の詰め込み式で試験勉強したって今さら無意味だし、だいたい自分が昔うまくいかなかったのは当時の勉強法が良くなかったからかもだし、ところが近頃は以前と毛色の違う教科書がいろいろあるようだから、これを試してみよう。という人も増えてると思われます。作品を残すとかより、まずは新しい学び方でやり直したい需要。
5. 自己の優位性・有用性を示したい
死んだらどうなるみたいな重たい話しではなく、あるいは、死んだ自分とどこかの誰かとの関係ではなく、生きてる者同士で関わり合う趣味。その意義には、
・下手の横好き達が集まって楽しいひと時を過ごす
・趣味を介して公益に貢献する
・互いに協力し合い技能を高める
・互いの優劣を比べる
等々があり、その中の、優劣を重視するタイプの人。自己の存在意義を他者に対する優位性・有用性に求める人にとっての趣味の意義とは、
・本業では充たされてない欲求の補償。
・あるいは、本業で十分高評価されてるのだから趣味でも同様に、という人。
・あるいは、死後に残す子供と財産は既に確保済みだが、家庭内での評価が芳しくない人。
したくもない仕事をして嫁と子を養ってるのに、たまに家でギターを弾くとダサい下手くそオヤジ扱いされるのはキツい。これはなんとかしてどうにかしたい。
自分がエリートであるのを誇示する趣味は昔からあった。ゴルフとか、子供にピアノを習わせるとか、ムツかしそうな本を読むとか。でも今はそういうの流行らなくて、近頃の教科書は創作っぽいのが増えてる。人より優れてないわけにはいかない立場からすると、その流れに乗らないわけにもいかない。なのでこのタイプの人も創作に興味を持つかも。
ただ、他人に対する優位性とは相対的なもので、仲間のレベルを下げる事で自分のポジションを上げられもする。つまり周りを蹴落とせば勝ち残れる。しかし現実の人間関係、つまり学校のクラスとか部活とか、会社とか家庭で、自分より劣る仲間集めをするのは困難で、ところがネットでは容易。少なくともリアルよりは容易。上には上があるし、下には下がある。という事情があるため、とくに趣味の世界では実力がない人でも優越性を示すのは可能。
だから、このタイプの人が創作しようとか、それが上手くいかないとかの事は大した問題ではないのだけど、仲間集めはしなきゃいけないし優位性も示さなきゃだから、発言数は多い。ネットでの発言数とは、ブログの更新頻度とかアマゾン等のレビューとか。
ブログはわりとどうでもいいというか、むしろどんどん面白い事を書いて下さる方がいいのだけど、販売サイトのレビューはブログよりかは公的なものだし、それに何より教科書類を購入する事で需要増もに貢献してるのだろうし、だからこのタイプの人も無視するわけにはいかない。
発言数が多い分、創作できない人は何故できないのかを考えるのに役立つ資料を多目に提供してくれるのでもあります。
6. 人格の多相化
多層化ではなく多「相」化。一人の人が多くの相(かお)を持つという事。インターネットが普及して、素人が作文や制作物を発表する機会が増えた。わりと一部の人が電話代を払いながら始めたのが約20年前で、ブログがブームみたいになったのが約10年前。そこそこ長い。ほぼ全員が匿名かハンドルネームで利用します。最初の頃は、
・会社に行って働いてるのが本物の自分で、ネットでなんかしてるのはバーチャルの自分。
という感覚の人が多かったと思う。ネットは本物じゃない。ちょっと後ろめたい。その代わりリアルじゃ言えないような事も言えちゃう。しかし10年も経てば世の中は変わって人の心も変わる。最初の頃こそ、
・片方は本物、もう一方は贋物
だったけど、やがて
・片方は、もう一人の自分
となり、それが更に
・どちらも、本物の自分
という風に段々と、本名とハンドルネームを別扱いしなきゃいけない理由もないように思われてくる。そして、一人の私が場面に応じて複数の相、複数の人格を使い分けられる事の有意義性、利用価値に気付く。
わりとどこの国でも、昔の偉い人≒権力者は名前を複数持っていた。一人の人間に一つだけの戸籍、一つだけの人格、一つだけの名前という風に、一人格一名が固定的になったのは強力な中央集権権力による統合支配が可能になって以降、つまり近代以降で、その前の世界は多重権力的。複雑な権力構造が網の目のように張り巡らされてる。だから個人と権力とを結ぶ接続線の形式が、
・中央集権はスター型
・封建社会はメッシュ型
になっていて、封建社会はツリー型と説明されるかもだけど、実態はもっとごちゃごちゃ。権力者とはネットワーク上の結節点,nodeの役目を担ってるからこそ権力者なのであり、そこから延びる配線ごとに名前がある格好。スター接続なら一つしか許されず、メッシュなら人によって多かったり少なかったり。昔の人にとって、一人の自分が複数の名前を持ってるのは、わりと普通の事だった。あと、年齢に応じて改名もするし。
現在でも社会ロールごとの呼称は複数ある。つまり中年男性某氏は家庭において夫であり父であり会社においては部長の部下であり平社員の上司でもあり云々。でもそれはあくまでも本名に添えられる肩書で、人格が多相化してるとまでは言えない。というか多相化しちゃってたら背徳的なような後ろめたさがある。ですが、そういう現代人の常識から離脱する人は増えてるかもで、昔の事なんて知らなくても、かつて通用してた方式に回帰するのはわりと容易。そして、この感覚を趣味のあり方に当てはめるなら、
・本業の私と趣味の私、どっちも本物
という事にもなりましょう。そして、本業とは生きるためにしてる事なら、趣味だって生きるためにしてる事。あるいは本業が自己実現のためのものなら趣味も同様。ならば、本業をテキトーに済ましてはいけないなら趣味だって、趣味だからレベルが低くておkとか下手でおkとか、そういう事は言ってられなくなる。
いやま、趣味なんだから下手でおkな方が良い人はそれでもいいんですけど一方では、趣味が生き甲斐なのにそれを公言するのは憚られる、と思ってる人もいる。その後ろめたさを正当な主張に変える方策は色々あるけど、その中の一つとして、また近年じわじわ広がってるかも知れない件として、人格の多相化があるかな、という話し。
昭和の趣味は、息抜き、気分転換のためのものだったのでもあります。仕事して、息抜きする。その二面で一人の自分。仕事以外のもう一人の自分が許されてないなら、そうなるのもしょうがない。そして、息抜きのための趣味は受動的で消費的。技能の高さなんて求められてない。
