推論と創作、その3.3
- 2018/03/05
- 02:42
前記事、推論と創作、その3.2の続きです。
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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でま、ガウス以降の「予想」でもアブダクションが多用されてるのかもと思うわけです。でもガウス以降、という事は概ね1800年以降の数学に関して、私は何も分からないに等しく、これ以上アヤフヤな知識で作文するのもあれですが、ともかく有名な予想2つを紹介。
素数定理 -wiki
カール・フリードリヒ・ガウス -wiki
アドリアン=マリ・ルジャンドル -wiki
複素解析 -wiki
リーマンゼータ関数 -wiki
ポアンカレ予想 -wiki
アンリ・ポアンカレ -wiki
リッチフロー -wiki
素数定理の予想は1790年代に発表され、約100年後に複素解析とゼータ関数を用いて証明された。ポアンカレ予想は1904年に発表され、やはり約100年後に、拡張されたリッチフローを用いて証明された。この2件が推論された過程を簡略に示すと、
□=既知の命題
■=100年後に用いられた命題
〇=予想
のように記号を割り振り、
□∧■→〇
と書ける。推論の前段、式の左辺に■、つまり真偽不明の命題があるので、そもそもこれは推論として成立してないけど、それでも推論の後段、つまり推論によって導き出された(かのような)未知の命題が公表されたので、これらは予想と呼ばれる。
■の中身を探すのは、もちろん予想した当人たちも探したけど果たせず、100年も経って、予想者が生きた時代にはまだ無かった、あるいは誕生したばかりでまだ上手く使えなかった数学の「新しい言葉」を用いて、■の中身は埋められた。
この2つの予想は、何人のも人が長期間考え続け完成させたアブダクション型の推論と見なせる。こういう例は他にもたくさんある。
ガウスは1800年代前半の人。微積分の発見が1680年代で、1700年代はオイラーの時代。この頃からヨーロッパの数学は急速に進歩し始め、しかも産業革命も興る。工業化のトップランナーは1800年代の前半まではイギリスで、その後徐々にドイツが主導権を握る、そんな時期に物理学者としても重要な仕事をたくさん行ったガウスは、数学が現在のように厳密化する前の、最後の世代の数学者だったかも。それが、1900年代の初期になる頃には、先に述べたヒルベルトの云々のような形式主義が現れ、この時代の人だったポアンカレはヒルベルトに対し、直観主義の立場を示した。
数学的直観主義 -wiki
直観て名前だからってべつに、散歩でもしながらインスピレーションが降りてくるのを待って、予想はするけど証明はしないYO!、とかじゃなく、これはその後、直観論理という形に整えられた。
直観論理 -wiki
古典論理学との大きな違いは、排中律が除かれてる点。そして数学的構成主義の思想的基盤であるとかないとか。とは言え直観と名付けられてるなら一般的な意味での直観と関係ないわけもないと思う。
直観 -wiki
「パースの言うアブダクションという仮説形成の操作にも直観作業が用いられている、と考えられている」云々だから、大まかに解釈すると、私が■と呼んでる何かしらは、その現れ方や用いられ方により、あるいはそれを推論する者がどう捉えてるかにより、というよりむしろ捉えられない時に、直観と呼ばれる事もある、という事かなと思われます。
なお、直観と直感は別物です。観と感の違い。といっても英語では一応どっちもintuitionだけど、
・考えなしの当てずっぽうという意味の、hunch
・本能みたいな意味合いの、instinct
・超能力っぽい、sixth sense
・心のままに行動するという意味の、follow one's heart
等々もひっくるめ日本語では、直感とか勘とか言う。そしてintuitionは上のどれとも違うので、区別するため直観という漢字を用いるようだけど、これは紛らわしい。変換ミスしそうだし、本稿の主題である芸能では、このワードは曖昧で俗っぽく用いられがちで、そもそも観と感の違いを気にする人なんていなさそげ。私だってめんどくさい。だから、あまり使いたくない。
ならば今まで通り■を使えばいいかなと思うけど、せっかく直観という語があるのを知ったのだから今後は、■は直観である場合もあるのだとご理解ください。
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科学は進歩する。きっちり推論するからだ。芸能はそうでもない。でも、科学の推論も案外きっちりなだけじゃないかも知れない。アブダクションを用いるし直観もする。と、ここで、数学史の大まかな枠内に演繹→アブダクション→直観の流れをはめ込んでみるテスト。
きっちり理詰めな推論とは、たいていは演繹の事。古代ギリシャの『原論』が主に扱うのは幾何と数論で、この書物での推論のほとんどは演繹的。
