推論と創作、その3 ”真”について
- 2018/02/18
- 05:55
前記事、推論と創作、その2の続きです。
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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”真”について
正しく考えるには言葉を正しく用いなければならない、という当たり前みたいな事を言うため、ここまで多くの文字を費やしました。読むの面倒かも知れません。結論は「言葉を正しく使うべき」の一言。だったらそれだけ言っとけよ、と思う人もいるかもだけど、そういう人は推論には向かない。つまり、結論・結果だけを求める人は推論には向かない。ならば私の作文が面白くなくても当然。
じゃあ推論に向いてる人にとってなら面白いかというと、推論や創作に向いてる人、あるいは既にそれらを行い結果も出せてる人は、推論・創作の方法を既に知ってるのだから、私の作文は不要。それに、推論・創作できる人は、その方法を他人から教わるより自力で工夫するのを好む傾向がある。つまり、創作のための方法を自力で創作できる。創作の方法を教わりたがる人は、創作には向かない。
初歩的な推論はわりと誰でも行うが、高度化できる人は少ない、と繰り返し書いてます。また、文明に守られてる人間に推論は不要かもとも。この言い草に腹を立てる人がいるかも知れない。推論できない人を見下してるのか、と。
表現は教えられるが創作を教えるのはたいてい無理、とも書きました。これに対しても表現を見下してると捉える人がいるかも知れない。
ですが私は、どっちが上とかは一言も書いてない。だからもし私の作文を読んで上記のような感想が生じたなら、それは読み手側が付け加えた内容であり、読者の価値観の反映である可能性が高い。読み手の脳みその中身を外部=私の作文に投影してる格好。私は、どっちが上かとかは書いてない、つまり、人と人とを比べてない。書かれてもない上下関係に思いが及んでしまう人は、趣味が多様化した理由の5、「自己の優位性・有用性を示したい」に当てはまるタイプかも知れません。
ところで、推論で得た未知の命題が真に未知であるかや、創作した結果が真に創作的であるかは、他者との比較や、他者からの評価では判定できない。創作性に対する判定もまた推論であり、むしろ、その判定を行える人が創作できる人なのだ。この件については後で再度云々しますがともかく、人と人とを比べる人は自己判定が疎かになりがちだから、創作には向かない。
ならば、上記諸々の逆を取れば創作できるのか?つまり結論・結果だけを求めず、創作の方法を教わらず、人と人とを比べなければ創作できるようになるか?私には、たぶんそれだけではとくにどうともとしか思えない。この場合、偽の逆は真でなく、創作を教えるのがたいてい無理だというのは、こういう事からも言える。結果だけを求める人は推論に向かないし、結果だけを求めなければ推論できるんだと思う人も推論に向かない等々。
初歩的な推論はわりと誰でも行うが高度化するのは難しいかもだし、創作した結果への判定も難しいかも。しかし以上の事から、自分に推論・創作の適性があるかどうかの自己判定は、比較的容易かもとも思われてきます。そして更に次のようにも言える。自己判定した結果どうやら自分には向いてなさそうだからもうやめる、と思う人は創作には向かない。
なお既に述べたように、創作を教えられない理由を考えるのがこの作文での主な関心事なので、最後まで読んでも創作の仕方が分かったりはしません。読者をがっかりさせないよう、予め念押ししときます。そもそも、推論はたいていの人の脳に備わってる基本的な機能だというのがこの作文での大前提。
あとま、推論しなくても創作できる人にとっては当然、この作文は不要。更に、科学と芸能の両方に馴染みがあるか、少なくともそれなりの予備知識を持ってるかじゃないと読むの面倒そうで、しかしこうなると本稿はホント誰にとっても面白くなさそげだ。でも少なくとも唯一の例外がいて、それは私自身。頭の中のもやもやを整理するため作文するのは楽しいし、必要な事でもあるし、あれこれ考えた経緯の記録は推論の実例なのでもある。まああまり創作的じゃないかもだけど、推論的ではある。ただ稚拙かも。そのせいで無駄に長くなってるなら、その点に対する悪評は正当。
ただ更に、この作文は、芸能の創作を推論と絡めて説明しようとしてる。科学でだけの推論ならいろいろ考えるまでもなく、ぐぐよろでおk。しかし科学での推論と芸能の創作は、全く同じではない。同じな時もあるかもだけど、同じじゃない方が多い(はず)。どう違うかというと、推論できてるか出来てないかの判定基準が、科学では明確なのに対して芸能では曖昧。あるいはそもそも芸能での創作に判定基準などない。
