推論と創作、その3.2
- 2018/02/25
- 03:37
前記事、推論と創作、その3の続きです。
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上諸々書いた事は、科学と芸能での”真”の違いは個人差の有無である、とは言い切れないが概ねそのような捉え方をした上での云々でしたが、こういう切り分け方は他にも色々ある。例えば;
・科学の真は、積み上げられ高まり続ける。
・芸能の真は、シジフォスの神話のようなもの。積んでは崩れを繰り返す。
シーシュポス -wiki
シーシュポスの神話(A.カミュ) -wiki
科学は進歩する。”真”に永続性があり、過去の土台の上に新たな真を積み上げられるからですね。芸能だって進歩してなくはない。例えば日本の和歌。
万葉から新古今へ到る約350年間の変化は、進歩、あるいは進化の過程と見なせる。異論はあろうけど、進歩あるいは進化してないと言い切れないのは事実。でも新古今の後は、変化発展しなくなった。これも様々異論はあろうけど大勢について言えば、古典化し、江戸末期までは教養の対象として重視されたが、明治期に近代短歌という似て非なるものが生み出され云々
西洋のいわゆるクラシック音楽は現在、新古今以降の和歌の段階に到ってると思われます。このジャンルでの新曲はバージョン違いの類ばかりになり、あるいはクラシックとは似て非なる近代短歌みたいのばかりになり、それでもあとしばらくは古典的教養の地位を保ちながら、でもやがては現在の日本での和歌と同じような扱われ方になる可能性は高い。
いま私は和歌についてとても簡略に書いたけど、これを読者側の予備知識で補足し、具体例を思い浮かべながらすらすら理解できる人の数と、クラシック音楽が趣味だという人の数を比べれば、現在はクラシック音楽の方が多いだろうけど、やがては同等になるだろうという話し。
和歌とクラシック音楽に共通してるのは、エリート層が、このジャンルの支持層・担い手だった事。だから数百年という、芸能としてはかなりの長期間、概ね一貫性を保ちながら継続し、文字記録も多く残されてるから歴史を描ける。つまり数百年間の変化発展の様子を知る事が出来る。
芸能とは基本、儚いもので、支持基盤が失われれば芸能も失われてしまう。つまり例えば、新古今以後の和歌とは鎌倉期以降の和歌。つまり大和政権の政治力が低下して以降。大和の貴族たちの政治力、経済力、発言力が低下した故、日本文化全体の中での和歌の地位も相対的に低下した。
また、支持者たちの経済的・知的水準が低いと、歴史資料もよく残されない。それでも和歌やクラシック音楽と同じ程度に詳しく歴史を描ける芸能はまだ他にいくつもあり、だから私たちは芸能がどう生まれ変化し消えてくか、その一巡を概ね人類共通の事柄として知る事が出来る。でまつまり先に書いた通り芸能とは、生まれては消えてを繰り返す。シジフォスに与えられた罰のようなものである。
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芸能の進歩は、テクノロジーを後追いする事で生じるとも捉えられる。つまり例えば;
・映写機なくして映画はない。
・西洋音楽の発展とは、楽器の製造技術の進化の反映である。
・近代国家がなければ大衆もなく、従って大衆文化も存在しない。
等々。
映写機も楽器も近代国家(という制度)も発明品。新しい発明品が現れると、芸能はそれに最適化するよう変化する。世界が変化する事で進歩してるなら、その変化に適応しようとする芸能の変化も進歩と見なすべきかもで、とは言え芸能はあくまで、世界の変化を後追いするだけ。
近代以前に大衆は存在せず、しかし民衆はいた。呼び名は庶民とか百姓(ひゃくせい)とか普通の人とか被支配層とか様々だけど、
百姓 -wiki
ここではわざと混用されやすい大衆と民衆を対比させ、近代以前には民衆文化があった、と言ってみる。私たちは大衆ありきの世界に生まれ、たいていの人は大衆として生きてるので、近代以前の民衆文化が現在のとは違うとは知ってたとしても、その違いを実感としては捉えづらく、だからついこの二者を混同してしまうが、それは誤解の元である。日本人とアメリカ人が違うように、民衆と大衆は違う。違いを認めないと誤解が生じるうえに、誤解してると気づく事もできない。でも人はしばしば、ここで誤解する。
同様に、楽器らしい楽器などまだなかった時代の人々が音楽をどう捉えてたのかは理解しづらく、映画が無かった時代の世界の様子もよく分からず、だから結局、芸能が発明品によってどう変質してくか、実はよく分からない。だから芸能は進化するようにも思えるが、ずっと同じことが世界中で繰り返されてるという点では、永遠不変で普遍的なあり方を示してるようにも思われる。
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とは言え科学と芸能を比べてみれば、科学はきっちり進歩し続けてる一方、芸能はあやふや、くらいの事なら言える。科学の知はきっちり積み上げられ、芸能は、科学ほどきっちりしてない。その違いは推論の行われ方にもそのまま当てはまり、
・科学での推論は、きっちり理詰め。
・芸能での推論は、テキトー。
みたいな印象になるかもだけど、案外、科学の推論もきっちり理詰めなだけじゃないかも知れない。