演繹ではない推論はアブダクション。アブダクションは方程式の方法でもある。答えが先に定まっていて、分からない部分を後から考える。古代ギリシャ人はこの手順を良くない、ズルいと見なしてたという説もあり、古典期までのギリシャは方程式をほとんど発達させなかった。
ヘレニズム期にアルキメデス、紀元後にはディオファントスが登場し、方程式の研究が徐々に盛んになる。
ディオファントス -wiki
ギリシャが衰退し、ローマも滅び、イスラム世界が文化の担い手となった時期に、方程式が発達した。
方程式 -wiki
フワーリズミー -wiki
幾何の推論は演繹、方程式の推論はアブダクション、と見なせば、数学のメインステージがヨーロッパに移る15世紀頃までに、数学の方法にはこの二本柱が揃ってた事になる。ただ方程式は、未知数x、つまり推論の前段の■を即座に求めるための実用技術だから、アブダクション的な性格が意識されることはなかった(かも知れない)。
17世紀になって幾何が解析的になり、やがて方程式が数学の全分野で用いられるようになると、計算の技術という意味合いしかなかったalgebraの意味合いは拡張され、日本語では代数学と呼ばれる一分野となる。alから始まる英単語はアラビア由来が多い。algebraもそうなわけですね。
代数学 -wiki
そしてやがて、■の解明に100年を要する予想、アブダクションも行われるようになり、なぜそのような事が可能なのかもよく分からないのでしかたなく直観と呼んだ(のかも)。
ポアンカレの100年前なら、つまりガウスの時代なら直観ではなく神様が教えてくれたと言ったってべつにかまわなかったのですよ。なにしろガウスの語録に次のようなものがあるらしい。
誰かがガウスに訊ねた。あなたは何故あのような発見が出来たのですか?ガウスは答えて曰く、
「それはわたしの苦心のたまものではなく、神のおぼしめしによるものだ。不意の閃光のように謎はとけてしまった。わたしが以前に知っていたことと、わたしの成功を可能にしたものを結びつけた糸がなんであったか、わたし自身わからない」
でも20世紀にもなって、しかもヨーロッパの中でも最も脱宗教的なフランスの数学者であるポアンカレが、神様が教えてくれたとか言えるがわけない。なお2018年現在、ドイツ連邦議会の第一党はキリスト教民主主義同盟。ドイツにはいまだにそういうとこある。
ドイツ連邦議会 -wiki
ドイツキリスト教民主同盟 -wiki
でま、ポアンカレとしたら神様のせいには出来ないし、「わたし自身わからない」と言うのも進歩がないというか。それで苦し紛れに直観と言っただけなのか?そうではない、と考えたブラウワーやハイティングは直観理論を立て、でもこれはあまり発展せず廃れてしまったかも。ただ、古典論理の二値原理を拡張する試みは他にもあり、
多値論理 -wiki
ファジィ論理 -wiki
こっちはじわじわ実用化進行中かも。
なお、芸能の推論は真偽が曖昧で多様だからファジイかなと考えたくなるけど、それは違う。真偽が曖昧というより、それを問わないのが芸能の推論なので、多値化はあまり関係ない。それよかは排中律を認めない直観論理の方が、まだ多少は芸能向きかも知れない。
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ピタゴラスの定理の証明は「なぜそうなるか」が説明されてない、という件についていろいろ書きました。タテ×ヨコ=面積、という定義を疑うと、三角形の辺長比を面積に置き換える証明法は、直角三角形の性質を公理として用いる事で、面積の定義の正しさを証明してるのではないかという、あべこべの感想が生じてしまう。これはそもそも、面積の定義を疑うのが間違いだと思われるかもだけど、私の場合、大人になってから数学を勉強し直し始めた。するといろいろ分からない事だらけで、残念なお子様のようになってしまう。
初等教育期間中に、数学に「つまづく」子供は多く、つまづきやすいポイントもだいたい決まってる。ゼロが分からない。マイナスが分からない。面積が、角度が、円周率が、方程式が、三角法が等々。でも大人になってから改めてよく考えてみると、たしかに自分もそれらのどれも、よく分からない。まあ、そういう所から考え直せるのは楽しいのだけど、高卒レベルまでのお浚いを一応終えた時点での感想が、
・自然数ほど不自然な数はない
だったのはいかがなものか。でも、そういう心持ちで調べものをしてるとポアンカレが「0、1などを厳密に定義するのは難しい」と言ってたという記事を見つけられたりもする。ほらやっぱり!てなもんです。とは言えポアンカレの真意は分からないから、じゃあそれが分かるとこまで頑張ってみましょうかという事で、以前よりも数学に対して熱心になり、しかしその数か月後に今度は、
・長さの積が面積になる、という事の意味が分からない
となっちゃった。でもこれはその後、線形代数の初歩までをやったら一応は納得できた。でも更にその後、
・そもそも"1"とは何かが分からない
