推論と創作、その4 言葉にならない推論
- 2018/03/24
- 03:14
この記事は3月10日~19日の期間に3回に分けてうpした「その4,4.2,4.3」を一つにまとめ新規記事として上げ直したもので、推論と創作。その3.3の続きです。
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
言葉にならない推論
推論や創作をしてると時々現れる「わたし自身わからない」という謎の作用。それは本当に謎なのか?「わからない」だけじゃなく、
・突然ひらめいた
・なんとなく分かった
・気がついたら出来てた
・ギターをテキトーにちゃんちゃか弾いてたら1曲できた
等々、言い表し方は様々だけど、どれも中身は概ね同じであろう。
上記諸々は、推論や創作が出来ない人が、出来る人になぜ出来るかを質問した時の答えなのでもあるけどこの場合、質問された側は、あまり真面目に、正確に、誠実に、答えようとはしてないかも知れない。とくに芸能の創作は、結果さえ良ければ作られた過程など、わりとどうでもいいのである。考えてもみて欲しい。絵描きやギター弾きの類の人種が、上手くできた理由についてを真剣に思い悩んだりするだろうか?
いや、もしかしたら彼らは、上手くできる理由がちゃんと分かってるのかも知れない。ならむしろ、それは彼らの企業秘密である。ならそれを、正直に明かすわけがない。ありがちなワードでお茶を濁しておk。という二方面の理由から以下のように言える;
・推論・創作した人の発言内容に基いて、できる理由を探るのは無意味。
なのにこれらを真面目に受取ってしまう人が時々いて、できる人の言の葉を頼りに、推論・創作できる理由を探そうとする。にしてもてきとーに、なんとなくできちゃったじゃあんまりなので、それらを解釈し直し、
・神様
・直観
・無意識
等々に置き換える。なんだけど、推論・創作できない人はむしろ「普通の人に推論・創作は、やっぱ無理」な理由として、これらのワードを用いる事も多い。
ちなみに、できる人がこれらを用いる場合は、カリスマりたいとか、情弱を釣りたいとか、あるいはまじでやばい人。まあ、仕事で芸能してる人なら自分に箔を付けるのも大事ですけど。
上記3つは概ね歴史的な並び順になってる。ガウスの時代までは、数学者でさえ神様を理由にしてた。その百年後は直観。これを用いたポアンカレは、なぜ出来るのかの理由をわりと真剣に考えた方の人だからギター弾きの類と一緒扱いするのは失礼かもだけど、あまり真剣じゃない人も多用するので云々
無意識は心理学の用語。ポアンカレの頃、あるいはその少し前の時代に用いられ始めたけど、その後ひどく俗化した。無意識とは心理学が始まったばかりの時期の作業仮説みたいなもので、意識・無意識という概念を用いない行動心理学という一派もある。つまり心理学会内でも胡散臭い扱いで、神様なんていない(かも知れない)のと同様、無意識なんてものもない(かも知れない)。それは脳科学がもっと発達してから検討し直せばよい事で、今はまだ、このワードを用いるべきではない。
なんだけど無意識は、何故できないかの理由付けには一番便利かも。「わたし自身わからない」のは、無意識で考えてるから。実はちゃんと考えてる。でも無意識だから言葉にできない、という説明のされ方。なんの説明にもなってないのだが、字面が科学っぽいから現代人には好まれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
でもま、推論・創作できない人がいる一方、新しい発見や面白い作品は日々続々と生み出されてる。つまり、できる人にはできている。だから何故できないかの理由なんてどうでもいい。どうでもいいついでに言うと、推論や創作が、本当に何の考えもなしに出来てしまうのだとしたら、むしろその方が良いかも知れない。ハッピーでフリーダムなワールドである。
ただま、世の中全体を見渡してみた感じ的に、考えなしのフリーダムの数千年間が累積して現在の文明段階に達したとも考えにくく、だから本稿の建前は「推論と創作は似てる」だし、趣味の数学みたいな科学っぽいのも併せて創作について考えてるから、なんも考えない方は扱わない。
・発見や発明は推論によって成される。
・同様に、創作も推論で成される(と見なす)。