推論の前段の既知の命題はたいてい複数あるけど、それらの中に一つかそれ以上、真偽不明の命題が混ざってたり、内容そのものが不明の命題、つまりブラックボックスみたいのが混ざってる状態で推論される事もある(のではなかろうか)。科学の推論は真の命題に基づく。それが芸能との違いと書いたけど、科学でも実は、さすがに偽の命題は用いないけど、真偽不明の命題なら用いる場合があるのではなかろうかという話し。例えばニュートンにとっての引力。
ニュートンの時代にはまだ、なぜ引力が生じるかは不明だった。しかし、何故かはわからないままともかく、そういう力が存在してると認め、それに基づき推論し、万有引力の法則を導き出した。
コンピュータ・ソフトウェアの中身の概略を示すには、フロー図を用いる。機能単位を表す小さな箱がいくつか矢印で結ばれ、それらを適切に結合する事で更に高度な機能を作り出す。フロー図は推論の過程と似てる。そのフロー図の中の箱≒機能単位≒既知の命題の中に一つ、正体不明のブラックボックスが混ざってるような状態、それが万有引力を説明するニュートンのソフトウェア。
*)ここからしばらくブラックボックスという語を多用するのだけど、字数が多く煩わしいので”■”で略記します。
今までにはない機能を持つソフトを作りたい時や、他人が作ったソフトの仕組みを知りたい時にフロー図を描くと、肝心の部分が■になってしまうというのは、よくありそうな事です。その中身さえ分かれば出来なかった事が出来るようになるのに、まあ大抵はなかなか上手くいかない。。
だけどニュートンの場合、引力が■のままでも、正しい理論を出力できた。■≒関数だとすると、その振舞い方は分かってた。落下する物体の加速度は一定で等々。でもソースコードは全く解読できないような状態。もちろん科学は、よく分からないままではいかんので後世の人がその中身をちゃんと調べようとして今日に至る。
にしても人間は「存在してないものについて」を考える事は出来ない。空想上の、という意味ではなく文字通りの意味で存在してないものについては、そもそも何が存在してないかを知ることが出来ないので、つまり人間は真の無を認識できないので、存在してないものについて考える事は出来ない。しかし、何かは分からないが存在はしてるものについては、あるいは、未だ存在してないが存在してたら良いなと思うものについては、考えられる。その場合の思考の方法は、■を混ぜるフロー図とか、■を既知の命題に含める推論などがあり、それはアブダクションと呼ばれる。
推論の形式は大まかに、
・演繹
・帰納
・アブダクション
の3つに分類される、その中の一つがアブダクション。
論理的推論 -wiki
アブダクション -wiki
↑の説明で前提条件とか仮説とか呼んでるものを、私は■と呼んでる。辞書通りの用語を用いるべきかもだけど、後で書く事柄には■が都合よいのでこれを用います。
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とま、以上は物理の一例。次は数学。数学でも■を介して推論される事は多いかも知れない。ただ数学は厳密なので、そのような経緯での推論の結果は真の命題とは認められず、定理・法則・公式ではなく「予想」と呼ばれる。つまりガウスの予想とかポアンカレ予想とか。
ガウス 予想 -google
ポアンカレ予想 -wiki
などど尤もらしく書いてるけど、私は数学の初心者なので、ガウスがどうやって予想をしたかなんて分からない。ガウスは■なんて使ってないかも知れない。なのでもっと初歩的な、例えばピタゴラスの定理、これが発見されるまでの経緯を考えてみよう。
・まず最初、3.4.5のピタゴラス数を偶然発見した。
・その後、ピタゴラス数は何通りもある事に気付いた。
・するとどれも、二乗と和の関係がある、という事にもやがて気付く。
ここまでは帰納で導き出せる。数学的帰納法ではなく、一般的な意味での帰納。
帰納 -wiki
その後は;
・これらの三角形の直角は、本当に直角である。
・自然数だけでなく実数でも、二乗と和の関係が成り立つ。
の2点を証明すれば、ピタゴラスの定理は完成する。
ところがピタゴラスより以前、有理数は知られてたけど無理数は知られてなかった。つまり、無理数を知らない人が無理数についても成り立つ法則を発見できてしまったのがピタゴラスの定理。
古代エジプト人達は、12等分する目印を付けた長い紐と、地面に突き立てるための手頃な長さの棒3本を組み合わせ、これを持ち歩いて畑の区画を定めるとかしてた。遺跡からそういう道具が発掘されてる(らしい)。
というのは紀元前2千年頃だかの話しだけど、紀元前5世紀頃のギリシャでもまだ同じ道具が使われてたと仮定し、ピタゴラス学派の人達がこれをいじくり回しながら考えてる様子を想像してみると;
3本の棒と紐で作った三角形。その頂点の一つを直角に保ったまま、棒の位置をずりずり動かせば辺長比は様々に変化するから、ピタゴラス数は何通りもあると予想される。ピタゴラス学派の人々が、ピタゴラス数を算術で求める方法を知ってたならそれは無数にある事も知ってたろうし、算術での求め方を知らなくても棒を動かす事で、無数にあると予想できる。すると次のような疑問が生じる。
・直角三角形の辺長比は自然数の組み合わせのみ、なのだろうか?
有理数、つまり分数は古代エジプトで既に用いられてた。ならば、自然数と分数の組み合わせのピタゴラス数もありうる。
なんだけど、分数を含む比は、通分すれば自然数になる。だからこの場合は自然数と分数を別扱いする意味はない。すると上記の疑問は次のように変化する。棒をずりずり動かす事で「滑らかに」変化してく直角三角形の全ては、
A.自然数の組み合わせのみで表し尽くせる。
B.自然数でも分数でもない、未知の数が存在する。
どちらだろうか?