という沼に墜ち、なんか勉強すればするほどアタマわるい人になってるような気がする。でもガロア以降の代数学とブルバキの業績のあらましを知るに及んで、分からない事は分からないままだけど、分からながってる人は他にも沢山いる事は知れて、ちょっと安心。
エヴァリスト・ガロア -wiki
ニコラ・ブルバキ -wiki
でま、ここまで知った結論として、タテ×ヨコ=面積という定義は、やはり正しい。古代エジプト人は正しかった。ではなぜ彼らは、それほどひちめんどうな事を考えもせずに正しい定義を得られたのか?それはたぶん、面積や直角三角形は目に見えるし、測量等の実用にも問題なく利用できてたからだろう。
でもやがて数学は、目に見えない立体の体積とか、誰も行った事のない空間での長さとかを測ろうとし始める。つまり4次元以上の量とか距離とか。
一応念のため書くけど、ここで言う4次元とは物理学での、空間3次元に時間を加えた4次元ではなく、xyzの3軸を更に増やす、線形代数等で扱われる類のn次元の事です。軸が5本なら5次元の立体みたいのがあって、それの体積とかを計算する。次元はいくらでも増やせる。なんでそんな無意味なものをと思う人もいるかもだけど、こういうのをすんなり受け入れられる人もいるし、数学なんて知らなくても利用できてる人もいる(かも知れない)。例えば;
データを整理し分類する時にマトリックスを使うのは便利。まあ普通は碁盤目みたいの、つまり2次元マトリックスを用いるけど、分類するためのカテゴリが3つ以上になる事も多く、その場合はn次元分類空間とでも呼べるような何かしらが生じる。ただやはり、4次元以上のマトリックスは扱いにくい。図示できなくもないけど煩雑になるから、ツリー表示等で代用する事が多いかも。だからそれがn次元だとは気付かれないかもだし、また、ツリー表示される分類の全てがn次元なわけでもないけど、ともかくそういうのはある。
以上の例はあまり数学的じゃないし説明も雑だけど、分かる人には分かるはず。ともかくn次元ってなかなか良いものです。
でま、n次元を扱うためには直角や面積・体積を定義し直し、n次元の全てに通用するよう一般化せねば。
xyzの3軸がそれぞれ直交してるのが3次元。それに4本目の軸を足して、4本の全てがやはりそれぞれ直交してるのが4次元。それが可能になるよう「直角」というものを定義し直す。そんなありえなさそうな直角も、いろいろ工夫すると出来てしまう。しかも3次元だけで考えてた時よりも有益なのだ。
そして改めて、その新しく生まれ変わった直角を用いて昔ながらの面積の定義、つまりタテ×ヨコを調べてみると、それはたしかに正しいと確認できる。
目に見える直角とはむしろ、直角とは何かを考えるためのヒントで、それを目に見えない世界に持っていって検証し、それでようやく直角の本当の意味が分かる。これに3千年以上かかった。
だけどそうなると、ピタゴラスやユークリッドは、真偽不明とまでは言えないけど、経験に基づく大まかな確からしさで保障されてただけの命題を用いて推論してたのだとも思われてくる。つまり数学には最初から、どこかアブダクション的な一面があったのだ。あるいは、ピタゴラスの定理は、本当は「予想」と呼ばれるべきものだった。
ガウスは19世紀、つまり世の中全体の文明化がそうとう進んだ時代の人で、予想にすぎないものは予想だと明示しなきゃだったけど、大昔は大らかなので、という事もあるだろうし、また、古代の数学にはピタゴラス”教団”とも称されるような、ごく少数の超エリート達がこっそり研究する秘術みたいな一面があり、その気風は中世算法学者の時代まで続いてた。なので、昔の数学者は自分の発見をあまり公表したがらない。その風潮が変わり始めたのはカルダーノ辺りから。
ジェロラモ・カルダーノ -wiki
そして以後、ヨーロッパの数学は急速に高度化し始め、やがては多くの専門家が公開論議し、その成果が非専門家にも影響を及ぼす科学となり云々
かと言って、ピタゴラスの時代の数学が非専門家には全く無関係だったのではなく、なにしろ土地を測量できて、それは多くの人の役に立ってたし、役に立つという事が数学の正しさを裏付けてた。きっちり直角で区画された土地のきっちりさや面積の大小の比較は、数学の非専門家にも認められる正しさである。
目で見る事ができて、手に触れて、あるいは自分の足で歩いて確かめられ、また、その正しさについてを専門的でない言葉で説明できる。これは、経験によって得られた、経験で確かめられる正しさであると言える。
しかし人間は、経験できない事の正しさも求めようとする。地球を一周できないのに地球の大きさを測ろうとし、4次元以上の立体の量を測ろうとする。
経験できない事とはつまり、誰もが経験できる事ではない。だけどそれが出来る人も少しはいて、そのような人は専門家とも呼ばれる。