でもそれは、国家主導の工業化を短期間で成功させるための制度設計が個々人の生活面までをも規定してた日本という国に特有の事情なのではあります。つまりどこの国でも同じじゃない。
工業化を始めたのはヨーロッパだけど、まず英仏で興ったのは18世紀中盤、つまり市民革命の前で、しかもその進展速度は緩やかだったし、ヨーロッパの全ての国が工業化に成功したのでもなく、そのため封建期の遺風は多めに残存してる、とまでは断言できないけどともかく、あっちの人は昔から趣味も熱心にやる。
それに日本でも全員が工業ロボと化してたわけもなく、趣味の意義を重視する人は昔から常に一定数いたし、それが近年は更に増えてきたかもなのです。
でま、お金は稼げなくても趣味は生きるため自己実現のためのものであるなら、レベル低くておkではない。ではところで、レベルが低くない趣味とは何だろう?あるいは質問を少し変えて、趣味のレベルの高低は何によって定まるのだろう?これを考えるためにまず、
・ある趣味を自分の趣味であると宣言できるのは、自分がその道の専門家だから。
としてみる。
様々な娯楽がある中で自分が一番好きなのは音楽だから、自分の趣味は音楽です、というのはあまり専門家っぽくない。受動的な趣味に専門性を、つまりレベルの高低を問う事はできない。というか問うべきではない。
専門家とはexpert。お金を稼ぐのはprofessional。最近はお金の云々と関係なくprofessionalを用いる例もあるやもだけど曖昧だから、ここでは専門家、expertを採用。もひとつspecialistというのもあるけど、これの使い分けは例えば;
・私は電子工作のexpertであり、中でもアナログ・シンセサイザーのspecialistである。
と用いて誤ってないと思う。というわけで、私は何々の趣味をしてますと言う事は、それの専門家ですと言うのと同じ。専門家とそうでない人との違いは以下のようであろう。
・専門家は、専門家が知ってるべき事を知ってる。
・専門家は、専門家が持ってるべき技能を持ってる。
・専門家は、専門家にしか出来ない事が出来る。
等々。これらの度合いの高低が即ち趣味のレベルの高低だとすると、例えば以下のように言える;
・私は、電子工作の専門家が知ってるべき事の全てを知らないから、私の電子工作趣味のレベルはあまり高くない。
趣味だからレベル低くておkじゃないけど、やはりそこは趣味なので、レベル低いところから始める趣味もあり、しかしレベル低いなりに作れる電子機器もある。ただし実用度は低い。
でま上記三項の内の「知ってる」について、引き続き電子工作を例にしてもう少し云々すると例えば;
・電気とは何か?
電気の専門家じゃない人でも、電気は水みたいなもの式の擬え説明(なぞらえせつめい)なら、電気の事を何となく分かったような気にはなれる。つまり、専門家じゃない人のための「知ってる」もある。それに、電気の専門家を目指す人でもたいてい最初は、擬え式から入る。でもこれ、実際に電気回路を作るのには役立たない。
既にある回路図のまんまを作るなら、擬え式でも困らない。というか回路図通りなだけなら、電気とは何かなど分からなくてもとくに困らないのだ。
ところが、既にある回路図を改良したいとなったら、擬え式では困る。ちょっとだけの改良なら擬え式に毛が生えた程度でいけるかも。しかし大幅に改良したいなら擬え式ではもうだめで、電気とは何かをちゃんと理解せねば。その、ちゃんとな理解というのが、専門家が知ってるべき知識であり、場合によっては本質的理解とも呼ばれる。これを知ってれば創作も出来る。というか電子工作の例では、創作しようとした途端、本質的理解が必要になる。創作しないうちはちゃんと勉強しないし、ちゃんと勉強しないと創作できない。つまり創作と専門的な知識は一体のもの。
なんか、この理由の6の説明のための文字数が多くなってしまいましたが要するに、近年は、ネット内であろうとなかろうと、趣味はただの息抜きではなくなり、専門性の高さを求める人が増えてきたかもで、だから趣味のための教科書も、その要望に応えられそうな内容のが増えてるかも知れない、という事を言いたかったのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ともかくそういう次第で、近年は創作する趣味が増えてる。だけどあまり上手くいってないかも。いや、何でもとにかく作れれば、たとえ教科書に載ってる通りをそのまま作るだけでも十分満足できるならOKだけど、それ以上の何かしらを求めるとなると、どうでしょうか?
ところでここまで「創作」という言葉の意味をよく確かめもせず使ってましたので、いちおう辞書的な意味を確認;
創作 -wiki
↑のリンク先にある2と3、独創的とか想像によってとかはオマケ的な意味合いとして略していいと思います。肝心なのは、
・それまでに無かったものを新たにつくり出すこと
それが創作。ほんとは「それまでに無かったもの」ってのも曖昧な言い方で、これが示す範囲は広いから厳密な定義にはならないけど今のところはこれでおk。分かりやすいキーワードとして、創作とは、
「未だ存在してないものを作る事」
と単純化して捉えます。
という事でつまり、創作をしようとしてる人は、それが趣味であろうとなかろうと、未だ存在してない何かしらを作ろうとしてる。でま、上手くいったりいかなかったりする。その違いを分ける要因は、
・脳
・感情
・心
のそれぞれにあると思われる内、この記事では脳についての説明を試みます。タイトルは「推論と創作」。つまり私は、創作に必要な脳みその働きで重要なのは推論(すいろん)だと考える。では推論とは何か?
推論 -wiki
この言葉は曖昧な使い方をされがちで、以下の諸々と混同される事も多い。
推察 推測 推定 -google
推論は、推察その他とは違う。wikiの説明は丁寧だけど要点を掴みづらいので、これも単純化して、
「既知の命題に基づいて、未知の命題を導き出す事」
と捉えます。命題とは;
命題 -wiki
命題(めいだい)とはかんたんに言うと「〇〇は○○であると言う」の事。にしても長いので漢字二つに縮めて命題と呼ぶ。既に知られてる命題は沢山ある。富士山は山である。高さは三千なんぼである等々。これが既知の命題。それらを上手く組み合わせると、
・知らないことを知る事が出来る。
・経験では得られない真理を得る事が出来る。
富士山は世界中の山と比べるとたいして高くない。なのに今や外国にまで知られた世界的にも有名な山の一つである。それはなぜか?
