推論と創作、その2 推論と言語
- 2018/02/13
- 06:50
前記事、推論と創作、改めてその1の続きです。
・・・・・・・・・・・・・・・
推論と言語の関係について;
推論した結果を出力するには言語が必要なのは当然として、その前に、出力する予定のものを脳内に準備せねばならず、この時すでに言語は必要であろう。では更にその前はどうなのか?というような事について考えたいのでまず始めに、野生動物も未来の予測や経験の一般化はしてるかも知れない件について考えてみます。
・ネコ科の動物は狩りをする。
狩りのスタイルはいろいろだけど、待ち伏せ式のもいる。ネコ科だけじゃなく、待ち伏せ式の狩りをする動物は少なくない。ではなぜ待ち伏せできるのか?適切な場所で待ってれば捕食できる可能性が高いと知ってるからであろう。ではなぜ知ってるのか?先天的に脳内に存在する行動パターンの類がそうさせるのだろうか?それとも彼らは、親から狩りの方法を教わり、それを新たな自分の狩場に適応・応用させてるのだろうか?つまり、狩りの方法を一般化できてるのだろうか?
・冬眠する動物は、冬眠前に餌を貯めたり過食したりする。 冬眠 -wiki
そうした方がいいに決まってるからそうするのだろうけど、なぜそうした方が良いと知ってるのか?これもまた、先天的にそういう行動パターンが刷り込まれてるのか、それとも親から教わり学習し、だから毎年、秋が来ればもうすぐ冬だと予測できて、意図的に冬眠の準備を始められるのだろうか?
動物に学習能力がある事は確実視されてるが、未来の予測や経験の一般化も可能かはまだ不明だから、待ち伏せや冬眠のような件については;
A.動物にも知性はあり、未来の予測や一般化を行ってる。
B.動物に知性は無く、先天的な行動パターン通りに活動してるだけ。ただ人間から見ると、まるで考えてるかのようにも見える。
のどちらかだろうとしか言えない。A.の方は更に;
A1.動物は言語を用いず予測や一般化を行ってる。
あるいは、
A2.動物は初歩的な予測や一般化を行える程度の、初歩的な言語を持ってる。
の二つに分岐し、都合三つの仮説が立つ。これらの内のどれかは概ね真であるとして問題なさそうだけど、どれが真かは分からない。しかしこの三つを混ぜて以下のように言える;
・言語や知性がなくても見かけ上、予測や一般化をしてるように行動できるし、それによって成果も得られる。また仮に、予測・一般化を行ってるとすると、言語が無くても、あるいは初歩的な言語さえあれば予測・一般化は行える。
以上は野生動物についての話し。では人間はどうなのか?体力や、過酷な環境に対する耐性は動物に比べ著しく劣るかわり、知能はずっと高いのが人間の特徴だから、考える事に関して、あるいは脳みその使い方に関して、動物に出来て人間に出来ない事があるはずがない(と思いたい)。となると、動物がたいした考えも無しに予測・一般化をしてるなら、人間だってとくに考えもせずに、あるいは言葉らしい言葉など用いずとも、同じ事が出来るはずだ。
ただし人間は初めから言葉ありきの動物なので、言葉を介さない予測・一般化をした事がない。だから考えるためには言葉が不可欠だと思ってしまうけど、それはただの思い込み・先入観にすぎず、実は言語なしでも初歩程度の予測・一般化は可能なのかもしれない。先に示した思考の行程に当てはめてみると、
・入力→保存→加工→出力
の、加工の初歩段階までは動物でも人間でも、言語がなくても出来るのかも。むしろ、人間の方が文明に保護され安全に生きてるので、野生動物よりも複雑で高度な社会の中にありながら、しかし用いる知恵の量は同等あるいはそれ以下で生きてしまえてるのかも知れない。逆に考えるんだ!ってやつですね。人間は脳みそを使えるからすごいんじゃない。脳みそ無しでもいけちゃうかもだからすごいんだ。
いやま、人はただ生きるだけ以外の事をいろいろ思い巡らせる。考える葦である。でもいろいろ考えてるだけでは、加工段階の後ろの方、つまりより高度な一般化・抽象化、そして推論にまでは辿り着かないかも知れない。なぜなら、使わない機能は育たないし衰える。
推論はほぼ全ての人の脳に備わってる機能だけど、文明に守られてる人間にはあまり必要ない能力だとも言える。文明が高度化するほど不要になるとも言える。例えば;
文明が今よりさらに高度化すれば、職場での失せ物探しなどAIがやってくれるようになる。あるいは様々な道具など用いず事務仕事ができるようになる。あるいはそもそも事務仕事など不要になる等々。