専門家は、専門家だけができる経験をして、あるいは例えば4次元以上のビジョンを持っていて、その経験を、たいていは専門的な言葉で報告する。その言葉を理解できるのはやはり専門家で、つまり専門家は、専門家同士で語り合う。現在生きてる専門家同士だけでなく、遠い過去の専門家とも語り合う。つまり例えば古代ギリシャ人に、面積についてを問い直す。同様に、遠い未来の専門家にも語り掛ける。そちらからは残念ながら応答を得られず、したがってその問いかけは「予想」と呼ばれる。といった専門家同士の語り合いから時間の要素をとり除けば;
専門家は専門家にしか通じない言葉で語るが、専門家にも通じない専門語を用いる場合もあり、自分自身にも理解できない専門語を用いる場合さえあるが、しかしそれでも推論に、あるいは創作に成功する場合もありうる、と言える。
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人間の感覚器官は5種類(あるいはそれ以上)。
五感 -wiki
そのうち知的判断に最も影響するのは視覚。なので人間にとって見えないものはたいてい、よく分からない。経験もしにくい。つまり見えないものはたいてい、誰もが経験できる事ではない。そして、よく分からず経験できないものは多かれ少なかれ、恐ろしい。幽霊はいるかもしれない。だけど見えない。だから恐ろしい。
よく分からないものは恐ろしいが、それが見えるようになると安心できる。あるいは、見えるものが「本物」だと思う。だから例えば、幽霊なんて信じないと言ってた人が、枯尾花の影を見ただけで宗旨替えしたりする。
また例えば音楽も、目に見えないものを扱う芸能である。音楽を恐れる人は少ないかもだけど、音を聴くより、演奏行為を目で見るのを好む人の方が多い。あるいは、音楽についてを音楽のための言葉ではなく、自然言語で語ったり、紙上の記号(楽譜)に置き換えて云々するのを好む人の方が多い。
*)音楽のための言葉とは専門用語の事ではないし楽譜でもない。微積分の記号は微積分学そのものではないのと同様。音楽のための言葉とは、たいていは音楽そのもの。あるいは音楽の中に封じられてる何かしら。
電子工作も、目には見えない電気を扱う趣味だから、見えない故にいろいろなアレが生じて云々は上記と同様。
あるいはまた、天体物理学の勉強をするより星の写真を見て感想文を書くのを好む人の方が多い。
あるいはn次元の立体などという見る事ができないものの体積が云々などなど、目に見えないものを扱う趣味や芸能は多いのだけど、耳だって感覚器官なのだから、目より耳の方がエラいとかじゃないです。「考える行程」の入力を行うのが感覚器官で、入力されたものが脳で加工され、出力される。加工の程度が高いなら、それは推論や創作された出力だから、目で見るものであろうと耳で聴くものであろうと、誰もが経験できる事ではない場合が多い。しかし推論や創作をしないなら、経験できない事を経験する必要はない。
だけど「直観」というワードは推論・創作をするしないに関わらず多くの人が使うので意味合いが曖昧になりやすく、なので「科学の推論もきっちり理詰めなだけじゃないかも知れない」云々から始めたこの段落に、つい多くの文字を費やしてしまいました。
なお、目で見れて手でさわれるもの、つまり経験できる事、経験によって知る事には価値がない、のではありません。経験によってしか確かめられない「正しさ」はある。言い換えると、経験を加える事でしか完成させられない推論、というものがある。だけど経験というワードがひどく陳腐化すると例えばゆとりの体験学習とか、いろいろな誤解の元になり云々。これについてはまた後で述べます。
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以上ここまで、科学と芸能の”真”の違いを
・個人差の有無
・永続性の有無
みたいに対立させ、それに基づく四方山話をいろいろ書きましたが、こういう切り分け方は他にもまだ思い付ける。例えば、
・科学の真は、生産するための真。芸能の真は、消費される真。とか、
・科学の真は、支配者にとっての真。芸能の真は、支配される者にとっての真。とか、
・科学の真は公正さを重視する。芸能はチート(ずる)や、審査員を買収するのもルールの一部として黙認されてる世界で価値判断するゲームみたいなもの。生々しいのだ。とか、
・科学の真は人種などの、出自由来の差別はしない。能力で差別する。芸能はその反対。逆差別もする。
とかとか。
そして上記のそれぞれについてもまた様々な事を書けるのだろうけど、きりがないのでもう止します。科学と芸能とでは”真”の扱いが異なる点は説明できたし、しかし推論の過程が似てる場合もあり、芸能の創作は「わたし自身わからない」という謎の作用で成される(と説明される)のはお約束だけど、科学の推論にも同じことがあるという事も、だいぶあやふやだけど一応は説明できた。なので次に考えるべき事は、■を用いる推論がなぜ可能なのかとか、それよりそもそも■を用いてる(はず)の者にとって何故それが■なのか等の問題であろう。