だけど芸能が創作される過程が推論的な場合が多いのもたぶん事実で、だから推論と創作は似てる。似てるけど同じじゃない。その二つを別扱いしてないため、話しの進め方が回りくどく、文字数が多めになってしまう。ただこれ、きっちり別扱いにしても、どうせやっぱり長くなる。しょうがないのだ。
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推論と創作を区別してないのが良くないのは文字数が増える点だけでなく、不正確にもなる。こっちの方こそ問題で、そもそも最初に書いた推論の説明、
「既知の命題に基づいて、未知の命題を導き出す事」
これが不正確。説明順の都合上そうしてたのでもあるけど、いつまでもほっとけない。言葉の「正しさ」について考え始めようとしてる現段階は、この点を正す良い機会なので、それを示します。命題について、も一度wikiへのリンクを;
命題 -wiki
命題は真か偽の性質を持つ。だから推論とは何かをも少し丁寧に書くと、
「既知の”真”の命題に基づいて、未知の”真”の命題を導き出す事」
となる。更にも少し言葉を足すと、たいていの推論は、
「複数の、既知の”真”の命題に基づいて、一つの、未知の”真”の命題を導き出す事」
等々。だけど私は”真”を入れてなかった。これは意図的。なぜなら芸能の創作では、
1.既知の命題は偽でもかまわない。あるいは真偽を問う必要が無い。
2.というより、科学と芸能とでは”真”の意味合いが異なる。
3.芸能での推論の結果、つまり創作されたものは、未知の何かしらでなくともかまわない。つまり既知でも、つまり実は、既に存在してた何かしらでもかまわない場合が多い。
という事情があるため、科学での推論と芸能でのそれとは、扱い方が違う。科学での推論について説明するなら常に必ず”真”を入れるべきだが、芸能ではその必要はない、というよりそうしない方が良い。いやべつに入れてもいいけど、それは個々人の好みや信条等の問題で、私は入れない方を採用。上記3項を説明するため、まず最初は2について;
・科学と芸能とでは”真”の意味合いが異なる。
数学での真は、人間とは無関係に真である。つまり例えばピタゴラスの定理。直角三角形の三辺の長さの関係は、人類が誕生する前からあのように定まってたし、今後もし人類が全滅したとしても不変である。物理でなら万有引力の法則とか。でもこの考え方への反論はいろいろあって、一番よく知られてるのは人間原理;
人間原理 -wiki
ていうか、人口に膾炙してるのは人間原理の厨二解釈やもだけどともかく、永遠不変の真理など無いかも知れない。でもま、永遠は無理にしてもそうとう長期間、そしてこれらの学問の専門家のほぼ全員が真と認める真はあり、それを土台にまた新たな真を見出し積み重ねてくのが、科学での真。個人差によらない真である、とも言える。
一方、芸能での真はほぼ全て、人間にとってのみの真である。人類なくして芸能の真は無く、人類が滅べば芸能の真は消える。誰もが認める真は一つも無く、不変性も無い。真偽の証明法も定まってない。
個人差がある真である、とも言える。つまりある人にとっては真だが別の人にとっては偽。あるいは、ある集団にとっては真だが別の集団にとっては偽。いわゆる御流儀,schoolごとに真が異なり、互いに反目し合うが、真が異なる故の利益がありもする。科学の立場からするとそんなの真じゃないけど、それでも芸能にも真があるのだとすると、その在り方は以上のようになる。
上記からキーワードを抜き出し、科学と芸能での”真”の違いは個人差の有無である、と整理できたら良いのだけど、芸能でも個人差のない真を求めてる人はいるかもだし、少なくともそれがあると主張する人はいるし、そして実際、個人差のない真は既に存してるかもだし、だから話しは単純じゃない。ともかく芸能での真は曖昧。
だがそうなると、芸能での真とは何かがよく分からなくなってしまい、真偽を定める事もできない。更に、推論した結果が既知でもかまわないという現実もあり、以上の諸々をひっくるめ、
・芸能の推論での既知の命題は偽でもかまわない。あるいは真偽を問う必要が無い。
とするのは妥当。わざわざよく分からない事にまで言及すべきではなく、芸能での推論とは何かを簡略に説明するなら”真”を入れずに、
「既知の命題に基づいて、未知の命題を導き出す事」
と言うのが理に適ってると思うから、私は今まで真を入れてなかったし、この段落を過ぎたら再び、真なしで云々するつもり。
真を入れない理由の3つめは、
・芸能での推論・創作は既に存在してた何かしらでもかまわない場合が多い。
科学では未知でないと無意味だが、芸能は既知でもかまわない。その根拠は3つ;
1.かつて存在したが忘れられてしまったものがある。
2.既知の変形、あるいはバージョン違いの類でしかないものを未知と認める事が多い。
3.多くの人にとっての既知も、それを未だ知らない人にとっては未知である。
1.