文明を高度化させるにはより高度な推論が必要だから、それを行ってる人はいる。しかし高度な文明の産物である発明品を用いる人に推論は不要。スマホを発明した人の数と、それを使うだけの人の数の比率。人間界の構成はそのように配分されている。
野生動物にも生きるための知恵のようなものはある。これはまあ、多くの人が認めると思う。しかし動物には言語がないのだとしたら、少なくとも人間のと同様な言語が無いのだとしたら、生きるための知恵は言語なしでも持ちうる、という事になる。そしてその事情は人間も同じ。とりあえず生きてるだけなら、人間の言語とはオマケ機能みたいなもの。あるいはむしろ、生きる事を必要以上に複雑化させてしまう無駄機能かも知れない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
では、動物の知性では不可能そうなこと、つまり推論、つまり経験では知りえない事を知り、未だ存在してない何かしらを作り出す事は、言語なしで可能だろうか?仮に可能だとしても、それを出力するには言語か行動が必要で、それは自然言語や専門用語、つまり普通の意味での言葉だけでなく、
・絵だったら絵画言語
・音楽だったら音楽言語
・数学だったら数学言語
等々の言語も含めての、ともかく何らかの言語として出力されるべきものを言語なしで脳内に準備できるかというと、仮に可能だとしても極めて困難だろうし、まあたいていは言語なしでは不可能。
そして、推論・創作の結果を行為・行動で出力する場合は、しかしその行動が推論されたうえのでのものなら、推論には記憶と加工が必要だから、普通は言語も必要。言語を介さない思考が可能ならその方が高速なので、考えるよりも早く行動しなければならない技芸、例えば狩りやスポーツ、楽器の演奏等では人は言葉なしで思考してるかもだけど、考えるより早い行動がつまり、その技芸での言語なのだとも言える。
ただ、これを用いるのは出力する時の事で、身体に仕込む段階では、つまり練習中は、自然言語も用いるであろう。という事も含めればやはりほぼ常に、推論には言語は必要だという事になる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上で、初歩的な思考では言語はあまり必要ではない、あるいはそれほど重要ではないかも知れないが、推論には必要であろう事を確認できました。科学的に証明できない動物の例を用いたのはあまり良くなかったけど、ともかく以上の事を概ね真と認めた上で、次のように問うてみる;
1.思考には初歩的と高度なのとがある。何が異なるのか?
2.初歩的思考に言語が不要なら、必須になるのはどの段階からか?
3.その段階での言語は、初歩でのとは異なるのか?
問い3.には四つの答えが予想される。
a.初歩的な言語で可能。
b.初歩的なのを用いるにしても、用い方が高度である。
c.高度な思考のための高度な言語が、既に存在してる。
d.未知の命題を示すには、未だ存在してない新たな言語が必要。
d.の実例は様々ある。例えば;
ライプニッツが微積分学を完成できたのは、これ用の新しい記号法を作り出せたから、と言えなくもない。彼は微積分のための記号、つまり微積分を記述するための新しい言葉を「発明」する事で、微積分を「発見」した、とも言える。なぜそう言えるのか?
発明品とはたいてい、わりと誰でも使える道具である。そして微積分のための記号とは、微積分のための道具。だから学校で微積分の数式の使い方を教われば、試験問題を解くくらいなら出来るようになる人も多い。しかし微積分によって何が発見されたのか?言い換えると、何がどう推論されて微積分学が「創作」されたのかを理解できる人は少ない。創作とはそういうもの。だから学校を卒業して数年もすると習ったことなど忘れてしまう。だもんで、ただの丸暗記ではなく原理を理解しましょうという数学書が増えて云々
ともかく上記のような例は他にも沢山あるので、高度な推論のためには、あるいは高度な推論がなされた結果、それ用の新たな言語が必要となる場合がある事は、真と認めて間違いなかろう。
今まで誰も聴いたことがないような美しいメロディ、なども新しい言語であろう。メロディは創作物なのか、それとも音の連なりの背後に隠されてる創作性を顕示するための言語なのか等は曖昧だけど、ともかくこういうのも新しい言語である。するとまた新たな問いが立つ;
Q.その新しい言語は、どうやって作り出されたのか?