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今日はここまで。続きはまた明日以降。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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でま、ガウス以降の「予想」でもアブダクションが多用されてるのかもと思うわけです。でもガウス以降、という事は概ね1800年以降の数学に関して、私は何も分からないに等しく、これ以上アヤフヤな知識で作文するのもあれですが、ともかく有名な予想2つを紹介。
素数定理 -wiki
カール・フリードリヒ・ガウス -wiki
アドリアン=マリ・ルジャンドル -wiki
複素解析 -wiki
リーマンゼータ関数 -wiki
ポアンカレ予想 -wiki
アンリ・ポアンカレ -wiki
リッチフロー -wiki
素数定理の予想は1790年代に発表され、約100年後に複素解析とゼータ関数を用いて証明された。ポアンカレ予想は1904年に発表され、やはり約100年後に、拡張されたリッチフローを用いて証明された。この2件が推論された過程を簡略に示すと、
□=既知の命題
■=100年後に用いられた命題
〇=予想
のように記号を割り振り、
□∧■→〇
と書ける。推論の前段、式の左辺に■、つまり真偽不明の命題があるので、そもそもこれは推論として成立してないけど、それでも推論の後段、つまり推論によって導き出された(かのような)未知の命題が公表されたので、これらは予想と呼ばれる。
■の中身を探すのは、もちろん予想した当人たちも探したけど果たせず、100年も経って、予想者が生きた時代にはまだ無かった、あるいは誕生したばかりでまだ上手く使えなかった数学の「新しい言葉」を用いて、■の中身は埋められた。
この2つの予想は、何人のも人が長期間考え続け完成させたアブダクション型の推論と見なせる。こういう例は他にもたくさんある。
ガウスは1800年代前半の人。微積分の発見が1680年代で、1700年代はオイラーの時代。この頃からヨーロッパの数学は急速に進歩し始め、しかも産業革命も興る。工業化のトップランナーは1800年代の前半まではイギリスで、その後徐々にドイツが主導権を握る、そんな時期に物理学者としても重要な仕事をたくさん行ったガウスは、数学が現在のように厳密化する前の、最後の世代の数学者だったかも。それが、1900年代の初期になる頃には、先に述べたヒルベルトの云々のような形式主義が現れ、この時代の人だったポアンカレはヒルベルトに対し、直観主義の立場を示した。
数学的直観主義 -wiki
直観て名前だからってべつに、散歩でもしながらインスピレーションが降りてくるのを待って、予想はするけど証明はしないYO!、とかじゃなく、これはその後、直観論理という形に整えられた。
直観論理 -wiki
古典論理学との大きな違いは、排中律が除かれてる点。そして数学的構成主義の思想的基盤であるとかないとか。とは言え直観と名付けられてるなら一般的な意味での直観と関係ないわけもないと思う。
直観 -wiki
「パースの言うアブダクションという仮説形成の操作にも直観作業が用いられている、と考えられている」云々だから、大まかに解釈すると、私が■と呼んでる何かしらは、その現れ方や用いられ方により、あるいはそれを推論する者がどう捉えてるかにより、というよりむしろ捉えられない時に、直観と呼ばれる事もある、という事かなと思われます。
なお、直観と直感は別物です。観と感の違い。といっても英語では一応どっちもintuitionだけど、
・考えなしの当てずっぽうという意味の、hunch
・本能みたいな意味合いの、instinct
・超能力っぽい、sixth sense
・心のままに行動するという意味の、follow one's heart
等々もひっくるめ日本語では、直感とか勘とか言う。そしてintuitionは上のどれとも違うので、区別するため直観という漢字を用いるようだけど、これは紛らわしい。変換ミスしそうだし、本稿の主題である芸能では、このワードは曖昧で俗っぽく用いられがちで、そもそも観と感の違いを気にする人なんていなさそげ。私だってめんどくさい。だから、あまり使いたくない。
ならば今まで通り■を使えばいいかなと思うけど、せっかく直観という語があるのを知ったのだから今後は、■は直観である場合もあるのだとご理解ください。
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科学は進歩する。きっちり推論するからだ。芸能はそうでもない。でも、科学の推論も案外きっちりなだけじゃないかも知れない。アブダクションを用いるし直観もする。と、ここで、数学史の大まかな枠内に演繹→アブダクション→直観の流れをはめ込んでみるテスト。
きっちり理詰めな推論とは、たいていは演繹の事。古代ギリシャの『原論』が主に扱うのは幾何と数論で、この書物での推論のほとんどは演繹的。
演繹ではない推論はアブダクション。アブダクションは方程式の方法でもある。答えが先に定まっていて、分からない部分を後から考える。古代ギリシャ人はこの手順を良くない、ズルいと見なしてたという説もあり、古典期までのギリシャは方程式をほとんど発達させなかった。