しかしそれらは「わたし自身わからない」ような、謎の作用で成される場合もある。それも私は推論の一部と見なし、推論の前段にある真偽不明の命題、ブラックボックスと呼び、■で略記する。そして私はこれを、推論・創作する人たちが「わからない、なんとなく、テキトー」等々と言ってる通りに扱いたい。つまり■の蓋を無理にこじ開けようとしたり、中身をあれこれ想像したりはしない。
ちゃんと言葉にしろとか、言語化が大事とか、よく言われる事ではありますね。試しににググってみると、
言語化 -google
wikiに「言語化」のページはありません。他のweb辞書にはあるけど、どうやら学問用語じゃないみたい。その代わり意識高い系の人は好みそう。検索上位の記事をざっと拾い読みしてみたところ;
「頭の中のモヤっとした考えを言葉にするのが大事で、それが思考力を鍛える。何を見ても「やばい」「かわいい」等の連呼しか出来ないのはやばいんで、見聞きした事や思った事を100文字の文章にするのが良い訓練。それをネットに晒しましょう。」
等々と書かれてる。たしかにこれ大事というか、出来ない人の方が多いんだとは思う。ネットのせいで若者が、だけじゃなく、40代以上の中高齢者のブログの文章も、しかもクラシック音楽みたいな高尚でアタマ良さそげな趣味の人の、CD聴いた感想文等の中身でさえも、やばい連呼と概ね同等。ワード集のネタ元が20代と違うのと、語数がやや多い。でも、借り物の、有り物のワードを切り張りしてるだけな点は、やばい連呼と同じ。ゆとりやネットの影響で知能が低下したとは、私には思えない。昭和の頃からずっとこんなもんすよ。
つべを見たり音盤聴いたりして感想文を書くのは、たいていは創作しない趣味。受動的で消費的。なら推論も不要なので、そのための能力を鍛えもしない。鍛えられてない人の頭の中身がネットに多数うpされ可視化され、可視化される事で同レベルの者同士で集いやすくなった点は、昭和とは異なる。
見たまま感じたままを正確に文字に移し替える、そして、ちゃんと出来てるかを検証するってのは、推論への第一歩には違いないです。検証の方が大事なのだけど。
でもこれは一歩目でしかない。次は、100文字で表した内容を短いワードに畳み込む訓練をする。つまり、やばい連呼の状態に戻す。訓練されてる人は、されてない人と同じ語数で、より多くの事を言える。推論と創作に、速さと簡潔さは重要。
そして更に次の段階は、もう言葉は用いない。■を用いるのだ。これでようやく、推論・創作の準備は整った。だかなんだか。
まあこういうのは人それぞれで、■を用いず推論・創作する人もいるだろうけどともかく、とくに芸能の創作の場合、その過程を言語化する必要は無いので、■は■のままでかまわない。もう一度書くけど、芸能の創作は結果が良ければそれでいい。■の中身を知りたがるのは創作できない人。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
創作性の証明
ところでここまで色々な事を書いてきたのは、推論をするには言葉を正しく用いるべきだろうから、それについて考えるためだった。そして、ブラックボックス=■も推論の過程に含まれてる何かしらだから、これも正しく用いられるべき。だけど中身が分からない■の「正しさ」についてを云々するのは、無理だし無意味。なので次のように考えてみる;
・科学では、前段に■を含めて行われた推論の結果は予想と呼ばれ、それはいわば未完成品である。完成させるには■の中身を明らかにせねばなので、たとえ百年かかろうとそのための努力が続けられる。
・芸能では、■を用いて作られた作品でも、それを創作的な完成品であると認める者にとっては完成品であり、■の内容や真偽は問われない。
そして、
・科学の予想の■の中身が不明なままではいかんのは、その予想≒未完成品がたぶん正しく、有益だから。
・芸能の作品の■の中身が問われないのは、その、たぶん完成してる作品に創作性があり、やはり有益だと認められるから。
上記から、■の中身を問う問わないと、完成・未完成という項を除去すると、「たぶん・正しい≒創作的・有益」という項が残る。科学も芸能も、これらは共通。■があるのは推論の前段なので、推論・創作された結果の方についてだけ考えるなら取りあえず、■の事は気にしなくていい。そこで次のように問うてみる;
Q.推論・創作された結果を「たぶん」にせよ、「正しい≒創作的・有益」と認めた人は、なぜそう判断できたのか?