A1.神様から与えられた
A2.既にある言語で推論し、新しい言葉を創作した
A1.について;
神様が誰かに新しい言語を与えたという実例を私は知らないが、そういう事がありえないと断言できる根拠も知らない。だからこの件の真偽については何も言えないが、以下の事は言える;
・科学の分野では、神様から与えられたと考える人は現在ほとんどいない。
・芸能では、まだ多いかも。
天才という言葉は近ごろ流行らないからギフテッドと言い換えたり、霊感も同じくインスピレーションが降りて云々と、まあそれは漢語をカタカナ語に変えるとかっこよくなったような気になれる日本語特有の事情だけど、ともかく芸能の分野では天才信仰が、つまり技芸の背後に神を想定する創作論は廃れてない。推論できない人が創作を語ろうとすると、そうなるしかないのかも知れない。
・天才とは、天賦の才の略語。天から与えられた能力。
・天とは世界を司る超自然的な存在。
・それを擬人化すると、中国では天帝、日本では神様。
・英語のgeniusの語源はラテン語で守護霊を意味するgenius。
だから漢語も英語も起源は概ね同じ。でもこれらの言葉は濫用され、元の意味合いは擦り減り、現在の用いられ方は感嘆詞に近づいてるかも。だから無信仰(自称)の人も、あるいは科学の分野の人も、この言葉を語源など気にせず使う。では、神は信じないが天才は信じてるのだろうか?などとしちめんどうな事は考えもせず、ただ単に、優れた技芸を評するための、より適切な言葉を知らないだけかも知れない。つまりよく考えもせず天才とかギフテドとか言う。しかしこのような言葉の扱い方は、雑ではではなかろうか。
人間はいろいろ考える。そのために言葉を用いる。言葉なしでもかんたんな事なら考えられるかもしれないけど、それでも言葉を用いる。言葉は考えるための道具であるなら、道具の用い方が雑、つまり不正確だったり用法を誤ってたり相応しくないのを選んでたりしたら、たぶん結果は良くない。つまりちゃんと考えられない。推論できない人は、言葉を正しく使えないのかも知れない。この件は後で再度云々します。にしてもこの記事は、推論とは何かを脳みその働きから説明しようと書いてるので神様の件はスルー。
A2.について;
既にある言語を用いて、未知の命題を示すための未だ存在してない言語を創作するのは可能だろうか?
これは可能。そもそも推論とは、既知の命題に基づいて未知の命題を導き出す事。つまり未知の素材は既知。それが可能なら、既知の言語から未知の言語を作るのも可能。だからa2は真と認められる。
では次に、先に示した問3の答えの候補c、
・高度な思考のための高度な言語が、既に存在してる。
について。しかしこれも新しい言葉を作るのと事情は同じ。つまり、既知の言語を用いて高度なのが作られたから、それは既に存在してる。
高度なのが作られる以前の既知の言語は、あまり高度じゃなかったであろう。中級程度かな。中程度のを用いて高度なのを作った。そして中程度が作られる以前の言語は、更に高度じゃなかったであろう。ならそれは初歩的なやつである。この事から自動的に、答えの候補a.も真であると言える。つまり、
・高度な思考は、初歩的な言語で可能
これはつまり例えば、ユークリッド幾何学に基づく定理や公式は沢山あるけど、それらは全て『原論』に示されたいくつかの定義と十数個の公理・公準を用いて導き出せる、というような事。少なくとも、公理系でならそう言える。
ただ、出発点の公理類さえ覚えてれば公式は暗記する必要はないかというと、もし、ユークリッド幾何学に基づきながらも、更に高度な事を考えたくなった場合、いちいち公理から考え始めてたら大変である。だから、より高度な思考をスムーズに行うためには初歩的な言語を用いて作られた高度な言語が、つまり公理から導き出された定理や公式が、既に用意されてる。
電子回路は、どれほど複雑で高機能なものであっても、使われてる部品は抵抗・コンデンサ・コイル・ダイオード・トランジスタの5種だけ。分類の仕方によっては多少増減するけど、ほんとこんなもん。これらの基礎的な部品≒初歩的な言語だけを組み合わせ、例えばスマホとかを動かす。つまり高度な推論によって得られた高機能を実現してる。
ライプニッツの記号法は、実はそれを用いずとも微積分は記述できる。ただ、とても煩雑になる。記号は便利のためのもの。だけど便利な記号を発明できると脳みその中がスース―する、みたいな事はありますわね。等々の事情も全て呑み込んだうえで、高度な思考も初歩的な言語で可能だと申し上げ、これも真とする。
では、答えの候補のb、
・初歩的なのを用いるにしても、用い方が高度である。
はどうだろう?これはまだ保留して、元々の設問を再提示。
1.思考には初歩的と高度なのとがある。何が異なるのか?