この具体例は、流行循環とか。スカート丈は伸び縮みする。
科学の”真”は長期間保持されるが、芸能では、かつて多くの人の既知であった何かしらが、今は誰からも忘れられてる、という事例は多く、それが再び現れれば未知と見なされる。
完全に忘れられてたのではなく、そういえばこういうのあったっけと思い出させてくれるリバイバルの類も、芸能では十分有意義な未知。再発見も発見であり、そこには創作性が認められる。
2.
科学では、既知の変形を未知として提示するのは、たいていNGである。例えばピタゴラスの定理の証明;
この方法は数百通りあるとされてる。過去に提示され忘れ去られたものは、たぶんもっとある。だから既に知られてる証明法を少し変形して、新しい証明法を見つけたと、つまり新しい方法が創作できたと主張するのは容易だけど、それが既知の変形に過ぎない、つまりバージョン違いみたいなのに過ぎないと見破られれば、新しいとは認めてもらえない。wikiでは、16通りの証明法が紹介されてる@2018年2月現在。
ピタゴラスの定理 -wiki
代表的な十数種という事のようだけど、つまり数百あるのも大半はそれぞれの少しずつの変形で、似たのを整理すれば十数か、あるいは数十あるにしても、総数はぐっと減る、という事だと思う。ただwikiの16種にしても、この中にもバージョン違いに過ぎないのが含まれてると主張する人はいるだろうし、16では少ないと考える人もいるだろうし、そしてどっちが正しいかは明確でない。でもま、あからさまにただのバージョン違いなのはNG。
しかし数学でさえこういう事があるのだから、芸能ではなおさら。有名曲を盗作すればすぐにばれるが、数年前のたいしてヒットしなかった曲なら、盗作しても気付かれない。無自覚で盗作してる場合もある。
じゃあこういうバージョン違いみたいのは無価値なのか?ピタゴラスの定理の新しい証明法を考えるのは、有意義である。初歩段階の学習者はバージョン違いしか作れないであろう。技量が上がればバージョン違いだと見破られにくいのを作れるようになるかも知れず、やがては本当に新しいのを作れるかもしれない。でもそれを発表する前に、それが本当に新しいかどうか検証しなくてはならない。といった過程の全てが、推論のための良い訓練になる。その事情は芸能でも同じ。ただ、盗作、バージョン違いも価値ありとする許容幅が科学よりもはるかに広く、基準が曖昧。
あとカバー曲とか二次創作とか、つまり既知の変形である事を明示する創作もある。それに創作性を認めるかはまた意見が分かれるが、ともかく芸能ではこれらも無価値とされない事が多いし、実際、創作性が認められるバージョン違いの実例は無数にある。
3.
多くの人にとっての既知も、それを未だ知らない人にとっては未知である。
かつて存在したが忘れられてしまったものの件を集団的で歴史的な忘却とするなら、未だ知らない人にとっての件は、個人的で共時的な未知であると言える。この2件から時間という要素を取払えば、どちらも”無知”であるとも言える。忘れたも、未だ知らないも無知。集団的・歴史的な無知から生じる創作性に価値ありと認めるなら、個人的な無知から生じる方も同じく価値ありとすべきだろう。ただそうなると芸能の未知性は、つまり創作性の価値は、無知に支えられてるようにも思われてくる。
だが芸能に関わる人の全てが無知ではなかろうから、我は知者なりと自覚する者は無知性に依存しない芸能の創作を志し、それはまた科学と同質の”真”を芸能にも求める動機ともなるやもだけど、知者(自称)の実際は、たいてい無知である。無知だからこそ自分は賢いと自惚れる。まあ知者(自称)の全員が愚か者ではなかろうけど、それを自他ともに証明するには推論が必要で、それが出来る人は創作できる人でもある云々
いやま、未だ知らない人にとっての未知な作品に対して「そんなの知ってるアピール」をする人は多いわけですよ。だけどそれ、あまり良くない。そんなの知ってる者同士では、それを知ってる事自体が既知だから、わざわざアピールしてくれなくておk。それでも何かディスりたい事とかあるなら知ってる件は隠して、も少し中身のある事を言うべき。でもたいてい、他に言いたい事とかはとくにないのだな。知ってるという事だけしか知ってない。知ってるアピールする人は創作には向かない。
趣味でやる数学は、学問か芸能か?本稿での趣味とは主に、初めに述べた趣味が多様化した理由の6の、専門性の高さを求める方のを念頭に置いてるから、芸能っぽい、言い換えれば娯楽として数学をしてる人であっても何らかの専門性を志向してると見なし、つまり長期的な目標としては創作的な成果を得ようとしてると見なし、つまり推論しようとしてるのだと見なし、でもまやっぱ趣味なんで、最初は中学校レベルから始めるという人もいるだろう。ちなみに私はそのコース。