まあこの答えは既に知られてるのだけど、それを未だ知らない人が自分で考えてみようとする時、その人の頭の中で動き始めた働きが推論。
私が知らない事を知ろうとする時、普通はそれを既に知ってる人から教えてもらう。しかし誰も知らない事を知らねばならないならどうするか?世界中を旅して回っても誰も知らない。それが未知の命題。そういう時、既知の命題を利用して推論し、成功すると、誰も知らない事が分かっちゃう。驚くべき能力ですが、これはほぼ全ての人の脳みそに備わってる基本的な機能の一つです。
・推論とは、未だ知られてない真の命題、あるいは知識とか法則とか機械を動かす仕組みとかを得る・作り出すための脳みその働き。
・創作とは、未だ存在してない何かしらを作り出す事。
だから、推論と創作とは重なり合う部分が多い、ほぼ同じとさえ言えるかもな事です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
推論と創作についての説明を始める前に、「表現」は創作ではない、という事を予め示しておきます。
「〇〇を作ることで○○を表現した」みたいな言い方は慣用化され、これは創作性を暗示させるのだけど、それは「作る」と「表現する」という語をごっちゃに用いるため生じる錯覚である。表現と創作の間には、
・創作されたものが、何かしらを表現してる場合はありうるが、何も表現してない創作物というのも、ありうる
・表現行為の全てが創作的、つまり未だ存在してない何かしらを生じさせること、ではない
という関係があって、つまり創作と表現の結びつきは一意的ではないし、原因と結果の関係になってない場合も多い。
表現を行う者は例えば、役者なら台本、演奏者なら楽譜に基づいて振舞う。台本や楽譜は表現者の作品ではない場合も多いし、その紙に書かれた指示に沿って、何かしら中身的なもの、例えば感情とかを表現するのだけど、その中身も未だ存在してないものではない場合が多い。とくに、多くの人の共感を得ようとする表現は、未だ存在してないものではなく、多くの人にとっての既知の事柄を扱う。これは全く、創作的ではない。
未だ存在してない命題が示された場合、それは多くの人にとっては未知であるから、ほとんど誰からも理解されない場合も多い。例えば1687年前後、ニュートンとライプニッツが相次いで微積分学を発表した時、これを理解できる人は全ヨーロッパに十数人もいなかった(と言われてる)。
微積分学 -wiki
あるいは「アビニョンの娘たち」を描いた時のピカソとか。
アビニョンの娘たち -google
「発明品」も、未だ存在してなかった何かしらである。たいていは道具や機械装置だが、文字とか連立方程式の解法とか、表現の方法とかも発明品。人類は様々な道具を発明し、様々な「方法」も発明してきた。
発明品は、たいていは多くの人のためのものである。そして、多くの人のための発明品の使い方は、たいてい誰でも理解できる。しかしそれが動く仕組みを理解できる人は少ない。例えば、電球がなぜ光るのかを正しく説明できる人は少ない。そして発明の程度が高度化するほどますます少なくなる。例えばスマホ。発明品の中に含まれてる創作的な部分は、誰もが理解できるものではない。創作とはそういうもの。発明品を使うだけの人は、創作する必要はない。
表現は常に全く創作的ではない、という事ではありません。未だ存在してない表現の「方法」が創作される事があります。てか、たいていの表現者は過去に創作された、つまり既に知られてる表現の方法を用いて表現を行う。
現在でも新たな表現方法を創作するチャレンジは続けられてる。表現の方法の創作は、つまり創作である。しかしそれは、真に創作的な台本や楽譜がごく稀にしか生まれないのと同じく、ごく稀にしか生じない。
「創作」を教える、教育するのが可能かどうかはこの記事での重要事項で、むしろ何故たいていは不可能かを説明するのが主目的なのだけど、「表現」を教えるのは可能です。教えた相手が表現できるようになる、つまり教育に成功するかどうかはさておき、少なくとも、表現を教えるための教程・メソッドを作るのは容易だし、実際それは昔から盛んに行われてる。そしてまた実際、そのメソッドの通りに振舞えるようになる人は多い。少なくとも、未だ存在しない何かしらを作れる人よりは多い。
表現方法は、教える側にとっては既知の事柄である。方法を教えるのは、発明品の操作方法を教えるのと同じである。
表現できない生徒が方法を教わり、出来るようになったとする。初めてできた時は出来ない事が出来るようになったのだから、これは創作的である。だが一旦出来るようになった後は、道具を繰り返し使うのと同じ。
湯沸し器という発明品を使って、美味しいコーヒーを繰り返し淹れる事が出来る。湯沸し器を使う事は創作的ではないが、コーヒーを淹れる度、何かいい事が起こるかも知れない。コーヒーを飲んだ事のない人に初めてのコーヒーを振舞う等。だから道具、あるいは方法を介して「初めて」の連鎖は広がってく。という点でも、表現が常に全く創作的でないのではないけれど、創作とは、誰も知らない連鎖の起点を新たに設ける事でもあり、それはやはり、道具を繰り返し使うのとは異なる。
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では改めて、推論についていろいろ考えてみます。人は推論によって自分が知らない事を知り、経験では知りえない事をも知る。例えば;
・地球を一周する航海術などなかった大昔に、地球の大きさを測った人がいる。そもそも地球が球だと気づいたのは紀元前4世紀ごろのギリシャ人で、これだけでも十分すごいのだが、紀元前3世紀になると、この地球の大きさの測り方を思いつく人まで現れた。
エラトステネス -wiki
・産業革命が起こる約100年前、つまり精密な機械装置などまだほとんど無かった時代、J.S.バッハが生まれる約10年前というような頃に、光の速さを測った人がいる。
オーレ・レーマー -wiki
どちらも、経験では知りえない事を知ろうとした例で、こういうのは文明史上まだまだ無数にある。まあ上記二例の測定精度は時代の制約を受けてるから実用度はない。ですが、エラトステネスの方法は論理的に正しく、他の事にも応用できる一般性がある。レーマ―は光の速さの測定を行った結果、これが「有限」である事を証明した。17世紀の段階では、光の速さは無限かもとも考えられてたのを、彼はその議論に決着をつけ、物理学の発展を一歩進めた。
地球を一周できない紀元前にこれの大きさを測り、光の速さで動作する測定器がない時代に光の速さを測る。つまり彼らは、実際の経験に基づいては知りえない事を知りえた。そして、それが可能だったのは脳に推論という機能があるから。既知の命題、というか既に知られてる予備知識として;
・エラトステネスの場合は暦と幾何学と、どこそこに特殊な井戸がある事など。
・レーマ―の場合は、先人が残した天体観測データと、その当時に知られてた限りでの光の性質など。
に基づいて、未知の命題、というか新たな測定法を作り出した。どうやれば測れるかを知った。
でま、歴史に残るような発見発明をした人の数は限られるから見落とされがちだけど、推論という能力、脳の機能は、ほぼ全ての人に備わってる。なぜそう言えるのか?
推論を行うと、経験では知りえない事を知りうる。これを言い換えると・・・・言い換え方は様々あるけど例えば;
・自分がした事ではない事を知りうる。
とも言える(場合もある)。これを更に言い換えると;
・他人が、自分の見てない所で何かをしたのを知りうる。
とも言える。推理小説の謎解きの多くはこれなのだけど、普通の人の日常生活内でも、こういう推理のような推論はしばしば行われている。例えば;
大勢の人が活動してる職場、あるいは学校の部室とかには、多くの道具が置かれてる。事務系なら文房具やファイルや荷造り用品やら。日々の業務を滞りなく進めるには、それらをきちんと整理整頓し、定物定位を守らねば。なのに、あれどこいった?な事態はしばしば発生する。誰かがどっかにやっちゃったに決まってる。でもたぶん、この室内にはある。
といった場合、探す立場の人の脳みそはどう働くのか?事務所の机や棚の引出しの全てに当たって虱潰しに探してもいいけど、それはちょっと知恵が足りない。時間も足りない。だから脳みそを多目に使う。しろうと探偵の出番すな。
・だいたい、いつも何かをどっかにやっちゃう犯人は決まってる。ところが今日に限ってそいつは休み。
・でも奴の行動パターンや癖は分かってる。
というのがこの案件での既知の命題、既に知ってる事。これらに基づいて予測すれば、失せ物のありそうな場所を数ヵ所に絞り込める。そして運よく引出しを2~3回開け閉めするだけで見つけられたら問題解決。推論を用いて導き出した未知の命題、つまり、そこにあると知らないはずの場所にあると知りえた事の正しさは証明された。
みたいのが、日常的に行われてる推論。こんなの当たり前で全然すごくないと思われるかもですが、つまり推論とは当たり前のように多くの人が持ち、とくべつ意識せず用いてる場合も多い能力なわけです。しかしこれを積み重ね高度化させるとノーベル賞がもらえたりミレニアム問題が解けたり、未だ存在してない何かしらを作れたりする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ですがやはり、ノーベル賞をもらえる人は限られてるし、創作をしたいと思っても未だ存在してない何かしらを作れない人は多い。それは何故か?