でもこの疑問は保留されたまま、たぶん辺長比を面積の比に置き換える式の証明法で、ピタゴラスの定理は完成した。するとただちに、直角二等辺三角形の斜辺がルート2、つまり二乗すると2になる数だとわかり、間もなくそれが、B.自然数でも分数でもない未知の数、つまり無理数である事も証明された。
円周率も古代ギリシャで既に知られてたけど、これが無理数だと証明されたのは18世紀末。対してルート2の方は、何年か何十年か掛ったかは不明だけど、にしても円周率と比べれば驚くほどの短期間で無理数だと証明され、斯くしてピタゴラス学派の人々は、けしてそれを予想してたのでもなく望んでたのでもないが、無理数を発見するに至ったのである。
以上は私の想像。史実ではありません。図形操作によって無理数を見つけ出す道筋はたぶん何通りかある、その内の一つはこんなかなという。
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ところで、ピタゴラスの定理は、直角三角形の辺長の比はこうですよ、という事を示してるだけで、なぜそうなるかは説明してない。
じゃあその、「なぜそうなるか」の説明は、この定理の証明の方でなされてるのだろうと思うから、まずは最も有名で初等的な、辺長の比を面積の比に置き換える方法を調べてみると、これは、タテ×ヨコ=面積という定義が正しい限りにおいて、
・ピタゴラス数比の三角形は、間違いなく直角三角形である。
・直角三角形であるならその辺長比の二乗と和の関係は、実数についても成り立つ。
という2点が証明されてるのが分かる。だけどそれ以上の事は示されてない。つまり、直角三角形の辺長比が「なぜそうなる」かは説明されてない。
・面積の定義が正しい前提で、直角三角形の辺長比は「こうですよ」とは言えてる。あるいは、
・直角三角形の性質は、辺長を面積に置き換えても維持される。
という事が述べられてるだけのように、私には思われる。だがそうなると、この証明は相互参照か、片方を公理として扱ってるのではなかろうか?でも少なくとも、ピタゴラス数比の直角の正しさは証明できてるっぽいから、となると面積の定義はたぶん正しい。なので大まかな結論として以下のように言える;
・辺長を面積に置き換える証明法は、ピタゴラスの定理を公理として用いる事で、タテ×ヨコ=面積という定義の正しさを証明してる。
つまりこの証明法は、どちらかと言うとピタゴラスの定理ではなく面積の定義を証明してる。あるいは、直角三角形の性質と面積の定義を相互参照して、一つの定理を導き出してる。ともかくこれでは、直角三角形についての「なぜそうなるか」は分からない。
ならばその他の証明法はどうかというと、私は数学の初心者なのでよく分からないが、証明法が数百もあるという事はつまり、みんな相当モヤモヤしてたに違いないと、現在モヤモヤしてる最中の私にはそう思われてしまう。数学史の初期段階で「なぜそう」が説明できてたなら、数百もの証明法が提出されたりはしないだろう。
でも現在は既に「なぜそう」はちゃんと説明されてるかも知れない。つまり、「なぜそう」が示されてる証明法があるかも知れない。だとしても、数学の教科書でまず始めに紹介されるのが面積式な事から憶測すると、証明法は数々あれども「なぜそう」を説明してないのの方が多そうだ。でも、説明できてるのもあるかも知れない。ならばその、説明できてるか出来てないかの見分け方を考えてみよう。
証明法を考える人は、推論を行う。推論の形式は三種類。演繹、帰納、アブダクション。帰納は、ピタゴラスの定理に対してはだめだろうから除外。も一度念のために書くけど、これは数学的帰納法の事ではなく、一般的な意味での帰納。
そして、「なぜそうなるか」を説明できる証明は演繹によってしか導き出せない、と一応そう仮定する。すると、説明できないのはアブダクション。アブダクションによって導き出された証明法では、「なぜそうなるか」は説明できない。その理由は;
アブダクションは推理(すいり)の方法。推論によって導き出すべき結論の方が先に与えられ、推論の前段に既知の命題のいくつかの内に、真偽不明の命題、つまり■が含まれてる状態で推論を開始する。
これを、『原論』より後の時代の人がピタゴラスの定理の新しい証明法を作ろうとする場合に当てはめてみると;
・直角三角形の云々は実数についても成り立つという結論が予め与えられ、
・推論の前段=前提にも、真である事が確認済みの既知の命題がいくつかセットされてる。
・ところが、これらだけでは前提と結論を上手く結びつけられない。
・なので前提の中に■を混ぜる。
・そうしておいて、この推論全体が正しく成り立つよう、■の中身を後から考える。
という手順で推論を進めるのがアブダクション。この手順では、推論の後段を公理的に扱ってる。したがって公理についての「なぜそう」は問わない。したがって、アブダクションによって導き出された証明では、直角三角形についての「なぜそう」は説明されない(可能性が高い)。したがって、「なぜそう」を説明する証明法は、演繹によるのもである(可能性が高い)。
演繹による証明法のように見えるものでも、前提にピタゴラスの定理を利用した公式等を含むなら、それはアブダクション的、あるいは相互参照である。
アブダクションで導き出された証明法は、「なぜそう」を説明できない。だけどけして無価値ではない。なぜなら、■の中身はピタゴラス以降に作られた、数学のための新しい言葉である場合が多い。そして、それを用いて直角三角形の性質を正しく描けるなら、その新しい言葉は正しく、有意義なものである。この場合のピタゴラスの定理は、新しい言葉のための試金石として利用されてる。
マクローリン展開を用いるピタゴラスの定理の証明法がある。マクローリン展開は、三角関数の値が図形の性質に因らず定まる事を示してる、と思う。ならばこれを用いた証明は「なぜそう」を説明できてるかも知れない。だが、マクローリン展開で三角関数の値が求まる事と、ピタゴラスの定理が成り立つ事とは、根本的には同じ事なのかも知れない。私にはまだ分からない。