2.初歩的思考に言語が不要なら、必須になるのはどの段階からか?
3.その段階での言語は、初歩でのとは異なるのか?
このうちの2.については、初歩的思考であろうと人間はどうせ言葉を使うので、この問いは無視する。3については、初歩的でも高度でも、どっちでもいい。どっちでもいいけど「なんでもいい」とまで言えるだろうか?という事で考えるべき事は、
・思考の、初歩的と高度なのとの違い
・どんな言葉を用いるべきか?
・どう用いるべきか?
の3点に絞られるが、言葉が思考のための道具であるなら、これは作業する時に何をどう使うべきかの問題に擬えられる。この場合の道具は既にある物なので、「何を」は、ありものの中から最適なのを選ぶ事であろう。どう使うかについては、たぶん間違った使い方ではいけないし、たぶん高度に使えた方が良いであろう。最適な道具を間違わず高度に使うのを一言で言い表せば「正しく用いる」等であろう。この場合の道具は言葉なので、言葉を正しく用いるのが、推論という作業には必要だと予想される。という事で、考えるべき事は次の2点となる;
・初歩的な思考と高度なのとは、何がどう違うのか?
・言葉の正しい用い方とは何か?
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今日はここまで。続きはまた明日以降に。
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推論と言語の関係について;
推論した結果を出力するには言語が必要なのは当然として、その前に、出力する予定のものを脳内に準備せねばならず、この時すでに言語は必要であろう。では更にその前はどうなのか?というような事について考えたいのでまず始めに、野生動物も未来の予測や経験の一般化はしてるかも知れない件について考えてみます。
・ネコ科の動物は狩りをする。
狩りのスタイルはいろいろだけど、待ち伏せ式のもいる。ネコ科だけじゃなく、待ち伏せ式の狩りをする動物は少なくない。ではなぜ待ち伏せできるのか?適切な場所で待ってれば捕食できる可能性が高いと知ってるからであろう。ではなぜ知ってるのか?先天的に脳内に存在する行動パターンの類がそうさせるのだろうか?それとも彼らは、親から狩りの方法を教わり、それを新たな自分の狩場に適応・応用させてるのだろうか?つまり、狩りの方法を一般化できてるのだろうか?
・冬眠する動物は、冬眠前に餌を貯めたり過食したりする。 冬眠 -wiki
そうした方がいいに決まってるからそうするのだろうけど、なぜそうした方が良いと知ってるのか?これもまた、先天的にそういう行動パターンが刷り込まれてるのか、それとも親から教わり学習し、だから毎年、秋が来ればもうすぐ冬だと予測できて、意図的に冬眠の準備を始められるのだろうか?