・推論は高度化させないと、目立つ成果はあげられない。
・やはりそもそも、推論できない人が多い。
どっちでしょうか?よく分かりませんので取りあえず、推論に限らず、脳がしてそうな事の概ね全てを書き並べてみます。
A.外部からの刺激を脳が扱える形式に変換する。(入力)
B.それを記憶する。
C1.現在受取ってる入力と脳内の記憶とを、あるいは記憶同士とを比較する。その項目は、
・「同じ」か「違う」か
・「似てる」か「似てない」か
・「大きい」か「小さい」か
・前か後か、右か左か、上か下か
C2.以上を行った結果、
・私と他者
・過去、現在、未来
の区別と比較が可能になる。
C3.記憶の内容を一般化・抽象化する。
C4.未来の予測と、他人の意図の推測を行う。
C5.推論を行う。
D1.以上の諸々=考えた事に基づいて外部に働きかける方法を選ぶ、あるいは新たに作る。
D2.その方法を用いて外部に働きかける。(出力)
ざっと思い付けるのは以上。これを「考える行程」とでも名付けよう。
ただこれは最新の脳科学に基づく云々とかではなく、いわば定性的なスケッチです。あまり科学的じゃないし漏れもあるかもですが、ともかく色々書きました。煩雑なので簡略化すると;
・A.入力→B.保存→C.加工→D.出力
という行程で一巡。この中で推論と関係するのは加工。その前段の入力と保存が十分に機能してるという前提条件を充たしたうえで加工の段階の諸々、つまり、
・自他の区別
・合同、相似、量、空間、時間等の概念の形成
・それらの利用法としての予測や一般化、抽象化
が行われ、更にこれらの情報加工によって得られた成果を用いて推論が行われる。
以上の整理の仕方が概ね正しいとすると推論は、考える行程の中の最も後段に位置し、脳の機能をフル活用する必要がある。となると人がいろいろ考える事の中でも高度な部類の方になる。でも失せ物探しの例のような推論はわりと誰でもする事で、だからほぼ全ての人に備わってる基本的な能力であるのも間違いない。
なお、言葉を扱うのは脳の最も重要な機能の一つですが、BからDの全てに関与してるとも言えるし、必ずしも常に必要ではないとも言える。また、出力は言葉だけでなく行動でも行われる。考える行程がA~Dのフルセット揃って推論ですが、推論まで至らずに出力される事も多い。つまり、
・入力→出力 ・・・脊髄反射ってやつすね
・入力→記憶→出力 ・・・考えなしにものを言うキャラはこれ
・入力→記憶→加工のC1.→出力 ・・・好き嫌いだけでものを言う系
・入力→記憶→加工のC3.→出力 ・・・これでようやく人間ぽくなり始め、
・入力→記憶→加工のC4.→出力 ・・・ここまで来ればちゃんと考えてるっぽい。
・入力→記憶→加工のC5.→出力の直前のD1 ・・・ここが上手くいってないと推論できてたとしても他の人には知られずに終るとか、何を言ってるのかが分からない人になってしまうとか。
なお、一般化、抽象化という言葉を説明なしに上記リストに混ぜましたけど、これらも色々誤用される事が多いワードなので一応wikiを。
抽象化 -wiki
日本語版wikiの↑の説明は簡略過ぎるので英語版の方も。
抽象化・Abstraction -wiki
一般化・Generalization -wiki
普遍的一般化・Universal generalization -wiki
また、何かを作ったり道具の使い方を練習する趣味ではない、もちょっと勉強っぽい入門書、つまり例えば数学や物理の入門書・啓蒙書の類でも、最近は出版点数が多いし、しかもその内容が試験勉強に役立つとか物知りになりましょう的な事より、いわゆる本質的理解の重要性を説く本が増えてきたかも知れない。
ちゃんと統計を取って調べたのではなく、アマゾン等をざっと見渡して、そう思われるというだけの話しで、しかしここ数年で放映されたアニメや連載中のマンガでも、創作を題材にした作品は増えてるかもだし、メイカーズムーブメントというのが興って2008年からアメリカでイベントが催され、日本でもやってる。
メイカーズムーブメント -wiki
Maker Faire -wiki
Maker Faire Tokyo 2017 -公式サイト
ビッグサイトの東7-8ホールで二日間だから、そこそこ大きなイベント。Maker Faireとは別の、これと同規模の物作りイベントは他にもある。
等々の事を合わせてみると、やはり近年は創作への気運が高まってるのかなと、そう考えても大筋では間違いなさそうです。でもなぜだろうか?私が思い付けた理由は6つ;
1. 趣味の多様化
昭和の頃の大人の趣味と言えば、平日の夜はテレビで野球見て、休日は一日中ごろ寝。どっか出かけるとしたらパチンコか競馬。稼ぎの良い人はゴルフ。あとは草野球とかママさんバレーとか。
まあこれひどく雑な単純化ですけど、昭和なんてそんなもんってのはある程度ホントの話。そこでこれらに、
・テレビ→受動的
・ギャンブルとかゴルフ→消費的
というキーワードを与えてみる。スポーツも体力を消費するという意味では消費的(と言えなくもない)。つまり、昭和の趣味とは受動的で消費的だった。しかし近年は趣味が多様化し、以前には無かった欲求が生じたのなら、上記2語の反対、つまり
・能動的で生産的
な趣味をしたいと思う人が増えるのは、自然な流れかもしれません。ある世代より下の層はテレビをあまり見ないし、給料が減っちゃったので金を捨てる遊びなんてしてられないという事もありますし。
そして、能動的で生産的な活動といったら、自分で作業して何かしらを作る、それもなるたけなら役に立つ物を作る。それを余暇に行うならそれがつまり、創作を目指す趣味という事になろうかと思います。
2. ゆとり教育の影響
2002年から2010年代初期まで行われてた、通称ゆとり教育。
ゆとり教育 -wiki
詰め込み式の是正、思考力を鍛える、主体的に考える、体験学習、個性を重視、表現力の育成、等々がキャッチフレーズで、当初から賛否両論あったけど尻すぼみで終了。しかし世間の風潮には多かれ少なかれ影響を与え、それはゆとり教育を受けてない世代にまで及んでる(かも)。そして、ゆとりの方針に沿う、あるいは補強する方向で趣味の教科書を作るなら、暗記より本質理解、お手本通りより自分らしさ、自分にしか作れないものを重視する内容になるだろうから、そういう本が増えたのかも。
3. 生きた証(あかし)を残したい