マクローリン展開は無限級数なので、これを理解するには無限を理解する必要があるかもだけど、それはとても難しい。人間は無を認識できない故に存在しないものについては考えられない。無限の難しさには、それと同じ事情があるのだろうか、それともまた別の難しさなのだろうか、というような事はさておき、数学は根本的に、常に多かれ少なかれ公理的であるかどうかについては既に約100年前、ヒルベルトとゲーデルが一生懸命考えてくれてて、不完全性定理に軍配が上がってるらしい。
ダフィット・ヒルベルト -wiki
クルト・ゲーデル -wiki
ゲーデルの不完全性定理 -wiki
これの中身も初心者には難しすぎて何を言ってるのかが分からないから、ものすごく雑に、そして俗っぽく解釈して、数学はどうしても公理的性格からは逃れられず、分からない事を突き詰めるとその証明は相互参照的になってしまう、と理解して概ね間違いないと思う。違ってたらごめん。
でま結局、ピタゴラスの定理の「なぜそう」が分からなくても、それは別にたいした問題ではない。しかしこの問題を蒸し返すと、数学の証明の中にはアブダクション的な手法で導き出されたものも実はけっこうあるのかなと思われてくる。
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以上は数学の初心者の考えなので、まるで間違ってるかも知れない。でも数学の根本は公理的で、証明も突き詰めると相互参照的というのが本当だとすると、数学の厳密さ、言い換えると「正しさ」というのも、少し心もとないように思われてくる。だからこそヒルベルトはそこを何とかしようとして、でもゲーデルにダメ出しされて今日に至る。
とは言え数学が実用のためには十分役立ってくれてるのは皆さまよくご存じの通り。そして実用とは関係なさそうな、いわゆる純粋数学の類、つまりもう十分わかりきってるはずのピタゴラスの定理の事をひつこく考え続けたり、素数の性質を調べたり、あるいは不完全性がどうのこうのとか、そういう方面の数学も「考える事について考えるための方法」を提供してくれる、という点で役に立ってくれる。
人間はいろいろな事について考えるので、考える事についても考える。しかしそれは自分で自分の事を考えるようなものだから、常に相互参照的で自己撞着に陥りやすく、だから誤りやすく難しい。
存在しないものについて考えるのは難しく、無限について考えるのも難しく、考える事について考えるのも難しい。難しさにもいろいろな種類があるもよお。
でも紀元前4世紀という大昔に、アリストテレスが論理学という形で考えるための方法をまとめてくれている。私たちは既に有用な指針を手にし、そこそこ上手く利用できてる。ただ、アリストテレス以降の論理学はほとんど進化しておらず、つまり諸科学の中で最も立ち遅れた分野かもで、しかしAIの性能が劇的に向上し始めた現在、人類は2千数百年ぶりに未だ知らぬ知性への新たな一歩を踏み出せるかもしれないという期待があって云々
それはさておき、科学が示す「考えるための方法」は、芸能にも使えるだろう。だから推論と創作は似てる、と仮定していろいろ書いてるのがこの作文。この段落では主に、推論が3種類ある内のアブダクションについてを書いてる。
芸能でのアブダクションの例として一番分かりやすいのは推理小説かと思う。推理小説の構造を簡略に示すと;
A.被害者某氏がいつどこで殺された、という結論が予め定まっていて、
B.事件発生当時に被害者と容疑者はどこにいて、利害関係はどうで等々の前提も定まっており、
C.前提と結論を合理的に結び付ける決定的な証拠を推理する。
という3項が基本的な構成要素。これを論理式で書くと、
B∧C→A
となるけど、読者に謎解きを楽しませるための娯楽である推理小説は、たいてい、
A、B、C
の順番で記述する。
アブダクションは方程式に似てるとも言える。
ax=b
既知の命題は定数a、未知数xとは推理によって導き出すべき証拠とか■。それらの演算結果が右辺に予め示されており、この等式を成り立たせるxを見つけられれば問題解決。
なお、推理小説ではアブダクションの過程で用いる■の中身が分からなくとも、それを利用して真犯人を自白に追い込めればおkな場合も多く、例えば刑事コロンボ・シリーズにはけっこうそのパターンが多い(かも)。推理ものとしての作りは雑だけど、心理劇としてはこっちの方が面白かったりする。
でも科学はそれではいかんので、分からない事は分かるまで考え続け、うまいこと■の中身が分かれば、それは最早■ではない。真の命題だ。更にそれを論文や教科書に載せられるよう清書すると、まるで最初から演繹で推論されてたかのような体裁になってしまう。すると、その推論が最初に行われた時の思考の流れを後追いするのが難しくなってしまう。
上記のような事情は、例えば趣味の数学でなら次のような現れ方をするのではなかろうか;
数学の勉強では、分からなくなったら前に戻り正しく理解できてない箇所がないかチェックする、という仕方でじわじわ前進してくけど、チェック漏れは無いはずなのにどうしても理解できない定理の類が、数学の教科書には時々出現する。
そういう場合は仕方ないので、分からないまま先に進む。すると次にもまた分からない事が出てくるけど、一番目の分からないと二番目の分からないを並べてみると、なぜか両方とも分かっちゃう、みたいな事もあったりする。こういう場合の定理の類は、元々がアブダクションの産物かも知れない。だとすると、元々は■だった何かしらが何処かに潜んでる。ならばそれを見つけ、■が真の命題に作り替えられる過程を跡付けられたら、難しいとこも分かるようになるのかも。というより、二番目の「分からない」が、一番目に含まれてた■なのかも。
数学で用いられる証明法は、
・演繹
・数学的帰納法