ヘレニズム期にアルキメデス、紀元後にはディオファントスが登場し、方程式の研究が徐々に盛んになる。
ディオファントス -wiki
ギリシャが衰退し、ローマも滅び、イスラム世界が文化の担い手となった時期に、方程式が発達した。
方程式 -wiki
フワーリズミー -wiki
幾何の推論は演繹、方程式の推論はアブダクション、と見なせば、数学のメインステージがヨーロッパに移る15世紀頃までに、数学の方法にはこの二本柱が揃ってた事になる。ただ方程式は、未知数x、つまり推論の前段の■を即座に求めるための実用技術だから、アブダクション的な性格が意識されることはなかった(かも知れない)。
17世紀になって幾何が解析的になり、やがて方程式が数学の全分野で用いられるようになると、計算の技術という意味合いしかなかったalgebraの意味合いは拡張され、日本語では代数学と呼ばれる一分野となる。alから始まる英単語はアラビア由来が多い。algebraもそうなわけですね。
代数学 -wiki
そしてやがて、■の解明に100年を要する予想、アブダクションも行われるようになり、なぜそのような事が可能なのかもよく分からないのでしかたなく直観と呼んだ(のかも)。
ポアンカレの100年前なら、つまりガウスの時代なら直観ではなく神様が教えてくれたと言ったってべつにかまわなかったのですよ。なにしろガウスの語録に次のようなものがあるらしい。
誰かがガウスに訊ねた。あなたは何故あのような発見が出来たのですか?ガウスは答えて曰く、
「それはわたしの苦心のたまものではなく、神のおぼしめしによるものだ。不意の閃光のように謎はとけてしまった。わたしが以前に知っていたことと、わたしの成功を可能にしたものを結びつけた糸がなんであったか、わたし自身わからない」
でも20世紀にもなって、しかもヨーロッパの中でも最も脱宗教的なフランスの数学者であるポアンカレが、神様が教えてくれたとか言えるがわけない。なお2018年現在、ドイツ連邦議会の第一党はキリスト教民主主義同盟。ドイツにはいまだにそういうとこある。
ドイツ連邦議会 -wiki
ドイツキリスト教民主同盟 -wiki
でま、ポアンカレとしたら神様のせいには出来ないし、「わたし自身わからない」と言うのも進歩がないというか。それで苦し紛れに直観と言っただけなのか?そうではない、と考えたブラウワーやハイティングは直観理論を立て、でもこれはあまり発展せず廃れてしまったかも。ただ、古典論理の二値原理を拡張する試みは他にもあり、
多値論理 -wiki
ファジィ論理 -wiki
こっちはじわじわ実用化進行中かも。
なお、芸能の推論は真偽が曖昧で多様だからファジイかなと考えたくなるけど、それは違う。真偽が曖昧というより、それを問わないのが芸能の推論なので、多値化はあまり関係ない。それよかは排中律を認めない直観論理の方が、まだ多少は芸能向きかも知れない。
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ピタゴラスの定理の証明は「なぜそうなるか」が説明されてない、という件についていろいろ書きました。タテ×ヨコ=面積、という定義を疑うと、三角形の辺長比を面積に置き換える証明法は、直角三角形の性質を公理として用いる事で、面積の定義の正しさを証明してるのではないかという、あべこべの感想が生じてしまう。これはそもそも、面積の定義を疑うのが間違いだと思われるかもだけど、私の場合、大人になってから数学を勉強し直し始めた。するといろいろ分からない事だらけで、残念なお子様のようになってしまう。
初等教育期間中に、数学に「つまづく」子供は多く、つまづきやすいポイントもだいたい決まってる。ゼロが分からない。マイナスが分からない。面積が、角度が、円周率が、方程式が、三角法が等々。でも大人になってから改めてよく考えてみると、たしかに自分もそれらのどれも、よく分からない。まあ、そういう所から考え直せるのは楽しいのだけど、高卒レベルまでのお浚いを一応終えた時点での感想が、
・自然数ほど不自然な数はない
だったのはいかがなものか。でも、そういう心持ちで調べものをしてるとポアンカレが「0、1などを厳密に定義するのは難しい」と言ってたという記事を見つけられたりもする。ほらやっぱり!てなもんです。とは言えポアンカレの真意は分からないから、じゃあそれが分かるとこまで頑張ってみましょうかという事で、以前よりも数学に対して熱心になり、しかしその数か月後に今度は、
・長さの積が面積になる、という事の意味が分からない
となっちゃった。でもこれはその後、線形代数の初歩までをやったら一応は納得できた。でも更にその後、
・そもそも"1"とは何かが分からない
という沼に墜ち、なんか勉強すればするほどアタマわるい人になってるような気がする。でもガロア以降の代数学とブルバキの業績のあらましを知るに及んで、分からない事は分からないままだけど、分からながってる人は他にも沢山いる事は知れて、ちょっと安心。