そういうとこから趣味の数学を始めると、本に書かれてる事の全ては既知。いやま大学数学の教科書に載ってるのだって専門家からすれば全て既知だけど、中学レベルだと既知度が高い。だいたい自分だって一応は昔やった事なので、ともかくそこから復習を始めると、やはり数学は苦手と思ってる事もあり、だんだんと面倒になり、すると段々、自分に対して知ってるアピールし始めちゃうんですね。こんなの知ってるはいはい知ってる。だけどこれは良くない傾向、というのに気付くのに私は時間がかかり、一年くらいを無駄にした。
入門者にとっての初歩的な未知は、それを記述するための文字数がたいてい少なく、だから簡単なように思えるし、暗記もしやすい。しかしそれをただ暗記するのではなく理解するには、初心者であろうと推論が必要。なぜなら既知の命題=数学の場合は定理や公式の類とは、多くの人に知られ長い年月が経ってるから既知であり、でも最初はどれも、推論によって導き出された未知だった。だから命題には、過去になされた推論が封じられてる。だから命題を理解するという事は、その封印を私自身が開くという事。つまりその命題を生み出した推論を、私自身が行うという事。
「人は未知を学ぶのではない。未知から学ぶのだ。」
↑これカントのバージョン違い。
「諸君は私から哲学を学ぶのではない。哲学することを学ぶのだ。」
一番初歩的なのが一番かんたん、ではないです。例えば1+1が2になる理由を正しく説明するのは難しい。そもそも”1”とは何かがよく分からない(みたいな事をポアンカレが言ってた)。でもそういった諸々を公理的に扱い、それらを多少高度に組み合わせた中学レベルの数学ならやっぱ簡単なので、推論の練習には良いです。
あと、答えが必ずあると分かってるのも大事。失せ物探しをする時、この部屋のどこかに必ずあると分かってる場合と、外出時に失くした可能性もある場合とでは、真剣さが違う。絶対あるはずだと確信できるなら意地になってでも探す。でま中学レベルの探し物ならわりと短時間で成功しやすいので、そういうのを数こなす。良い練習だと思います。芸能では、答えが無いかも知れない推論をせざるをえない場合も多く、そればかりやってると答えが出ない事に慣れてしまう。負け癖が付いてしまうようなものです。
多くの人にとっての既知も、それを未だ知らない人にとっては未知。これを軽んじてはいけない。本稿の始めの方で創作という語の意味を簡略に、
・それまでに無かったものを新たにつくり出すこと
として、しかし「それまでに無かったもの」とは曖昧だと書いた理由の一つはこれ。知らない人にとっての未知の件も含めて上記を書き直すと、創作とは、
・忘れられてたものを思い出すこと
でもあり、更には、
・失われかけてた価値を再生させること
・古来の知恵を新しい言葉で語りなおすこと
等々とも言い表せ、これらは個人的な出来事としても、人類全体に関わる事としても、十分有意義だと認められる。
あとまついでに書いとくけど、趣味の数学でも、いつか大発見してやるつもりでやってないと推論の練習にはならないと思う。天体観測だと趣味でやってる人が新星を発見したりするけど、というか現在、小惑星帯での発見の主力はアマチュアらしいけど、数学はどうだろうか?少なくとも私が数学で何か発見できる見通しはないが、あくまで「つもり」で、高いところを目指さないと現状を変えようという気も起きなさそげ。創作に関与する脳・感情・心の内、以上の事はどちらかというと脳よりも、感情や心の問題。
山登りでは、先ばかり考えると辛くなるから足元をしっかり見つめて歩く。それは実際面での大切な知識だけど、登ろうとしてる山が何メートルかを知らずに登り始める人ってのもいないもので、目標に合わせた装備を準備して、あの頂上に立ったらどんなだろうと思うから登ろうとする。そこら辺の小山のつもりで登り始めたのが実は3千メートル級だったりしたら事故起こします。
ただこれ、成長期と中年以降とでは条件が違う。成長期の人間は何となく登ってるうち、高度に合わせて驚異の進化をする(場合もある)。なぜか高度に適合する装備が体内から湧いてくる。魔法かよ。中年を過ぎると、そういう事はまず起こらない。だから趣味でも何でも、子供のころから始めるのが吉。
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今日はここまで。続きはまた明日以降に。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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”真”について