・背理法
の3つが代表的だけど、一番多用されるのは演繹だという。数学的帰納法や背理法を用いる重要な証明もそこそこ多いから目立ってるけど、使用頻度は演繹がだんとつ(らしい)。だけどここまで述べた事からすると、演繹を用いてるように見える証明等の中には、清書された演繹、つまり元々はアブダクションだったものが、実はずいぶん多く混ざってるのかもとも思われてきます。完成形は演繹だけど、考えてる途中はアブダクションが多用されてるかも、という事。
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今日はここまで。続きはまた明日以降。
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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以上諸々書いた事は、科学と芸能での”真”の違いは個人差の有無である、とは言い切れないが概ねそのような捉え方をした上での云々でしたが、こういう切り分け方は他にも色々ある。例えば;
・科学の真は、積み上げられ高まり続ける。
・芸能の真は、シジフォスの神話のようなもの。積んでは崩れを繰り返す。
シーシュポス -wiki
シーシュポスの神話(A.カミュ) -wiki
科学は進歩する。”真”に永続性があり、過去の土台の上に新たな真を積み上げられるからですね。芸能だって進歩してなくはない。例えば日本の和歌。
万葉から新古今へ到る約350年間の変化は、進歩、あるいは進化の過程と見なせる。異論はあろうけど、進歩あるいは進化してないと言い切れないのは事実。でも新古今の後は、変化発展しなくなった。これも様々異論はあろうけど大勢について言えば、古典化し、江戸末期までは教養の対象として重視されたが、明治期に近代短歌という似て非なるものが生み出され云々
西洋のいわゆるクラシック音楽は現在、新古今以降の和歌の段階に到ってると思われます。このジャンルでの新曲はバージョン違いの類ばかりになり、あるいはクラシックとは似て非なる近代短歌みたいのばかりになり、それでもあとしばらくは古典的教養の地位を保ちながら、でもやがては現在の日本での和歌と同じような扱われ方になる可能性は高い。
いま私は和歌についてとても簡略に書いたけど、これを読者側の予備知識で補足し、具体例を思い浮かべながらすらすら理解できる人の数と、クラシック音楽が趣味だという人の数を比べれば、現在はクラシック音楽の方が多いだろうけど、やがては同等になるだろうという話し。
和歌とクラシック音楽に共通してるのは、エリート層が、このジャンルの支持層・担い手だった事。だから数百年という、芸能としてはかなりの長期間、概ね一貫性を保ちながら継続し、文字記録も多く残されてるから歴史を描ける。つまり数百年間の変化発展の様子を知る事が出来る。
芸能とは基本、儚いもので、支持基盤が失われれば芸能も失われてしまう。つまり例えば、新古今以後の和歌とは鎌倉期以降の和歌。つまり大和政権の政治力が低下して以降。大和の貴族たちの政治力、経済力、発言力が低下した故、日本文化全体の中での和歌の地位も相対的に低下した。
また、支持者たちの経済的・知的水準が低いと、歴史資料もよく残されない。それでも和歌やクラシック音楽と同じ程度に詳しく歴史を描ける芸能はまだ他にいくつもあり、だから私たちは芸能がどう生まれ変化し消えてくか、その一巡を概ね人類共通の事柄として知る事が出来る。でまつまり先に書いた通り芸能とは、生まれては消えてを繰り返す。シジフォスに与えられた罰のようなものである。
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芸能の進歩は、テクノロジーを後追いする事で生じるとも捉えられる。つまり例えば;
・映写機なくして映画はない。
・西洋音楽の発展とは、楽器の製造技術の進化の反映である。
・近代国家がなければ大衆もなく、従って大衆文化も存在しない。
等々。
映写機も楽器も近代国家(という制度)も発明品。新しい発明品が現れると、芸能はそれに最適化するよう変化する。世界が変化する事で進歩してるなら、その変化に適応しようとする芸能の変化も進歩と見なすべきかもで、とは言え芸能はあくまで、世界の変化を後追いするだけ。
近代以前に大衆は存在せず、しかし民衆はいた。呼び名は庶民とか百姓(ひゃくせい)とか普通の人とか被支配層とか様々だけど、
百姓 -wiki
ここではわざと混用されやすい大衆と民衆を対比させ、近代以前には民衆文化があった、と言ってみる。私たちは大衆ありきの世界に生まれ、たいていの人は大衆として生きてるので、近代以前の民衆文化が現在のとは違うとは知ってたとしても、その違いを実感としては捉えづらく、だからついこの二者を混同してしまうが、それは誤解の元である。日本人とアメリカ人が違うように、民衆と大衆は違う。違いを認めないと誤解が生じるうえに、誤解してると気づく事もできない。でも人はしばしば、ここで誤解する。
同様に、楽器らしい楽器などまだなかった時代の人々が音楽をどう捉えてたのかは理解しづらく、映画が無かった時代の世界の様子もよく分からず、だから結局、芸能が発明品によってどう変質してくか、実はよく分からない。だから芸能は進化するようにも思えるが、ずっと同じことが世界中で繰り返されてるという点では、永遠不変で普遍的なあり方を示してるようにも思われる。
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とは言え科学と芸能を比べてみれば、科学はきっちり進歩し続けてる一方、芸能はあやふや、くらいの事なら言える。科学の知はきっちり積み上げられ、芸能は、科学ほどきっちりしてない。その違いは推論の行われ方にもそのまま当てはまり、
・科学での推論は、きっちり理詰め。
・芸能での推論は、テキトー。