この問いには2通りの答えが予想される。
A1.みんなが正しいと言ってるからとか、ヒットチャートの上位だからとか。
A2.それを判断するための能力=判断力を、持ってるから。
A1については後述。まず先にA2の方を考える。私は判断できると言ってる人の実態は、以下の3通りであろう。
1.実は私は判断力を持ってない。その代わり「みんなの意見」への強い影響力を持ってる。
2.私は判断力を持ってる、と私は思ってるが、本当に持ってるかは証明できない。
3.私は判断力を持ってるし、それを持ってる事を証明できる。
科学が常に厳密で公正なら1.を考慮しなくていいけど、大金が絡むと科学だっていろいろあれで、というか科学は有益だからこそ大金も絡んでくるので云々。芸能の方については言わずもがな。いずれにせよこれはA1.みんなが正しい云々に関わる事なので、今は考慮しない。
2.は、そう思ってる私が成長期の人か、それを過ぎてしまった人かで扱いが異なり、成長期の人なら、そのうち証明できるようになるかも知れない。根拠のない自信を持つのが許される期間というのはあるものです。しかしその期間中に証明できるようにならなかった人は、こじれた大人みたいなもので、にしても今は、これも考慮しない。
3.は、自分に判断力があるのを自他の双方に対して証明できる人。では、どうやって証明するのか?
科学でなら、推論する事で証明する。推論してる対象が「予想」なら、■の中身を明らかにする。それによって、その予想が正しかった事と、それを正しいと判断できる能力が自分にあった事の両方を、同時に証明できる。これはとても明快な証明法。
芸能でなら、創作する事で証明する。創作できる人ならたぶん、他者の作品の創作性についても正しく判断できるであろう。
本稿の建前は「推論と創作は似てる」だから、科学での判断力の証明が推論でなされるのなら、芸能では創作でなされるであろうと仮定する。つまりこの件の真偽は不明だけど、この過程に基いて何が言えるかを考えるのは有意義かも知れない。
でま、創作できる人なら他者の作品の創作性についても、たぶん、正しく判断できる。ただしその判断を自然言語で、つまり口頭で「創作性あるね!」と言ったりレビュー記事でほめたりとかするだけでは、証明にはならない。それだけじゃ1.2.と同じ。
では何をすべきかと言えば、創作する。つまり例えば私が、ある作品に対して創作性ありと認めた、その判断の正しさは、私が新たな何かしらを創作する事でのみ証明される。つまり、良いなと思った作品への応答・replyを作らねばならない。そしてそのreplyにも創作性があるなら、私の判断は正しかったと証明される。
*)ポップスにはアンサーソングというのがあって、
アンサーソング -wiki
この語が広く通用してるなら芸能一般に拡大適用して例えば、アンサー作品というような用語を作ってもいいのだけど、残念ながらアンサーソングは、あまり一般的な語ではない。他にリスペクトとか(肯定的な意味合いでの)オマージュとかもあるけど、やはりどれもイマイチ。しかも意味範囲が限定的。なら、答え≒answerよりも意味合いが広い応答≒responseの縁語であり、やはりポップスで時々使われるreplyを選び、以下しばらく、これを応答作品とでもいうような意味合いの語として用います。
でま、私に判断力があるかは、replyを作れば証明できる。なんだけど、そのreplyが創作的でないと、証明した事にはならない。なぜなら創作的でない作品は、創作できない人にも作れる。つまり前述1.2.の人でも作れる。だからreplyの創作性に対しても証明が必要だけど、それはreplyの作者である私には行えない。なぜって、それが可能ならそもそも、この話しの発端になってる最初の作品に対する証明は、それの作者が行えばよい、という事になるのだから。
なので、私が作ったreplyが創作的であるかは、また別の人が私のreplyに対するreplyを作ってくれない限り証明されない。でもま幸い、誰かが2つめのreplyを作ってくれたとする。すると2つめの証明には3つめのreplyが必要になり、このループはその後も、創作性が途絶えない限り延々と続けられる。つまり創作は、応答の連鎖を引き起こす。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
とま、以上のような事が実際に起こってるかは、こういうやり取りを経験した事がある人になら、たしかにそうだとか似たような何かがあったと納得してくれるかもだけど、納得できない人も多いであろう。
一方、科学での証明は日々実際に、公的な場で生じてる事なので、これは本当の事だと納得してくれる人は、少なくとも芸能での事についてよりかは多いのではなかろうか。
あるいは、数学には「証明問題」というのがある。何々を証明せよ、という文言で出題されるやつ。たしか中学では少しあって、高校になると増えたかも。