人が人生を終えるとき、子供と財産を残したい。いや、残さねばならぬ、というような人生観・価値観の支配力は、ある時期まで強力だったけど、近年は子供を作らず(あるいは作れず)、財産を残さず(あるいは残せずに)、人生を終えそうな人が増えた。
人間にとって、この世に自分が存在した証を残したいというのは強い欲求で、昭和の頃までは大人になったら結婚して子供を作って働いて貯金して、という生涯イメージ、人生設計が多くの人に共有されてたけど、近年はそうではない。しかしそうなると、何も残せず死んでいく。そして誰からも思い出されず消えてしまう。その死後のイメージは寂しいというより、強い恐怖を引き起こす。どうせ死んだら何も思わなくなるかもとも思いつつ、しかし生きてる人間ってのは死んだ後の事を思いながら、今をどう生きようかと考える。
そのため、子供や財産の代わりの生きた証として、何か作品を残したいと思う人も増えてるのかも知れません。
4. やり残した事をやりたい
人は高齢化すると新しい事への興味は薄らぎ、自分の過去を振り返る事が多くなる。すると、時間が経つと出来事を遠くから見れるようになる効果のおかげで、例えばひどい失敗をしたとか、上手くいかなかった何かが過去にあって、その直後は思い出したくもない。忘れたい。だけど何年も、あるいは何十年も経てば、それらも自分史の中のしかるべき位置に、私自身の正当な一部分として組み込めるようになる(ならない人もいる)。
組み込める人の場合、自分の余命を思いつつ来し方を眺め渡せば、完成に近づきつつある自分史の全体像には所どころ穴がある、という感想が生じたりもする。やはり失敗は失敗なので、そこは私にとっての欠落部分。年輪を重ねた幹に虫食い穴がいくつかあるような状態。
自分にまだ伸びしろがあるなら、新たな年輪を重ねて幹を太くしてもいい。つまり例えば、今までした事がない新しい趣味を始めるのもいい。けれど、虫食い穴を埋めて自分の幹を完全なものにするのでもいい。
どっちでもいいけど穴埋めの方を選んだならば例えば、子供の頃に習った楽器を再び練習するとか、勉強で苦手だった数学を等々。
ただし昔の勉強法、つまり昭和の詰め込み式で試験勉強したって今さら無意味だし、だいたい自分が昔うまくいかなかったのは当時の勉強法が良くなかったからかもだし、ところが近頃は以前と毛色の違う教科書がいろいろあるようだから、これを試してみよう。という人も増えてると思われます。作品を残すとかより、まずは新しい学び方でやり直したい需要。
5. 自己の優位性・有用性を示したい
死んだらどうなるみたいな重たい話しではなく、あるいは、死んだ自分とどこかの誰かとの関係ではなく、生きてる者同士で関わり合う趣味。その意義には、
・下手の横好き達が集まって楽しいひと時を過ごす
・趣味を介して公益に貢献する
・互いに協力し合い技能を高める
・互いの優劣を比べる
等々があり、その中の、優劣を重視するタイプの人。自己の存在意義を他者に対する優位性・有用性に求める人にとっての趣味の意義とは、
・本業では充たされてない欲求の補償。
・あるいは、本業で十分高評価されてるのだから趣味でも同様に、という人。
・あるいは、死後に残す子供と財産は既に確保済みだが、家庭内での評価が芳しくない人。
したくもない仕事をして嫁と子を養ってるのに、たまに家でギターを弾くとダサい下手くそオヤジ扱いされるのはキツい。これはなんとかしてどうにかしたい。
自分がエリートであるのを誇示する趣味は昔からあった。ゴルフとか、子供にピアノを習わせるとか、ムツかしそうな本を読むとか。でも今はそういうの流行らなくて、近頃の教科書は創作っぽいのが増えてる。人より優れてないわけにはいかない立場からすると、その流れに乗らないわけにもいかない。なのでこのタイプの人も創作に興味を持つかも。
ただ、他人に対する優位性とは相対的なもので、仲間のレベルを下げる事で自分のポジションを上げられもする。つまり周りを蹴落とせば勝ち残れる。しかし現実の人間関係、つまり学校のクラスとか部活とか、会社とか家庭で、自分より劣る仲間集めをするのは困難で、ところがネットでは容易。少なくともリアルよりは容易。上には上があるし、下には下がある。という事情があるため、とくに趣味の世界では実力がない人でも優越性を示すのは可能。
だから、このタイプの人が創作しようとか、それが上手くいかないとかの事は大した問題ではないのだけど、仲間集めはしなきゃいけないし優位性も示さなきゃだから、発言数は多い。ネットでの発言数とは、ブログの更新頻度とかアマゾン等のレビューとか。
ブログはわりとどうでもいいというか、むしろどんどん面白い事を書いて下さる方がいいのだけど、販売サイトのレビューはブログよりかは公的なものだし、それに何より教科書類を購入する事で需要増もに貢献してるのだろうし、だからこのタイプの人も無視するわけにはいかない。
発言数が多い分、創作できない人は何故できないのかを考えるのに役立つ資料を多目に提供してくれるのでもあります。
6. 人格の多相化
多層化ではなく多「相」化。一人の人が多くの相(かお)を持つという事。インターネットが普及して、素人が作文や制作物を発表する機会が増えた。わりと一部の人が電話代を払いながら始めたのが約20年前で、ブログがブームみたいになったのが約10年前。そこそこ長い。ほぼ全員が匿名かハンドルネームで利用します。最初の頃は、
・会社に行って働いてるのが本物の自分で、ネットでなんかしてるのはバーチャルの自分。
という感覚の人が多かったと思う。ネットは本物じゃない。ちょっと後ろめたい。その代わりリアルじゃ言えないような事も言えちゃう。しかし10年も経てば世の中は変わって人の心も変わる。最初の頃こそ、
・片方は本物、もう一方は贋物
だったけど、やがて
・片方は、もう一人の自分
となり、それが更に
・どちらも、本物の自分
という風に段々と、本名とハンドルネームを別扱いしなきゃいけない理由もないように思われてくる。そして、一人の私が場面に応じて複数の相、複数の人格を使い分けられる事の有意義性、利用価値に気付く。
わりとどこの国でも、昔の偉い人≒権力者は名前を複数持っていた。一人の人間に一つだけの戸籍、一つだけの人格、一つだけの名前という風に、一人格一名が固定的になったのは強力な中央集権権力による統合支配が可能になって以降、つまり近代以降で、その前の世界は多重権力的。複雑な権力構造が網の目のように張り巡らされてる。だから個人と権力とを結ぶ接続線の形式が、
・中央集権はスター型
・封建社会はメッシュ型