みたいな印象になるかもだけど、案外、科学の推論もきっちり理詰めなだけじゃないかも知れない。
推論の前段の既知の命題はたいてい複数あるけど、それらの中に一つかそれ以上、真偽不明の命題が混ざってたり、内容そのものが不明の命題、つまりブラックボックスみたいのが混ざってる状態で推論される事もある(のではなかろうか)。科学の推論は真の命題に基づく。それが芸能との違いと書いたけど、科学でも実は、さすがに偽の命題は用いないけど、真偽不明の命題なら用いる場合があるのではなかろうかという話し。例えばニュートンにとっての引力。
ニュートンの時代にはまだ、なぜ引力が生じるかは不明だった。しかし、何故かはわからないままともかく、そういう力が存在してると認め、それに基づき推論し、万有引力の法則を導き出した。
コンピュータ・ソフトウェアの中身の概略を示すには、フロー図を用いる。機能単位を表す小さな箱がいくつか矢印で結ばれ、それらを適切に結合する事で更に高度な機能を作り出す。フロー図は推論の過程と似てる。そのフロー図の中の箱≒機能単位≒既知の命題の中に一つ、正体不明のブラックボックスが混ざってるような状態、それが万有引力を説明するニュートンのソフトウェア。
*)ここからしばらくブラックボックスという語を多用するのだけど、字数が多く煩わしいので”■”で略記します。
今までにはない機能を持つソフトを作りたい時や、他人が作ったソフトの仕組みを知りたい時にフロー図を描くと、肝心の部分が■になってしまうというのは、よくありそうな事です。その中身さえ分かれば出来なかった事が出来るようになるのに、まあ大抵はなかなか上手くいかない。。
だけどニュートンの場合、引力が■のままでも、正しい理論を出力できた。■≒関数だとすると、その振舞い方は分かってた。落下する物体の加速度は一定で等々。でもソースコードは全く解読できないような状態。もちろん科学は、よく分からないままではいかんので後世の人がその中身をちゃんと調べようとして今日に至る。
にしても人間は「存在してないものについて」を考える事は出来ない。空想上の、という意味ではなく文字通りの意味で存在してないものについては、そもそも何が存在してないかを知ることが出来ないので、つまり人間は真の無を認識できないので、存在してないものについて考える事は出来ない。しかし、何かは分からないが存在はしてるものについては、あるいは、未だ存在してないが存在してたら良いなと思うものについては、考えられる。その場合の思考の方法は、■を混ぜるフロー図とか、■を既知の命題に含める推論などがあり、それはアブダクションと呼ばれる。
推論の形式は大まかに、
・演繹
・帰納
・アブダクション
の3つに分類される、その中の一つがアブダクション。
論理的推論 -wiki
アブダクション -wiki
↑の説明で前提条件とか仮説とか呼んでるものを、私は■と呼んでる。辞書通りの用語を用いるべきかもだけど、後で書く事柄には■が都合よいのでこれを用います。
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とま、以上は物理の一例。次は数学。数学でも■を介して推論される事は多いかも知れない。ただ数学は厳密なので、そのような経緯での推論の結果は真の命題とは認められず、定理・法則・公式ではなく「予想」と呼ばれる。つまりガウスの予想とかポアンカレ予想とか。
ガウス 予想 -google
ポアンカレ予想 -wiki
などど尤もらしく書いてるけど、私は数学の初心者なので、ガウスがどうやって予想をしたかなんて分からない。ガウスは■なんて使ってないかも知れない。なのでもっと初歩的な、例えばピタゴラスの定理、これが発見されるまでの経緯を考えてみよう。
・まず最初、3.4.5のピタゴラス数を偶然発見した。
・その後、ピタゴラス数は何通りもある事に気付いた。
・するとどれも、二乗と和の関係がある、という事にもやがて気付く。
ここまでは帰納で導き出せる。数学的帰納法ではなく、一般的な意味での帰納。
帰納 -wiki
その後は;
・これらの三角形の直角は、本当に直角である。
・自然数だけでなく実数でも、二乗と和の関係が成り立つ。
の2点を証明すれば、ピタゴラスの定理は完成する。
ところがピタゴラスより以前、有理数は知られてたけど無理数は知られてなかった。つまり、無理数を知らない人が無理数についても成り立つ法則を発見できてしまったのがピタゴラスの定理。
古代エジプト人達は、12等分する目印を付けた長い紐と、地面に突き立てるための手頃な長さの棒3本を組み合わせ、これを持ち歩いて畑の区画を定めるとかしてた。遺跡からそういう道具が発掘されてる(らしい)。
というのは紀元前2千年頃だかの話しだけど、紀元前5世紀頃のギリシャでもまだ同じ道具が使われてたと仮定し、ピタゴラス学派の人達がこれをいじくり回しながら考えてる様子を想像してみると;
3本の棒と紐で作った三角形。その頂点の一つを直角に保ったまま、棒の位置をずりずり動かせば辺長比は様々に変化するから、ピタゴラス数は何通りもあると予想される。ピタゴラス学派の人々が、ピタゴラス数を算術で求める方法を知ってたならそれは無数にある事も知ってたろうし、算術での求め方を知らなくても棒を動かす事で、無数にあると予想できる。すると次のような疑問が生じる。
・直角三角形の辺長比は自然数の組み合わせのみ、なのだろうか?
有理数、つまり分数は古代エジプトで既に用いられてた。ならば、自然数と分数の組み合わせのピタゴラス数もありうる。
なんだけど、分数を含む比は、通分すれば自然数になる。だからこの場合は自然数と分数を別扱いする意味はない。すると上記の疑問は次のように変化する。棒をずりずり動かす事で「滑らかに」変化してく直角三角形の全ては、
A.自然数の組み合わせのみで表し尽くせる。
B.自然数でも分数でもない、未知の数が存在する。
どちらだろうか?