エヴァリスト・ガロア -wiki
ニコラ・ブルバキ -wiki
でま、ここまで知った結論として、タテ×ヨコ=面積という定義は、やはり正しい。古代エジプト人は正しかった。ではなぜ彼らは、それほどひちめんどうな事を考えもせずに正しい定義を得られたのか?それはたぶん、面積や直角三角形は目に見えるし、測量等の実用にも問題なく利用できてたからだろう。
でもやがて数学は、目に見えない立体の体積とか、誰も行った事のない空間での長さとかを測ろうとし始める。つまり4次元以上の量とか距離とか。
一応念のため書くけど、ここで言う4次元とは物理学での、空間3次元に時間を加えた4次元ではなく、xyzの3軸を更に増やす、線形代数等で扱われる類のn次元の事です。軸が5本なら5次元の立体みたいのがあって、それの体積とかを計算する。次元はいくらでも増やせる。なんでそんな無意味なものをと思う人もいるかもだけど、こういうのをすんなり受け入れられる人もいるし、数学なんて知らなくても利用できてる人もいる(かも知れない)。例えば;
データを整理し分類する時にマトリックスを使うのは便利。まあ普通は碁盤目みたいの、つまり2次元マトリックスを用いるけど、分類するためのカテゴリが3つ以上になる事も多く、その場合はn次元分類空間とでも呼べるような何かしらが生じる。ただやはり、4次元以上のマトリックスは扱いにくい。図示できなくもないけど煩雑になるから、ツリー表示等で代用する事が多いかも。だからそれがn次元だとは気付かれないかもだし、また、ツリー表示される分類の全てがn次元なわけでもないけど、ともかくそういうのはある。
以上の例はあまり数学的じゃないし説明も雑だけど、分かる人には分かるはず。ともかくn次元ってなかなか良いものです。
でま、n次元を扱うためには直角や面積・体積を定義し直し、n次元の全てに通用するよう一般化せねば。
xyzの3軸がそれぞれ直交してるのが3次元。それに4本目の軸を足して、4本の全てがやはりそれぞれ直交してるのが4次元。それが可能になるよう「直角」というものを定義し直す。そんなありえなさそうな直角も、いろいろ工夫すると出来てしまう。しかも3次元だけで考えてた時よりも有益なのだ。
そして改めて、その新しく生まれ変わった直角を用いて昔ながらの面積の定義、つまりタテ×ヨコを調べてみると、それはたしかに正しいと確認できる。
目に見える直角とはむしろ、直角とは何かを考えるためのヒントで、それを目に見えない世界に持っていって検証し、それでようやく直角の本当の意味が分かる。これに3千年以上かかった。
だけどそうなると、ピタゴラスやユークリッドは、真偽不明とまでは言えないけど、経験に基づく大まかな確からしさで保障されてただけの命題を用いて推論してたのだとも思われてくる。つまり数学には最初から、どこかアブダクション的な一面があったのだ。あるいは、ピタゴラスの定理は、本当は「予想」と呼ばれるべきものだった。
ガウスは19世紀、つまり世の中全体の文明化がそうとう進んだ時代の人で、予想にすぎないものは予想だと明示しなきゃだったけど、大昔は大らかなので、という事もあるだろうし、また、古代の数学にはピタゴラス”教団”とも称されるような、ごく少数の超エリート達がこっそり研究する秘術みたいな一面があり、その気風は中世算法学者の時代まで続いてた。なので、昔の数学者は自分の発見をあまり公表したがらない。その風潮が変わり始めたのはカルダーノ辺りから。
ジェロラモ・カルダーノ -wiki
そして以後、ヨーロッパの数学は急速に高度化し始め、やがては多くの専門家が公開論議し、その成果が非専門家にも影響を及ぼす科学となり云々
かと言って、ピタゴラスの時代の数学が非専門家には全く無関係だったのではなく、なにしろ土地を測量できて、それは多くの人の役に立ってたし、役に立つという事が数学の正しさを裏付けてた。きっちり直角で区画された土地のきっちりさや面積の大小の比較は、数学の非専門家にも認められる正しさである。
目で見る事ができて、手に触れて、あるいは自分の足で歩いて確かめられ、また、その正しさについてを専門的でない言葉で説明できる。これは、経験によって得られた、経験で確かめられる正しさであると言える。
しかし人間は、経験できない事の正しさも求めようとする。地球を一周できないのに地球の大きさを測ろうとし、4次元以上の立体の量を測ろうとする。
経験できない事とはつまり、誰もが経験できる事ではない。だけどそれが出来る人も少しはいて、そのような人は専門家とも呼ばれる。
専門家は、専門家だけができる経験をして、あるいは例えば4次元以上のビジョンを持っていて、その経験を、たいていは専門的な言葉で報告する。その言葉を理解できるのはやはり専門家で、つまり専門家は、専門家同士で語り合う。現在生きてる専門家同士だけでなく、遠い過去の専門家とも語り合う。つまり例えば古代ギリシャ人に、面積についてを問い直す。同様に、遠い未来の専門家にも語り掛ける。そちらからは残念ながら応答を得られず、したがってその問いかけは「予想」と呼ばれる。といった専門家同士の語り合いから時間の要素をとり除けば;