になっていて、封建社会はツリー型と説明されるかもだけど、実態はもっとごちゃごちゃ。権力者とはネットワーク上の結節点,nodeの役目を担ってるからこそ権力者なのであり、そこから延びる配線ごとに名前がある格好。スター接続なら一つしか許されず、メッシュなら人によって多かったり少なかったり。昔の人にとって、一人の自分が複数の名前を持ってるのは、わりと普通の事だった。あと、年齢に応じて改名もするし。
現在でも社会ロールごとの呼称は複数ある。つまり中年男性某氏は家庭において夫であり父であり会社においては部長の部下であり平社員の上司でもあり云々。でもそれはあくまでも本名に添えられる肩書で、人格が多相化してるとまでは言えない。というか多相化しちゃってたら背徳的なような後ろめたさがある。ですが、そういう現代人の常識から離脱する人は増えてるかもで、昔の事なんて知らなくても、かつて通用してた方式に回帰するのはわりと容易。そして、この感覚を趣味のあり方に当てはめるなら、
・本業の私と趣味の私、どっちも本物
という事にもなりましょう。そして、本業とは生きるためにしてる事なら、趣味だって生きるためにしてる事。あるいは本業が自己実現のためのものなら趣味も同様。ならば、本業をテキトーに済ましてはいけないなら趣味だって、趣味だからレベルが低くておkとか下手でおkとか、そういう事は言ってられなくなる。
いやま、趣味なんだから下手でおkな方が良い人はそれでもいいんですけど一方では、趣味が生き甲斐なのにそれを公言するのは憚られる、と思ってる人もいる。その後ろめたさを正当な主張に変える方策は色々あるけど、その中の一つとして、また近年じわじわ広がってるかも知れない件として、人格の多相化があるかな、という話し。
昭和の趣味は、息抜き、気分転換のためのものだったのでもあります。仕事して、息抜きする。その二面で一人の自分。仕事以外のもう一人の自分が許されてないなら、そうなるのもしょうがない。そして、息抜きのための趣味は受動的で消費的。技能の高さなんて求められてない。
でもそれは、国家主導の工業化を短期間で成功させるための制度設計が個々人の生活面までをも規定してた日本という国に特有の事情なのではあります。つまりどこの国でも同じじゃない。
工業化を始めたのはヨーロッパだけど、まず英仏で興ったのは18世紀中盤、つまり市民革命の前で、しかもその進展速度は緩やかだったし、ヨーロッパの全ての国が工業化に成功したのでもなく、そのため封建期の遺風は多めに残存してる、とまでは断言できないけどともかく、あっちの人は昔から趣味も熱心にやる。
それに日本でも全員が工業ロボと化してたわけもなく、趣味の意義を重視する人は昔から常に一定数いたし、それが近年は更に増えてきたかもなのです。
でま、お金は稼げなくても趣味は生きるため自己実現のためのものであるなら、レベル低くておkではない。ではところで、レベルが低くない趣味とは何だろう?あるいは質問を少し変えて、趣味のレベルの高低は何によって定まるのだろう?これを考えるためにまず、
・ある趣味を自分の趣味であると宣言できるのは、自分がその道の専門家だから。
としてみる。
様々な娯楽がある中で自分が一番好きなのは音楽だから、自分の趣味は音楽です、というのはあまり専門家っぽくない。受動的な趣味に専門性を、つまりレベルの高低を問う事はできない。というか問うべきではない。
専門家とはexpert。お金を稼ぐのはprofessional。最近はお金の云々と関係なくprofessionalを用いる例もあるやもだけど曖昧だから、ここでは専門家、expertを採用。もひとつspecialistというのもあるけど、これの使い分けは例えば;
・私は電子工作のexpertであり、中でもアナログ・シンセサイザーのspecialistである。
と用いて誤ってないと思う。というわけで、私は何々の趣味をしてますと言う事は、それの専門家ですと言うのと同じ。専門家とそうでない人との違いは以下のようであろう。
・専門家は、専門家が知ってるべき事を知ってる。
・専門家は、専門家が持ってるべき技能を持ってる。
・専門家は、専門家にしか出来ない事が出来る。
等々。これらの度合いの高低が即ち趣味のレベルの高低だとすると、例えば以下のように言える;
・私は、電子工作の専門家が知ってるべき事の全てを知らないから、私の電子工作趣味のレベルはあまり高くない。
趣味だからレベル低くておkじゃないけど、やはりそこは趣味なので、レベル低いところから始める趣味もあり、しかしレベル低いなりに作れる電子機器もある。ただし実用度は低い。
でま上記三項の内の「知ってる」について、引き続き電子工作を例にしてもう少し云々すると例えば;
・電気とは何か?
電気の専門家じゃない人でも、電気は水みたいなもの式の擬え説明(なぞらえせつめい)なら、電気の事を何となく分かったような気にはなれる。つまり、専門家じゃない人のための「知ってる」もある。それに、電気の専門家を目指す人でもたいてい最初は、擬え式から入る。でもこれ、実際に電気回路を作るのには役立たない。
既にある回路図のまんまを作るなら、擬え式でも困らない。というか回路図通りなだけなら、電気とは何かなど分からなくてもとくに困らないのだ。
ところが、既にある回路図を改良したいとなったら、擬え式では困る。ちょっとだけの改良なら擬え式に毛が生えた程度でいけるかも。しかし大幅に改良したいなら擬え式ではもうだめで、電気とは何かをちゃんと理解せねば。その、ちゃんとな理解というのが、専門家が知ってるべき知識であり、場合によっては本質的理解とも呼ばれる。これを知ってれば創作も出来る。というか電子工作の例では、創作しようとした途端、本質的理解が必要になる。創作しないうちはちゃんと勉強しないし、ちゃんと勉強しないと創作できない。つまり創作と専門的な知識は一体のもの。
なんか、この理由の6の説明のための文字数が多くなってしまいましたが要するに、近年は、ネット内であろうとなかろうと、趣味はただの息抜きではなくなり、専門性の高さを求める人が増えてきたかもで、だから趣味のための教科書も、その要望に応えられそうな内容のが増えてるかも知れない、という事を言いたかったのでした。
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ともかくそういう次第で、近年は創作する趣味が増えてる。だけどあまり上手くいってないかも。いや、何でもとにかく作れれば、たとえ教科書に載ってる通りをそのまま作るだけでも十分満足できるならOKだけど、それ以上の何かしらを求めるとなると、どうでしょうか?