でもこの疑問は保留されたまま、たぶん辺長比を面積の比に置き換える式の証明法で、ピタゴラスの定理は完成した。するとただちに、直角二等辺三角形の斜辺がルート2、つまり二乗すると2になる数だとわかり、間もなくそれが、B.自然数でも分数でもない未知の数、つまり無理数である事も証明された。
円周率も古代ギリシャで既に知られてたけど、これが無理数だと証明されたのは18世紀末。対してルート2の方は、何年か何十年か掛ったかは不明だけど、にしても円周率と比べれば驚くほどの短期間で無理数だと証明され、斯くしてピタゴラス学派の人々は、けしてそれを予想してたのでもなく望んでたのでもないが、無理数を発見するに至ったのである。
以上は私の想像。史実ではありません。図形操作によって無理数を見つけ出す道筋はたぶん何通りかある、その内の一つはこんなかなという。
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ところで、ピタゴラスの定理は、直角三角形の辺長の比はこうですよ、という事を示してるだけで、なぜそうなるかは説明してない。
じゃあその、「なぜそうなるか」の説明は、この定理の証明の方でなされてるのだろうと思うから、まずは最も有名で初等的な、辺長の比を面積の比に置き換える方法を調べてみると、これは、タテ×ヨコ=面積という定義が正しい限りにおいて、
・ピタゴラス数比の三角形は、間違いなく直角三角形である。
・直角三角形であるならその辺長比の二乗と和の関係は、実数についても成り立つ。
という2点が証明されてるのが分かる。だけどそれ以上の事は示されてない。つまり、直角三角形の辺長比が「なぜそうなる」かは説明されてない。
・面積の定義が正しい前提で、直角三角形の辺長比は「こうですよ」とは言えてる。あるいは、
・直角三角形の性質は、辺長を面積に置き換えても維持される。
という事が述べられてるだけのように、私には思われる。だがそうなると、この証明は相互参照か、片方を公理として扱ってるのではなかろうか?でも少なくとも、ピタゴラス数比の直角の正しさは証明できてるっぽいから、となると面積の定義はたぶん正しい。なので大まかな結論として以下のように言える;
・辺長を面積に置き換える証明法は、ピタゴラスの定理を公理として用いる事で、タテ×ヨコ=面積という定義の正しさを証明してる。
つまりこの証明法は、どちらかと言うとピタゴラスの定理ではなく面積の定義を証明してる。あるいは、直角三角形の性質と面積の定義を相互参照して、一つの定理を導き出してる。ともかくこれでは、直角三角形についての「なぜそうなるか」は分からない。
ならばその他の証明法はどうかというと、私は数学の初心者なのでよく分からないが、証明法が数百もあるという事はつまり、みんな相当モヤモヤしてたに違いないと、現在モヤモヤしてる最中の私にはそう思われてしまう。数学史の初期段階で「なぜそう」が説明できてたなら、数百もの証明法が提出されたりはしないだろう。
でも現在は既に「なぜそう」はちゃんと説明されてるかも知れない。つまり、「なぜそう」が示されてる証明法があるかも知れない。だとしても、数学の教科書でまず始めに紹介されるのが面積式な事から憶測すると、証明法は数々あれども「なぜそう」を説明してないのの方が多そうだ。でも、説明できてるのもあるかも知れない。ならばその、説明できてるか出来てないかの見分け方を考えてみよう。
証明法を考える人は、推論を行う。推論の形式は三種類。演繹、帰納、アブダクション。帰納は、ピタゴラスの定理に対してはだめだろうから除外。も一度念のために書くけど、これは数学的帰納法の事ではなく、一般的な意味での帰納。
そして、「なぜそうなるか」を説明できる証明は演繹によってしか導き出せない、と一応そう仮定する。すると、説明できないのはアブダクション。アブダクションによって導き出された証明法では、「なぜそうなるか」は説明できない。その理由は;
アブダクションは推理(すいり)の方法。推論によって導き出すべき結論の方が先に与えられ、推論の前段に既知の命題のいくつかの内に、真偽不明の命題、つまり■が含まれてる状態で推論を開始する。
これを、『原論』より後の時代の人がピタゴラスの定理の新しい証明法を作ろうとする場合に当てはめてみると;
・直角三角形の云々は実数についても成り立つという結論が予め与えられ、
・推論の前段=前提にも、真である事が確認済みの既知の命題がいくつかセットされてる。
・ところが、これらだけでは前提と結論を上手く結びつけられない。
・なので前提の中に■を混ぜる。
・そうしておいて、この推論全体が正しく成り立つよう、■の中身を後から考える。
という手順で推論を進めるのがアブダクション。この手順では、推論の後段を公理的に扱ってる。したがって公理についての「なぜそう」は問わない。したがって、アブダクションによって導き出された証明では、直角三角形についての「なぜそう」は説明されない(可能性が高い)。したがって、「なぜそう」を説明する証明法は、演繹によるのもである(可能性が高い)。
演繹による証明法のように見えるものでも、前提にピタゴラスの定理を利用した公式等を含むなら、それはアブダクション的、あるいは相互参照である。
アブダクションで導き出された証明法は、「なぜそう」を説明できない。だけどけして無価値ではない。なぜなら、■の中身はピタゴラス以降に作られた、数学のための新しい言葉である場合が多い。そして、それを用いて直角三角形の性質を正しく描けるなら、その新しい言葉は正しく、有意義なものである。この場合のピタゴラスの定理は、新しい言葉のための試金石として利用されてる。
マクローリン展開を用いるピタゴラスの定理の証明法がある。マクローリン展開は、三角関数の値が図形の性質に因らず定まる事を示してる、と思う。ならばこれを用いた証明は「なぜそう」を説明できてるかも知れない。だが、マクローリン展開で三角関数の値が求まる事と、ピタゴラスの定理が成り立つ事とは、根本的には同じ事なのかも知れない。私にはまだ分からない。
マクローリン展開は無限級数なので、これを理解するには無限を理解する必要があるかもだけど、それはとても難しい。人間は無を認識できない故に存在しないものについては考えられない。無限の難しさには、それと同じ事情があるのだろうか、それともまた別の難しさなのだろうか、というような事はさておき、数学は根本的に、常に多かれ少なかれ公理的であるかどうかについては既に約100年前、ヒルベルトとゲーデルが一生懸命考えてくれてて、不完全性定理に軍配が上がってるらしい。