正しく考えるには言葉を正しく用いなければならない、という当たり前みたいな事を言うため、ここまで多くの文字を費やしました。読むの面倒かも知れません。結論は「言葉を正しく使うべき」の一言。だったらそれだけ言っとけよ、と思う人もいるかもだけど、そういう人は推論には向かない。つまり、結論・結果だけを求める人は推論には向かない。ならば私の作文が面白くなくても当然。
じゃあ推論に向いてる人にとってなら面白いかというと、推論や創作に向いてる人、あるいは既にそれらを行い結果も出せてる人は、推論・創作の方法を既に知ってるのだから、私の作文は不要。それに、推論・創作できる人は、その方法を他人から教わるより自力で工夫するのを好む傾向がある。つまり、創作のための方法を自力で創作できる。創作の方法を教わりたがる人は、創作には向かない。
初歩的な推論はわりと誰でも行うが、高度化できる人は少ない、と繰り返し書いてます。また、文明に守られてる人間に推論は不要かもとも。この言い草に腹を立てる人がいるかも知れない。推論できない人を見下してるのか、と。
表現は教えられるが創作を教えるのはたいてい無理、とも書きました。これに対しても表現を見下してると捉える人がいるかも知れない。
ですが私は、どっちが上とかは一言も書いてない。だからもし私の作文を読んで上記のような感想が生じたなら、それは読み手側が付け加えた内容であり、読者の価値観の反映である可能性が高い。読み手の脳みその中身を外部=私の作文に投影してる格好。私は、どっちが上かとかは書いてない、つまり、人と人とを比べてない。書かれてもない上下関係に思いが及んでしまう人は、趣味が多様化した理由の5、「自己の優位性・有用性を示したい」に当てはまるタイプかも知れません。
ところで、推論で得た未知の命題が真に未知であるかや、創作した結果が真に創作的であるかは、他者との比較や、他者からの評価では判定できない。創作性に対する判定もまた推論であり、むしろ、その判定を行える人が創作できる人なのだ。この件については後で再度云々しますがともかく、人と人とを比べる人は自己判定が疎かになりがちだから、創作には向かない。
ならば、上記諸々の逆を取れば創作できるのか?つまり結論・結果だけを求めず、創作の方法を教わらず、人と人とを比べなければ創作できるようになるか?私には、たぶんそれだけではとくにどうともとしか思えない。この場合、偽の逆は真でなく、創作を教えるのがたいてい無理だというのは、こういう事からも言える。結果だけを求める人は推論に向かないし、結果だけを求めなければ推論できるんだと思う人も推論に向かない等々。
初歩的な推論はわりと誰でも行うが高度化するのは難しいかもだし、創作した結果への判定も難しいかも。しかし以上の事から、自分に推論・創作の適性があるかどうかの自己判定は、比較的容易かもとも思われてきます。そして更に次のようにも言える。自己判定した結果どうやら自分には向いてなさそうだからもうやめる、と思う人は創作には向かない。
なお既に述べたように、創作を教えられない理由を考えるのがこの作文での主な関心事なので、最後まで読んでも創作の仕方が分かったりはしません。読者をがっかりさせないよう、予め念押ししときます。そもそも、推論はたいていの人の脳に備わってる基本的な機能だというのがこの作文での大前提。
あとま、推論しなくても創作できる人にとっては当然、この作文は不要。更に、科学と芸能の両方に馴染みがあるか、少なくともそれなりの予備知識を持ってるかじゃないと読むの面倒そうで、しかしこうなると本稿はホント誰にとっても面白くなさそげだ。でも少なくとも唯一の例外がいて、それは私自身。頭の中のもやもやを整理するため作文するのは楽しいし、必要な事でもあるし、あれこれ考えた経緯の記録は推論の実例なのでもある。まああまり創作的じゃないかもだけど、推論的ではある。ただ稚拙かも。そのせいで無駄に長くなってるなら、その点に対する悪評は正当。
ただ更に、この作文は、芸能の創作を推論と絡めて説明しようとしてる。科学でだけの推論ならいろいろ考えるまでもなく、ぐぐよろでおk。しかし科学での推論と芸能の創作は、全く同じではない。同じな時もあるかもだけど、同じじゃない方が多い(はず)。どう違うかというと、推論できてるか出来てないかの判定基準が、科学では明確なのに対して芸能では曖昧。あるいはそもそも芸能での創作に判定基準などない。
だけど芸能が創作される過程が推論的な場合が多いのもたぶん事実で、だから推論と創作は似てる。似てるけど同じじゃない。その二つを別扱いしてないため、話しの進め方が回りくどく、文字数が多めになってしまう。ただこれ、きっちり別扱いにしても、どうせやっぱり長くなる。しょうがないのだ。