ところでここまで「創作」という言葉の意味をよく確かめもせず使ってましたので、いちおう辞書的な意味を確認;
創作 -wiki
↑のリンク先にある2と3、独創的とか想像によってとかはオマケ的な意味合いとして略していいと思います。肝心なのは、
・それまでに無かったものを新たにつくり出すこと
それが創作。ほんとは「それまでに無かったもの」ってのも曖昧な言い方で、これが示す範囲は広いから厳密な定義にはならないけど今のところはこれでおk。分かりやすいキーワードとして、創作とは、
「未だ存在してないものを作る事」
と単純化して捉えます。
という事でつまり、創作をしようとしてる人は、それが趣味であろうとなかろうと、未だ存在してない何かしらを作ろうとしてる。でま、上手くいったりいかなかったりする。その違いを分ける要因は、
・脳
・感情
・心
のそれぞれにあると思われる内、この記事では脳についての説明を試みます。タイトルは「推論と創作」。つまり私は、創作に必要な脳みその働きで重要なのは推論(すいろん)だと考える。では推論とは何か?
推論 -wiki
この言葉は曖昧な使い方をされがちで、以下の諸々と混同される事も多い。
推察 推測 推定 -google
推論は、推察その他とは違う。wikiの説明は丁寧だけど要点を掴みづらいので、これも単純化して、
「既知の命題に基づいて、未知の命題を導き出す事」
と捉えます。命題とは;
命題 -wiki
命題(めいだい)とはかんたんに言うと「〇〇は○○であると言う」の事。にしても長いので漢字二つに縮めて命題と呼ぶ。既に知られてる命題は沢山ある。富士山は山である。高さは三千なんぼである等々。これが既知の命題。それらを上手く組み合わせると、
・知らないことを知る事が出来る。
・経験では得られない真理を得る事が出来る。
富士山は世界中の山と比べるとたいして高くない。なのに今や外国にまで知られた世界的にも有名な山の一つである。それはなぜか?
まあこの答えは既に知られてるのだけど、それを未だ知らない人が自分で考えてみようとする時、その人の頭の中で動き始めた働きが推論。
私が知らない事を知ろうとする時、普通はそれを既に知ってる人から教えてもらう。しかし誰も知らない事を知らねばならないならどうするか?世界中を旅して回っても誰も知らない。それが未知の命題。そういう時、既知の命題を利用して推論し、成功すると、誰も知らない事が分かっちゃう。驚くべき能力ですが、これはほぼ全ての人の脳みそに備わってる基本的な機能の一つです。
・推論とは、未だ知られてない真の命題、あるいは知識とか法則とか機械を動かす仕組みとかを得る・作り出すための脳みその働き。
・創作とは、未だ存在してない何かしらを作り出す事。
だから、推論と創作とは重なり合う部分が多い、ほぼ同じとさえ言えるかもな事です。
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推論と創作についての説明を始める前に、「表現」は創作ではない、という事を予め示しておきます。
「〇〇を作ることで○○を表現した」みたいな言い方は慣用化され、これは創作性を暗示させるのだけど、それは「作る」と「表現する」という語をごっちゃに用いるため生じる錯覚である。表現と創作の間には、
・創作されたものが、何かしらを表現してる場合はありうるが、何も表現してない創作物というのも、ありうる
・表現行為の全てが創作的、つまり未だ存在してない何かしらを生じさせること、ではない
という関係があって、つまり創作と表現の結びつきは一意的ではないし、原因と結果の関係になってない場合も多い。
表現を行う者は例えば、役者なら台本、演奏者なら楽譜に基づいて振舞う。台本や楽譜は表現者の作品ではない場合も多いし、その紙に書かれた指示に沿って、何かしら中身的なもの、例えば感情とかを表現するのだけど、その中身も未だ存在してないものではない場合が多い。とくに、多くの人の共感を得ようとする表現は、未だ存在してないものではなく、多くの人にとっての既知の事柄を扱う。これは全く、創作的ではない。
未だ存在してない命題が示された場合、それは多くの人にとっては未知であるから、ほとんど誰からも理解されない場合も多い。例えば1687年前後、ニュートンとライプニッツが相次いで微積分学を発表した時、これを理解できる人は全ヨーロッパに十数人もいなかった(と言われてる)。
微積分学 -wiki
あるいは「アビニョンの娘たち」を描いた時のピカソとか。
アビニョンの娘たち -google
「発明品」も、未だ存在してなかった何かしらである。たいていは道具や機械装置だが、文字とか連立方程式の解法とか、表現の方法とかも発明品。人類は様々な道具を発明し、様々な「方法」も発明してきた。
発明品は、たいていは多くの人のためのものである。そして、多くの人のための発明品の使い方は、たいてい誰でも理解できる。しかしそれが動く仕組みを理解できる人は少ない。例えば、電球がなぜ光るのかを正しく説明できる人は少ない。そして発明の程度が高度化するほどますます少なくなる。例えばスマホ。発明品の中に含まれてる創作的な部分は、誰もが理解できるものではない。創作とはそういうもの。発明品を使うだけの人は、創作する必要はない。
表現は常に全く創作的ではない、という事ではありません。未だ存在してない表現の「方法」が創作される事があります。てか、たいていの表現者は過去に創作された、つまり既に知られてる表現の方法を用いて表現を行う。
現在でも新たな表現方法を創作するチャレンジは続けられてる。表現の方法の創作は、つまり創作である。しかしそれは、真に創作的な台本や楽譜がごく稀にしか生まれないのと同じく、ごく稀にしか生じない。
「創作」を教える、教育するのが可能かどうかはこの記事での重要事項で、むしろ何故たいていは不可能かを説明するのが主目的なのだけど、「表現」を教えるのは可能です。教えた相手が表現できるようになる、つまり教育に成功するかどうかはさておき、少なくとも、表現を教えるための教程・メソッドを作るのは容易だし、実際それは昔から盛んに行われてる。そしてまた実際、そのメソッドの通りに振舞えるようになる人は多い。少なくとも、未だ存在しない何かしらを作れる人よりは多い。
表現方法は、教える側にとっては既知の事柄である。方法を教えるのは、発明品の操作方法を教えるのと同じである。
表現できない生徒が方法を教わり、出来るようになったとする。初めてできた時は出来ない事が出来るようになったのだから、これは創作的である。だが一旦出来るようになった後は、道具を繰り返し使うのと同じ。
湯沸し器という発明品を使って、美味しいコーヒーを繰り返し淹れる事が出来る。湯沸し器を使う事は創作的ではないが、コーヒーを淹れる度、何かいい事が起こるかも知れない。コーヒーを飲んだ事のない人に初めてのコーヒーを振舞う等。だから道具、あるいは方法を介して「初めて」の連鎖は広がってく。という点でも、表現が常に全く創作的でないのではないけれど、創作とは、誰も知らない連鎖の起点を新たに設ける事でもあり、それはやはり、道具を繰り返し使うのとは異なる。
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では改めて、推論についていろいろ考えてみます。人は推論によって自分が知らない事を知り、経験では知りえない事をも知る。例えば;
・地球を一周する航海術などなかった大昔に、地球の大きさを測った人がいる。そもそも地球が球だと気づいたのは紀元前4世紀ごろのギリシャ人で、これだけでも十分すごいのだが、紀元前3世紀になると、この地球の大きさの測り方を思いつく人まで現れた。
エラトステネス -wiki
・産業革命が起こる約100年前、つまり精密な機械装置などまだほとんど無かった時代、J.S.バッハが生まれる約10年前というような頃に、光の速さを測った人がいる。
オーレ・レーマー -wiki
どちらも、経験では知りえない事を知ろうとした例で、こういうのは文明史上まだまだ無数にある。まあ上記二例の測定精度は時代の制約を受けてるから実用度はない。ですが、エラトステネスの方法は論理的に正しく、他の事にも応用できる一般性がある。レーマ―は光の速さの測定を行った結果、これが「有限」である事を証明した。17世紀の段階では、光の速さは無限かもとも考えられてたのを、彼はその議論に決着をつけ、物理学の発展を一歩進めた。
地球を一周できない紀元前にこれの大きさを測り、光の速さで動作する測定器がない時代に光の速さを測る。つまり彼らは、実際の経験に基づいては知りえない事を知りえた。そして、それが可能だったのは脳に推論という機能があるから。既知の命題、というか既に知られてる予備知識として;
・エラトステネスの場合は暦と幾何学と、どこそこに特殊な井戸がある事など。
・レーマ―の場合は、先人が残した天体観測データと、その当時に知られてた限りでの光の性質など。
に基づいて、未知の命題、というか新たな測定法を作り出した。どうやれば測れるかを知った。
でま、歴史に残るような発見発明をした人の数は限られるから見落とされがちだけど、推論という能力、脳の機能は、ほぼ全ての人に備わってる。なぜそう言えるのか?