動物に学習能力がある事は確実視されてるが、未来の予測や経験の一般化も可能かはまだ不明だから、待ち伏せや冬眠のような件については;
A.動物にも知性はあり、未来の予測や一般化を行ってる。
B.動物に知性は無く、先天的な行動パターン通りに活動してるだけ。ただ人間から見ると、まるで考えてるかのようにも見える。
のどちらかだろうとしか言えない。A.の方は更に;
A1.動物は言語を用いず予測や一般化を行ってる。
あるいは、
A2.動物は初歩的な予測や一般化を行える程度の、初歩的な言語を持ってる。
の二つに分岐し、都合三つの仮説が立つ。これらの内のどれかは概ね真であるとして問題なさそうだけど、どれが真かは分からない。しかしこの三つを混ぜて以下のように言える;
・言語や知性がなくても見かけ上、予測や一般化をしてるように行動できるし、それによって成果も得られる。また仮に、予測・一般化を行ってるとすると、言語が無くても、あるいは初歩的な言語さえあれば予測・一般化は行える。
以上は野生動物についての話し。では人間はどうなのか?体力や、過酷な環境に対する耐性は動物に比べ著しく劣るかわり、知能はずっと高いのが人間の特徴だから、考える事に関して、あるいは脳みその使い方に関して、動物に出来て人間に出来ない事があるはずがない(と思いたい)。となると、動物がたいした考えも無しに予測・一般化をしてるなら、人間だってとくに考えもせずに、あるいは言葉らしい言葉など用いずとも、同じ事が出来るはずだ。
ただし人間は初めから言葉ありきの動物なので、言葉を介さない予測・一般化をした事がない。だから考えるためには言葉が不可欠だと思ってしまうけど、それはただの思い込み・先入観にすぎず、実は言語なしでも初歩程度の予測・一般化は可能なのかもしれない。先に示した思考の行程に当てはめてみると、
・入力→保存→加工→出力
の、加工の初歩段階までは動物でも人間でも、言語がなくても出来るのかも。むしろ、人間の方が文明に保護され安全に生きてるので、野生動物よりも複雑で高度な社会の中にありながら、しかし用いる知恵の量は同等あるいはそれ以下で生きてしまえてるのかも知れない。逆に考えるんだ!ってやつですね。人間は脳みそを使えるからすごいんじゃない。脳みそ無しでもいけちゃうかもだからすごいんだ。
いやま、人はただ生きるだけ以外の事をいろいろ思い巡らせる。考える葦である。でもいろいろ考えてるだけでは、加工段階の後ろの方、つまりより高度な一般化・抽象化、そして推論にまでは辿り着かないかも知れない。なぜなら、使わない機能は育たないし衰える。
推論はほぼ全ての人の脳に備わってる機能だけど、文明に守られてる人間にはあまり必要ない能力だとも言える。文明が高度化するほど不要になるとも言える。例えば;
文明が今よりさらに高度化すれば、職場での失せ物探しなどAIがやってくれるようになる。あるいは様々な道具など用いず事務仕事ができるようになる。あるいはそもそも事務仕事など不要になる等々。
文明を高度化させるにはより高度な推論が必要だから、それを行ってる人はいる。しかし高度な文明の産物である発明品を用いる人に推論は不要。スマホを発明した人の数と、それを使うだけの人の数の比率。人間界の構成はそのように配分されている。
野生動物にも生きるための知恵のようなものはある。これはまあ、多くの人が認めると思う。しかし動物には言語がないのだとしたら、少なくとも人間のと同様な言語が無いのだとしたら、生きるための知恵は言語なしでも持ちうる、という事になる。そしてその事情は人間も同じ。とりあえず生きてるだけなら、人間の言語とはオマケ機能みたいなもの。あるいはむしろ、生きる事を必要以上に複雑化させてしまう無駄機能かも知れない。
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では、動物の知性では不可能そうなこと、つまり推論、つまり経験では知りえない事を知り、未だ存在してない何かしらを作り出す事は、言語なしで可能だろうか?仮に可能だとしても、それを出力するには言語か行動が必要で、それは自然言語や専門用語、つまり普通の意味での言葉だけでなく、
・絵だったら絵画言語
・音楽だったら音楽言語
・数学だったら数学言語
等々の言語も含めての、ともかく何らかの言語として出力されるべきものを言語なしで脳内に準備できるかというと、仮に可能だとしても極めて困難だろうし、まあたいていは言語なしでは不可能。
そして、推論・創作の結果を行為・行動で出力する場合は、しかしその行動が推論されたうえのでのものなら、推論には記憶と加工が必要だから、普通は言語も必要。言語を介さない思考が可能ならその方が高速なので、考えるよりも早く行動しなければならない技芸、例えば狩りやスポーツ、楽器の演奏等では人は言葉なしで思考してるかもだけど、考えるより早い行動がつまり、その技芸での言語なのだとも言える。
ただ、これを用いるのは出力する時の事で、身体に仕込む段階では、つまり練習中は、自然言語も用いるであろう。という事も含めればやはりほぼ常に、推論には言語は必要だという事になる。
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以上で、初歩的な思考では言語はあまり必要ではない、あるいはそれほど重要ではないかも知れないが、推論には必要であろう事を確認できました。科学的に証明できない動物の例を用いたのはあまり良くなかったけど、ともかく以上の事を概ね真と認めた上で、次のように問うてみる;
1.思考には初歩的と高度なのとがある。何が異なるのか?