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推論と創作を区別してないのが良くないのは文字数が増える点だけでなく、不正確にもなる。こっちの方こそ問題で、そもそも最初に書いた推論の説明、
「既知の命題に基づいて、未知の命題を導き出す事」
これが不正確。説明順の都合上そうしてたのでもあるけど、いつまでもほっとけない。言葉の「正しさ」について考え始めようとしてる現段階は、この点を正す良い機会なので、それを示します。命題について、も一度wikiへのリンクを;
命題 -wiki
命題は真か偽の性質を持つ。だから推論とは何かをも少し丁寧に書くと、
「既知の”真”の命題に基づいて、未知の”真”の命題を導き出す事」
となる。更にも少し言葉を足すと、たいていの推論は、
「複数の、既知の”真”の命題に基づいて、一つの、未知の”真”の命題を導き出す事」
等々。だけど私は”真”を入れてなかった。これは意図的。なぜなら芸能の創作では、
1.既知の命題は偽でもかまわない。あるいは真偽を問う必要が無い。
2.というより、科学と芸能とでは”真”の意味合いが異なる。
3.芸能での推論の結果、つまり創作されたものは、未知の何かしらでなくともかまわない。つまり既知でも、つまり実は、既に存在してた何かしらでもかまわない場合が多い。
という事情があるため、科学での推論と芸能でのそれとは、扱い方が違う。科学での推論について説明するなら常に必ず”真”を入れるべきだが、芸能ではその必要はない、というよりそうしない方が良い。いやべつに入れてもいいけど、それは個々人の好みや信条等の問題で、私は入れない方を採用。上記3項を説明するため、まず最初は2について;
・科学と芸能とでは”真”の意味合いが異なる。
数学での真は、人間とは無関係に真である。つまり例えばピタゴラスの定理。直角三角形の三辺の長さの関係は、人類が誕生する前からあのように定まってたし、今後もし人類が全滅したとしても不変である。物理でなら万有引力の法則とか。でもこの考え方への反論はいろいろあって、一番よく知られてるのは人間原理;
人間原理 -wiki
ていうか、人口に膾炙してるのは人間原理の厨二解釈やもだけどともかく、永遠不変の真理など無いかも知れない。でもま、永遠は無理にしてもそうとう長期間、そしてこれらの学問の専門家のほぼ全員が真と認める真はあり、それを土台にまた新たな真を見出し積み重ねてくのが、科学での真。個人差によらない真である、とも言える。
一方、芸能での真はほぼ全て、人間にとってのみの真である。人類なくして芸能の真は無く、人類が滅べば芸能の真は消える。誰もが認める真は一つも無く、不変性も無い。真偽の証明法も定まってない。
個人差がある真である、とも言える。つまりある人にとっては真だが別の人にとっては偽。あるいは、ある集団にとっては真だが別の集団にとっては偽。いわゆる御流儀,schoolごとに真が異なり、互いに反目し合うが、真が異なる故の利益がありもする。科学の立場からするとそんなの真じゃないけど、それでも芸能にも真があるのだとすると、その在り方は以上のようになる。
上記からキーワードを抜き出し、科学と芸能での”真”の違いは個人差の有無である、と整理できたら良いのだけど、芸能でも個人差のない真を求めてる人はいるかもだし、少なくともそれがあると主張する人はいるし、そして実際、個人差のない真は既に存してるかもだし、だから話しは単純じゃない。ともかく芸能での真は曖昧。
だがそうなると、芸能での真とは何かがよく分からなくなってしまい、真偽を定める事もできない。更に、推論した結果が既知でもかまわないという現実もあり、以上の諸々をひっくるめ、
・芸能の推論での既知の命題は偽でもかまわない。あるいは真偽を問う必要が無い。
とするのは妥当。わざわざよく分からない事にまで言及すべきではなく、芸能での推論とは何かを簡略に説明するなら”真”を入れずに、
「既知の命題に基づいて、未知の命題を導き出す事」
と言うのが理に適ってると思うから、私は今まで真を入れてなかったし、この段落を過ぎたら再び、真なしで云々するつもり。
真を入れない理由の3つめは、
・芸能での推論・創作は既に存在してた何かしらでもかまわない場合が多い。
科学では未知でないと無意味だが、芸能は既知でもかまわない。その根拠は3つ;
1.かつて存在したが忘れられてしまったものがある。
2.既知の変形、あるいはバージョン違いの類でしかないものを未知と認める事が多い。
3.多くの人にとっての既知も、それを未だ知らない人にとっては未知である。
1.