推論を行うと、経験では知りえない事を知りうる。これを言い換えると・・・・言い換え方は様々あるけど例えば;
・自分がした事ではない事を知りうる。
とも言える(場合もある)。これを更に言い換えると;
・他人が、自分の見てない所で何かをしたのを知りうる。
とも言える。推理小説の謎解きの多くはこれなのだけど、普通の人の日常生活内でも、こういう推理のような推論はしばしば行われている。例えば;
大勢の人が活動してる職場、あるいは学校の部室とかには、多くの道具が置かれてる。事務系なら文房具やファイルや荷造り用品やら。日々の業務を滞りなく進めるには、それらをきちんと整理整頓し、定物定位を守らねば。なのに、あれどこいった?な事態はしばしば発生する。誰かがどっかにやっちゃったに決まってる。でもたぶん、この室内にはある。
といった場合、探す立場の人の脳みそはどう働くのか?事務所の机や棚の引出しの全てに当たって虱潰しに探してもいいけど、それはちょっと知恵が足りない。時間も足りない。だから脳みそを多目に使う。しろうと探偵の出番すな。
・だいたい、いつも何かをどっかにやっちゃう犯人は決まってる。ところが今日に限ってそいつは休み。
・でも奴の行動パターンや癖は分かってる。
というのがこの案件での既知の命題、既に知ってる事。これらに基づいて予測すれば、失せ物のありそうな場所を数ヵ所に絞り込める。そして運よく引出しを2~3回開け閉めするだけで見つけられたら問題解決。推論を用いて導き出した未知の命題、つまり、そこにあると知らないはずの場所にあると知りえた事の正しさは証明された。
みたいのが、日常的に行われてる推論。こんなの当たり前で全然すごくないと思われるかもですが、つまり推論とは当たり前のように多くの人が持ち、とくべつ意識せず用いてる場合も多い能力なわけです。しかしこれを積み重ね高度化させるとノーベル賞がもらえたりミレニアム問題が解けたり、未だ存在してない何かしらを作れたりする。
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ですがやはり、ノーベル賞をもらえる人は限られてるし、創作をしたいと思っても未だ存在してない何かしらを作れない人は多い。それは何故か?
・推論は高度化させないと、目立つ成果はあげられない。
・やはりそもそも、推論できない人が多い。
どっちでしょうか?よく分かりませんので取りあえず、推論に限らず、脳がしてそうな事の概ね全てを書き並べてみます。
A.外部からの刺激を脳が扱える形式に変換する。(入力)
B.それを記憶する。
C1.現在受取ってる入力と脳内の記憶とを、あるいは記憶同士とを比較する。その項目は、
・「同じ」か「違う」か
・「似てる」か「似てない」か
・「大きい」か「小さい」か
・前か後か、右か左か、上か下か
C2.以上を行った結果、
・私と他者
・過去、現在、未来
の区別と比較が可能になる。
C3.記憶の内容を一般化・抽象化する。
C4.未来の予測と、他人の意図の推測を行う。
C5.推論を行う。
D1.以上の諸々=考えた事に基づいて外部に働きかける方法を選ぶ、あるいは新たに作る。
D2.その方法を用いて外部に働きかける。(出力)
ざっと思い付けるのは以上。これを「考える行程」とでも名付けよう。
ただこれは最新の脳科学に基づく云々とかではなく、いわば定性的なスケッチです。あまり科学的じゃないし漏れもあるかもですが、ともかく色々書きました。煩雑なので簡略化すると;
・A.入力→B.保存→C.加工→D.出力
という行程で一巡。この中で推論と関係するのは加工。その前段の入力と保存が十分に機能してるという前提条件を充たしたうえで加工の段階の諸々、つまり、
・自他の区別
・合同、相似、量、空間、時間等の概念の形成
・それらの利用法としての予測や一般化、抽象化
が行われ、更にこれらの情報加工によって得られた成果を用いて推論が行われる。
以上の整理の仕方が概ね正しいとすると推論は、考える行程の中の最も後段に位置し、脳の機能をフル活用する必要がある。となると人がいろいろ考える事の中でも高度な部類の方になる。でも失せ物探しの例のような推論はわりと誰でもする事で、だからほぼ全ての人に備わってる基本的な能力であるのも間違いない。
なお、言葉を扱うのは脳の最も重要な機能の一つですが、BからDの全てに関与してるとも言えるし、必ずしも常に必要ではないとも言える。また、出力は言葉だけでなく行動でも行われる。考える行程がA~Dのフルセット揃って推論ですが、推論まで至らずに出力される事も多い。つまり、
・入力→出力 ・・・脊髄反射ってやつすね
・入力→記憶→出力 ・・・考えなしにものを言うキャラはこれ
・入力→記憶→加工のC1.→出力 ・・・好き嫌いだけでものを言う系
・入力→記憶→加工のC3.→出力 ・・・これでようやく人間ぽくなり始め、
・入力→記憶→加工のC4.→出力 ・・・ここまで来ればちゃんと考えてるっぽい。
・入力→記憶→加工のC5.→出力の直前のD1 ・・・ここが上手くいってないと推論できてたとしても他の人には知られずに終るとか、何を言ってるのかが分からない人になってしまうとか。
なお、一般化、抽象化という言葉を説明なしに上記リストに混ぜましたけど、これらも色々誤用される事が多いワードなので一応wikiを。
抽象化 -wiki
日本語版wikiの↑の説明は簡略過ぎるので英語版の方も。
抽象化・Abstraction -wiki
一般化・Generalization -wiki
普遍的一般化・Universal generalization -wiki
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