2.初歩的思考に言語が不要なら、必須になるのはどの段階からか?
3.その段階での言語は、初歩でのとは異なるのか?
問い3.には四つの答えが予想される。
a.初歩的な言語で可能。
b.初歩的なのを用いるにしても、用い方が高度である。
c.高度な思考のための高度な言語が、既に存在してる。
d.未知の命題を示すには、未だ存在してない新たな言語が必要。
d.の実例は様々ある。例えば;
ライプニッツが微積分学を完成できたのは、これ用の新しい記号法を作り出せたから、と言えなくもない。彼は微積分のための記号、つまり微積分を記述するための新しい言葉を「発明」する事で、微積分を「発見」した、とも言える。なぜそう言えるのか?
発明品とはたいてい、わりと誰でも使える道具である。そして微積分のための記号とは、微積分のための道具。だから学校で微積分の数式の使い方を教われば、試験問題を解くくらいなら出来るようになる人も多い。しかし微積分によって何が発見されたのか?言い換えると、何がどう推論されて微積分学が「創作」されたのかを理解できる人は少ない。創作とはそういうもの。だから学校を卒業して数年もすると習ったことなど忘れてしまう。だもんで、ただの丸暗記ではなく原理を理解しましょうという数学書が増えて云々
ともかく上記のような例は他にも沢山あるので、高度な推論のためには、あるいは高度な推論がなされた結果、それ用の新たな言語が必要となる場合がある事は、真と認めて間違いなかろう。
今まで誰も聴いたことがないような美しいメロディ、なども新しい言語であろう。メロディは創作物なのか、それとも音の連なりの背後に隠されてる創作性を顕示するための言語なのか等は曖昧だけど、ともかくこういうのも新しい言語である。するとまた新たな問いが立つ;
Q.その新しい言語は、どうやって作り出されたのか?
A1.神様から与えられた
A2.既にある言語で推論し、新しい言葉を創作した
A1.について;
神様が誰かに新しい言語を与えたという実例を私は知らないが、そういう事がありえないと断言できる根拠も知らない。だからこの件の真偽については何も言えないが、以下の事は言える;
・科学の分野では、神様から与えられたと考える人は現在ほとんどいない。
・芸能では、まだ多いかも。
天才という言葉は近ごろ流行らないからギフテッドと言い換えたり、霊感も同じくインスピレーションが降りて云々と、まあそれは漢語をカタカナ語に変えるとかっこよくなったような気になれる日本語特有の事情だけど、ともかく芸能の分野では天才信仰が、つまり技芸の背後に神を想定する創作論は廃れてない。推論できない人が創作を語ろうとすると、そうなるしかないのかも知れない。
・天才とは、天賦の才の略語。天から与えられた能力。
・天とは世界を司る超自然的な存在。
・それを擬人化すると、中国では天帝、日本では神様。
・英語のgeniusの語源はラテン語で守護霊を意味するgenius。
だから漢語も英語も起源は概ね同じ。でもこれらの言葉は濫用され、元の意味合いは擦り減り、現在の用いられ方は感嘆詞に近づいてるかも。だから無信仰(自称)の人も、あるいは科学の分野の人も、この言葉を語源など気にせず使う。では、神は信じないが天才は信じてるのだろうか?などとしちめんどうな事は考えもせず、ただ単に、優れた技芸を評するための、より適切な言葉を知らないだけかも知れない。つまりよく考えもせず天才とかギフテドとか言う。しかしこのような言葉の扱い方は、雑ではではなかろうか。
人間はいろいろ考える。そのために言葉を用いる。言葉なしでもかんたんな事なら考えられるかもしれないけど、それでも言葉を用いる。言葉は考えるための道具であるなら、道具の用い方が雑、つまり不正確だったり用法を誤ってたり相応しくないのを選んでたりしたら、たぶん結果は良くない。つまりちゃんと考えられない。推論できない人は、言葉を正しく使えないのかも知れない。この件は後で再度云々します。にしてもこの記事は、推論とは何かを脳みその働きから説明しようと書いてるので神様の件はスルー。
A2.について;
既にある言語を用いて、未知の命題を示すための未だ存在してない言語を創作するのは可能だろうか?