専門家は専門家にしか通じない言葉で語るが、専門家にも通じない専門語を用いる場合もあり、自分自身にも理解できない専門語を用いる場合さえあるが、しかしそれでも推論に、あるいは創作に成功する場合もありうる、と言える。
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人間の感覚器官は5種類(あるいはそれ以上)。
五感 -wiki
そのうち知的判断に最も影響するのは視覚。なので人間にとって見えないものはたいてい、よく分からない。経験もしにくい。つまり見えないものはたいてい、誰もが経験できる事ではない。そして、よく分からず経験できないものは多かれ少なかれ、恐ろしい。幽霊はいるかもしれない。だけど見えない。だから恐ろしい。
よく分からないものは恐ろしいが、それが見えるようになると安心できる。あるいは、見えるものが「本物」だと思う。だから例えば、幽霊なんて信じないと言ってた人が、枯尾花の影を見ただけで宗旨替えしたりする。
また例えば音楽も、目に見えないものを扱う芸能である。音楽を恐れる人は少ないかもだけど、音を聴くより、演奏行為を目で見るのを好む人の方が多い。あるいは、音楽についてを音楽のための言葉ではなく、自然言語で語ったり、紙上の記号(楽譜)に置き換えて云々するのを好む人の方が多い。
*)音楽のための言葉とは専門用語の事ではないし楽譜でもない。微積分の記号は微積分学そのものではないのと同様。音楽のための言葉とは、たいていは音楽そのもの。あるいは音楽の中に封じられてる何かしら。
電子工作も、目には見えない電気を扱う趣味だから、見えない故にいろいろなアレが生じて云々は上記と同様。
あるいはまた、天体物理学の勉強をするより星の写真を見て感想文を書くのを好む人の方が多い。
あるいはn次元の立体などという見る事ができないものの体積が云々などなど、目に見えないものを扱う趣味や芸能は多いのだけど、耳だって感覚器官なのだから、目より耳の方がエラいとかじゃないです。「考える行程」の入力を行うのが感覚器官で、入力されたものが脳で加工され、出力される。加工の程度が高いなら、それは推論や創作された出力だから、目で見るものであろうと耳で聴くものであろうと、誰もが経験できる事ではない場合が多い。しかし推論や創作をしないなら、経験できない事を経験する必要はない。
だけど「直観」というワードは推論・創作をするしないに関わらず多くの人が使うので意味合いが曖昧になりやすく、なので「科学の推論もきっちり理詰めなだけじゃないかも知れない」云々から始めたこの段落に、つい多くの文字を費やしてしまいました。
なお、目で見れて手でさわれるもの、つまり経験できる事、経験によって知る事には価値がない、のではありません。経験によってしか確かめられない「正しさ」はある。言い換えると、経験を加える事でしか完成させられない推論、というものがある。だけど経験というワードがひどく陳腐化すると例えばゆとりの体験学習とか、いろいろな誤解の元になり云々。これについてはまた後で述べます。
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以上ここまで、科学と芸能の”真”の違いを
・個人差の有無
・永続性の有無
みたいに対立させ、それに基づく四方山話をいろいろ書きましたが、こういう切り分け方は他にもまだ思い付ける。例えば、
・科学の真は、生産するための真。芸能の真は、消費される真。とか、
・科学の真は、支配者にとっての真。芸能の真は、支配される者にとっての真。とか、
・科学の真は公正さを重視する。芸能はチート(ずる)や、審査員を買収するのもルールの一部として黙認されてる世界で価値判断するゲームみたいなもの。生々しいのだ。とか、
・科学の真は人種などの、出自由来の差別はしない。能力で差別する。芸能はその反対。逆差別もする。
とかとか。
そして上記のそれぞれについてもまた様々な事を書けるのだろうけど、きりがないのでもう止します。科学と芸能とでは”真”の扱いが異なる点は説明できたし、しかし推論の過程が似てる場合もあり、芸能の創作は「わたし自身わからない」という謎の作用で成される(と説明される)のはお約束だけど、科学の推論にも同じことがあるという事も、だいぶあやふやだけど一応は説明できた。なので次に考えるべき事は、■を用いる推論がなぜ可能なのかとか、それよりそもそも■を用いてる(はず)の者にとって何故それが■なのか等の問題であろう。
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今日はここまで。続きはまた明日以降。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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