この具体例は、流行循環とか。スカート丈は伸び縮みする。
科学の”真”は長期間保持されるが、芸能では、かつて多くの人の既知であった何かしらが、今は誰からも忘れられてる、という事例は多く、それが再び現れれば未知と見なされる。
完全に忘れられてたのではなく、そういえばこういうのあったっけと思い出させてくれるリバイバルの類も、芸能では十分有意義な未知。再発見も発見であり、そこには創作性が認められる。
2.
科学では、既知の変形を未知として提示するのは、たいていNGである。例えばピタゴラスの定理の証明;
この方法は数百通りあるとされてる。過去に提示され忘れ去られたものは、たぶんもっとある。だから既に知られてる証明法を少し変形して、新しい証明法を見つけたと、つまり新しい方法が創作できたと主張するのは容易だけど、それが既知の変形に過ぎない、つまりバージョン違いみたいなのに過ぎないと見破られれば、新しいとは認めてもらえない。wikiでは、16通りの証明法が紹介されてる@2018年2月現在。
ピタゴラスの定理 -wiki
代表的な十数種という事のようだけど、つまり数百あるのも大半はそれぞれの少しずつの変形で、似たのを整理すれば十数か、あるいは数十あるにしても、総数はぐっと減る、という事だと思う。ただwikiの16種にしても、この中にもバージョン違いに過ぎないのが含まれてると主張する人はいるだろうし、16では少ないと考える人もいるだろうし、そしてどっちが正しいかは明確でない。でもま、あからさまにただのバージョン違いなのはNG。
しかし数学でさえこういう事があるのだから、芸能ではなおさら。有名曲を盗作すればすぐにばれるが、数年前のたいしてヒットしなかった曲なら、盗作しても気付かれない。無自覚で盗作してる場合もある。
じゃあこういうバージョン違いみたいのは無価値なのか?ピタゴラスの定理の新しい証明法を考えるのは、有意義である。初歩段階の学習者はバージョン違いしか作れないであろう。技量が上がればバージョン違いだと見破られにくいのを作れるようになるかも知れず、やがては本当に新しいのを作れるかもしれない。でもそれを発表する前に、それが本当に新しいかどうか検証しなくてはならない。といった過程の全てが、推論のための良い訓練になる。その事情は芸能でも同じ。ただ、盗作、バージョン違いも価値ありとする許容幅が科学よりもはるかに広く、基準が曖昧。
あとカバー曲とか二次創作とか、つまり既知の変形である事を明示する創作もある。それに創作性を認めるかはまた意見が分かれるが、ともかく芸能ではこれらも無価値とされない事が多いし、実際、創作性が認められるバージョン違いの実例は無数にある。
3.
多くの人にとっての既知も、それを未だ知らない人にとっては未知である。
かつて存在したが忘れられてしまったものの件を集団的で歴史的な忘却とするなら、未だ知らない人にとっての件は、個人的で共時的な未知であると言える。この2件から時間という要素を取払えば、どちらも”無知”であるとも言える。忘れたも、未だ知らないも無知。集団的・歴史的な無知から生じる創作性に価値ありと認めるなら、個人的な無知から生じる方も同じく価値ありとすべきだろう。ただそうなると芸能の未知性は、つまり創作性の価値は、無知に支えられてるようにも思われてくる。
だが芸能に関わる人の全てが無知ではなかろうから、我は知者なりと自覚する者は無知性に依存しない芸能の創作を志し、それはまた科学と同質の”真”を芸能にも求める動機ともなるやもだけど、知者(自称)の実際は、たいてい無知である。無知だからこそ自分は賢いと自惚れる。まあ知者(自称)の全員が愚か者ではなかろうけど、それを自他ともに証明するには推論が必要で、それが出来る人は創作できる人でもある云々
いやま、未だ知らない人にとっての未知な作品に対して「そんなの知ってるアピール」をする人は多いわけですよ。だけどそれ、あまり良くない。そんなの知ってる者同士では、それを知ってる事自体が既知だから、わざわざアピールしてくれなくておk。それでも何かディスりたい事とかあるなら知ってる件は隠して、も少し中身のある事を言うべき。でもたいてい、他に言いたい事とかはとくにないのだな。知ってるという事だけしか知ってない。知ってるアピールする人は創作には向かない。
趣味でやる数学は、学問か芸能か?本稿での趣味とは主に、初めに述べた趣味が多様化した理由の6の、専門性の高さを求める方のを念頭に置いてるから、芸能っぽい、言い換えれば娯楽として数学をしてる人であっても何らかの専門性を志向してると見なし、つまり長期的な目標としては創作的な成果を得ようとしてると見なし、つまり推論しようとしてるのだと見なし、でもまやっぱ趣味なんで、最初は中学校レベルから始めるという人もいるだろう。ちなみに私はそのコース。