ダフィット・ヒルベルト -wiki
クルト・ゲーデル -wiki
ゲーデルの不完全性定理 -wiki
これの中身も初心者には難しすぎて何を言ってるのかが分からないから、ものすごく雑に、そして俗っぽく解釈して、数学はどうしても公理的性格からは逃れられず、分からない事を突き詰めるとその証明は相互参照的になってしまう、と理解して概ね間違いないと思う。違ってたらごめん。
でま結局、ピタゴラスの定理の「なぜそう」が分からなくても、それは別にたいした問題ではない。しかしこの問題を蒸し返すと、数学の証明の中にはアブダクション的な手法で導き出されたものも実はけっこうあるのかなと思われてくる。
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以上は数学の初心者の考えなので、まるで間違ってるかも知れない。でも数学の根本は公理的で、証明も突き詰めると相互参照的というのが本当だとすると、数学の厳密さ、言い換えると「正しさ」というのも、少し心もとないように思われてくる。だからこそヒルベルトはそこを何とかしようとして、でもゲーデルにダメ出しされて今日に至る。
とは言え数学が実用のためには十分役立ってくれてるのは皆さまよくご存じの通り。そして実用とは関係なさそうな、いわゆる純粋数学の類、つまりもう十分わかりきってるはずのピタゴラスの定理の事をひつこく考え続けたり、素数の性質を調べたり、あるいは不完全性がどうのこうのとか、そういう方面の数学も「考える事について考えるための方法」を提供してくれる、という点で役に立ってくれる。
人間はいろいろな事について考えるので、考える事についても考える。しかしそれは自分で自分の事を考えるようなものだから、常に相互参照的で自己撞着に陥りやすく、だから誤りやすく難しい。
存在しないものについて考えるのは難しく、無限について考えるのも難しく、考える事について考えるのも難しい。難しさにもいろいろな種類があるもよお。
でも紀元前4世紀という大昔に、アリストテレスが論理学という形で考えるための方法をまとめてくれている。私たちは既に有用な指針を手にし、そこそこ上手く利用できてる。ただ、アリストテレス以降の論理学はほとんど進化しておらず、つまり諸科学の中で最も立ち遅れた分野かもで、しかしAIの性能が劇的に向上し始めた現在、人類は2千数百年ぶりに未だ知らぬ知性への新たな一歩を踏み出せるかもしれないという期待があって云々
それはさておき、科学が示す「考えるための方法」は、芸能にも使えるだろう。だから推論と創作は似てる、と仮定していろいろ書いてるのがこの作文。この段落では主に、推論が3種類ある内のアブダクションについてを書いてる。
芸能でのアブダクションの例として一番分かりやすいのは推理小説かと思う。推理小説の構造を簡略に示すと;
A.被害者某氏がいつどこで殺された、という結論が予め定まっていて、
B.事件発生当時に被害者と容疑者はどこにいて、利害関係はどうで等々の前提も定まっており、
C.前提と結論を合理的に結び付ける決定的な証拠を推理する。
という3項が基本的な構成要素。これを論理式で書くと、
B∧C→A
となるけど、読者に謎解きを楽しませるための娯楽である推理小説は、たいてい、
A、B、C
の順番で記述する。
アブダクションは方程式に似てるとも言える。
ax=b
既知の命題は定数a、未知数xとは推理によって導き出すべき証拠とか■。それらの演算結果が右辺に予め示されており、この等式を成り立たせるxを見つけられれば問題解決。
なお、推理小説ではアブダクションの過程で用いる■の中身が分からなくとも、それを利用して真犯人を自白に追い込めればおkな場合も多く、例えば刑事コロンボ・シリーズにはけっこうそのパターンが多い(かも)。推理ものとしての作りは雑だけど、心理劇としてはこっちの方が面白かったりする。
でも科学はそれではいかんので、分からない事は分かるまで考え続け、うまいこと■の中身が分かれば、それは最早■ではない。真の命題だ。更にそれを論文や教科書に載せられるよう清書すると、まるで最初から演繹で推論されてたかのような体裁になってしまう。すると、その推論が最初に行われた時の思考の流れを後追いするのが難しくなってしまう。
上記のような事情は、例えば趣味の数学でなら次のような現れ方をするのではなかろうか;
数学の勉強では、分からなくなったら前に戻り正しく理解できてない箇所がないかチェックする、という仕方でじわじわ前進してくけど、チェック漏れは無いはずなのにどうしても理解できない定理の類が、数学の教科書には時々出現する。
そういう場合は仕方ないので、分からないまま先に進む。すると次にもまた分からない事が出てくるけど、一番目の分からないと二番目の分からないを並べてみると、なぜか両方とも分かっちゃう、みたいな事もあったりする。こういう場合の定理の類は、元々がアブダクションの産物かも知れない。だとすると、元々は■だった何かしらが何処かに潜んでる。ならばそれを見つけ、■が真の命題に作り替えられる過程を跡付けられたら、難しいとこも分かるようになるのかも。というより、二番目の「分からない」が、一番目に含まれてた■なのかも。
数学で用いられる証明法は、
・演繹
・数学的帰納法
・背理法
の3つが代表的だけど、一番多用されるのは演繹だという。数学的帰納法や背理法を用いる重要な証明もそこそこ多いから目立ってるけど、使用頻度は演繹がだんとつ(らしい)。だけどここまで述べた事からすると、演繹を用いてるように見える証明等の中には、清書された演繹、つまり元々はアブダクションだったものが、実はずいぶん多く混ざってるのかもとも思われてきます。完成形は演繹だけど、考えてる途中はアブダクションが多用されてるかも、という事。
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今日はここまで。続きはまた明日以降。
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