これは可能。そもそも推論とは、既知の命題に基づいて未知の命題を導き出す事。つまり未知の素材は既知。それが可能なら、既知の言語から未知の言語を作るのも可能。だからa2は真と認められる。
では次に、先に示した問3の答えの候補c、
・高度な思考のための高度な言語が、既に存在してる。
について。しかしこれも新しい言葉を作るのと事情は同じ。つまり、既知の言語を用いて高度なのが作られたから、それは既に存在してる。
高度なのが作られる以前の既知の言語は、あまり高度じゃなかったであろう。中級程度かな。中程度のを用いて高度なのを作った。そして中程度が作られる以前の言語は、更に高度じゃなかったであろう。ならそれは初歩的なやつである。この事から自動的に、答えの候補a.も真であると言える。つまり、
・高度な思考は、初歩的な言語で可能
これはつまり例えば、ユークリッド幾何学に基づく定理や公式は沢山あるけど、それらは全て『原論』に示されたいくつかの定義と十数個の公理・公準を用いて導き出せる、というような事。少なくとも、公理系でならそう言える。
ただ、出発点の公理類さえ覚えてれば公式は暗記する必要はないかというと、もし、ユークリッド幾何学に基づきながらも、更に高度な事を考えたくなった場合、いちいち公理から考え始めてたら大変である。だから、より高度な思考をスムーズに行うためには初歩的な言語を用いて作られた高度な言語が、つまり公理から導き出された定理や公式が、既に用意されてる。
電子回路は、どれほど複雑で高機能なものであっても、使われてる部品は抵抗・コンデンサ・コイル・ダイオード・トランジスタの5種だけ。分類の仕方によっては多少増減するけど、ほんとこんなもん。これらの基礎的な部品≒初歩的な言語だけを組み合わせ、例えばスマホとかを動かす。つまり高度な推論によって得られた高機能を実現してる。
ライプニッツの記号法は、実はそれを用いずとも微積分は記述できる。ただ、とても煩雑になる。記号は便利のためのもの。だけど便利な記号を発明できると脳みその中がスース―する、みたいな事はありますわね。等々の事情も全て呑み込んだうえで、高度な思考も初歩的な言語で可能だと申し上げ、これも真とする。
では、答えの候補のb、
・初歩的なのを用いるにしても、用い方が高度である。
はどうだろう?これはまだ保留して、元々の設問を再提示。
1.思考には初歩的と高度なのとがある。何が異なるのか?
2.初歩的思考に言語が不要なら、必須になるのはどの段階からか?
3.その段階での言語は、初歩でのとは異なるのか?
このうちの2.については、初歩的思考であろうと人間はどうせ言葉を使うので、この問いは無視する。3については、初歩的でも高度でも、どっちでもいい。どっちでもいいけど「なんでもいい」とまで言えるだろうか?という事で考えるべき事は、
・思考の、初歩的と高度なのとの違い
・どんな言葉を用いるべきか?
・どう用いるべきか?
の3点に絞られるが、言葉が思考のための道具であるなら、これは作業する時に何をどう使うべきかの問題に擬えられる。この場合の道具は既にある物なので、「何を」は、ありものの中から最適なのを選ぶ事であろう。どう使うかについては、たぶん間違った使い方ではいけないし、たぶん高度に使えた方が良いであろう。最適な道具を間違わず高度に使うのを一言で言い表せば「正しく用いる」等であろう。この場合の道具は言葉なので、言葉を正しく用いるのが、推論という作業には必要だと予想される。という事で、考えるべき事は次の2点となる;
・初歩的な思考と高度なのとは、何がどう違うのか?
・言葉の正しい用い方とは何か?
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今日はここまで。続きはまた明日以降に。
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