そういうとこから趣味の数学を始めると、本に書かれてる事の全ては既知。いやま大学数学の教科書に載ってるのだって専門家からすれば全て既知だけど、中学レベルだと既知度が高い。だいたい自分だって一応は昔やった事なので、ともかくそこから復習を始めると、やはり数学は苦手と思ってる事もあり、だんだんと面倒になり、すると段々、自分に対して知ってるアピールし始めちゃうんですね。こんなの知ってるはいはい知ってる。だけどこれは良くない傾向、というのに気付くのに私は時間がかかり、一年くらいを無駄にした。
入門者にとっての初歩的な未知は、それを記述するための文字数がたいてい少なく、だから簡単なように思えるし、暗記もしやすい。しかしそれをただ暗記するのではなく理解するには、初心者であろうと推論が必要。なぜなら既知の命題=数学の場合は定理や公式の類とは、多くの人に知られ長い年月が経ってるから既知であり、でも最初はどれも、推論によって導き出された未知だった。だから命題には、過去になされた推論が封じられてる。だから命題を理解するという事は、その封印を私自身が開くという事。つまりその命題を生み出した推論を、私自身が行うという事。
「人は未知を学ぶのではない。未知から学ぶのだ。」
↑これカントのバージョン違い。
「諸君は私から哲学を学ぶのではない。哲学することを学ぶのだ。」
一番初歩的なのが一番かんたん、ではないです。例えば1+1が2になる理由を正しく説明するのは難しい。そもそも”1”とは何かがよく分からない(みたいな事をポアンカレが言ってた)。でもそういった諸々を公理的に扱い、それらを多少高度に組み合わせた中学レベルの数学ならやっぱ簡単なので、推論の練習には良いです。
あと、答えが必ずあると分かってるのも大事。失せ物探しをする時、この部屋のどこかに必ずあると分かってる場合と、外出時に失くした可能性もある場合とでは、真剣さが違う。絶対あるはずだと確信できるなら意地になってでも探す。でま中学レベルの探し物ならわりと短時間で成功しやすいので、そういうのを数こなす。良い練習だと思います。芸能では、答えが無いかも知れない推論をせざるをえない場合も多く、そればかりやってると答えが出ない事に慣れてしまう。負け癖が付いてしまうようなものです。
多くの人にとっての既知も、それを未だ知らない人にとっては未知。これを軽んじてはいけない。本稿の始めの方で創作という語の意味を簡略に、
・それまでに無かったものを新たにつくり出すこと
として、しかし「それまでに無かったもの」とは曖昧だと書いた理由の一つはこれ。知らない人にとっての未知の件も含めて上記を書き直すと、創作とは、
・忘れられてたものを思い出すこと
でもあり、更には、
・失われかけてた価値を再生させること
・古来の知恵を新しい言葉で語りなおすこと
等々とも言い表せ、これらは個人的な出来事としても、人類全体に関わる事としても、十分有意義だと認められる。
あとまついでに書いとくけど、趣味の数学でも、いつか大発見してやるつもりでやってないと推論の練習にはならないと思う。天体観測だと趣味でやってる人が新星を発見したりするけど、というか現在、小惑星帯での発見の主力はアマチュアらしいけど、数学はどうだろうか?少なくとも私が数学で何か発見できる見通しはないが、あくまで「つもり」で、高いところを目指さないと現状を変えようという気も起きなさそげ。創作に関与する脳・感情・心の内、以上の事はどちらかというと脳よりも、感情や心の問題。
山登りでは、先ばかり考えると辛くなるから足元をしっかり見つめて歩く。それは実際面での大切な知識だけど、登ろうとしてる山が何メートルかを知らずに登り始める人ってのもいないもので、目標に合わせた装備を準備して、あの頂上に立ったらどんなだろうと思うから登ろうとする。そこら辺の小山のつもりで登り始めたのが実は3千メートル級だったりしたら事故起こします。
ただこれ、成長期と中年以降とでは条件が違う。成長期の人間は何となく登ってるうち、高度に合わせて驚異の進化をする(場合もある)。なぜか高度に適合する装備が体内から湧いてくる。魔法かよ。中年を過ぎると、そういう事はまず起こらない。だから趣味でも何でも、子供のころから始めるのが吉。
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今日はここまで。続きはまた明日以降に。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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