「計算問題」の場合は、それを解いたら問題集の、たいていは最後の方とかに載ってる「答え」と照らし合わせて正誤を確認する。答えがないと正解してるかどうか確かめられない。
だけど証明問題は、正しく解けさえすれば、答えを見る必要がない。一応とけたけどちょっと自信ない、というのではなく、パズルのピースが全て正しく合わさった時のように、これなら完璧だと確信できる回答が作れたなら、答えなど見ずとも正解できてるのが分かる。正しく推論できれば証明問題を解ける。と同時に、それが正しいと判断できる能力が自分にはある、という事も証明できてる。
という経験をした事がある人なら、同じような事は芸能の創作でもありうるかもと想像しやすいかも知れない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
でま、replyのループが無数の作品を生み出してる、という話しが本当だとすると、古今東西あまた存する創作物の何割かは、replyなのかもとも思われてくる。逆に考えるなら、replyでない作品などあるのだろうか?もしあるならreplyと、そうでないのとの判別が可能かについて考えるべきだが、それは無益な事のように私には思われる。それにまた、創作とは未だ存在してない何かしらを作る事ではあるけれど、
「全ては二次創作でしかない」
ともよく言われる事で、これは全てがreplyだと言うのと似てる。しかしもしも、二次創作という語を「劣ったもの」という意味合いで用いてるなら、この謂いは半面の真実である。いずれにせよ作品とは、それが創作を目指してるなら、ただ作られただけでは不十分で、創作性の有無が証明されなければならない。創作性があれば、replyであろうと二次であろうと、あるいはまた別の何かであろうと、それは創作的なのだ。
全ての作品は多かれ少なかれreply的である事を示す例としては、次のようなものもある;
・ベートーヴェンはソナタ形式を用いて、創作性の高い作品を書いた。
上記はまた、
・ベートーヴェンはソナタ形式を用いて、自分に創作力があるのを証明した。
とも言い換えられる。
ソナタ形式 -wiki
ところでソナタ形式とは、ベートーヴェンの師のハイドンが完成させたものである。ハイドンはソナタ形式という音楽の「方法」を発明した。それはハイドンに先立つ100年あるいはそれ以上の年月の中で発達した、ヨーロッパ器楽の成果の集大成の一つなのでもある。ところが、そういう経緯で成立したソナタ形式であるため、ハイドンは前の時代の影響に縛られ、この形式(という発明品)の可能性を十分利用できなかった、かも知れない。
ベートーヴェンはハイドンの作品を聴いて、ソナタ形式でならもっと色々な事ができる、と思ったかもしれない。そして彼もソナタ形式を用いて作曲し、その結果、ハイドンよりも多くの音楽的成果を、この発明品から引き出した。つまりベートーヴェンのソナタとは、ソナタ形式には創作性がある事を証明するためのreplyである。と同時に彼は、ソナタ形式の創作性を証明する事で、自らに創作力がある事をも証明し得てる。
ただま、ベートーヴェンがreplyするつもりで作曲してたかどうかは分からない。彼の語録を探れば何かそれっぽい発言を見つけられるかもだけど、創作した人の頭の中身を当人の発言から推し量ろうとしても無益なのは先述した通り。
ただしまた、ベートーヴェンの曲はハイドンの事など知らない人にとっても創作的である(場合がある)のは事実。つまりベートーヴェンの曲は、replyであろうとなかろうと創作的である。
と同時に彼の曲は、ソナタ形式の有意義性を示す事で、ハイドンへのreplyとして機能してる(と見なせる)のも事実。つまりやはり、ベートーヴェンのソナタはreplyである。
そして以上の事はベートーヴェンのソナタについてだけでなく、変奏曲やフーガといった他の楽式で書かれた曲についても言えるし、それはハイドンではない他の作曲家との関係でもあるし、楽式だけでなく管弦楽法とかピアノ奏法とか、その他諸々についても同じ事が言え、そしてそれはまたベートーヴェンと他の作曲家との関係だけでなく、クラシック音楽でだけの話でもなく、全ての音楽家の全作品についても、同じ事が多かれ少なかれ言える。したがって全ての創作的な楽曲は、それぞれが独立的に創作的であると同時に、どれもがreply的なのでもある、という事が言える。
以上は、音楽家が音楽作品に対して音楽でreplyする例だけど、replyは一つのジャンル内だけで行われるのでもない。つまり絵を見てインスパイアされて(感化、啓発、触発されて、刺激を受けて)作曲したとか、あるいはその逆とか、そういう例はごく当たり前にあるものだし、それは当然、絵と音楽だけじゃなく芸能のほぼ全てのジャンル間で生じる事で、それらも全て多かれ少なかれreplyなのだとすれば益々、人が作り出した創作物の多くは、あるいはほぼ全ては、reply的なのだと思われてくる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
とま、この段落で書いてきた事は、推論・創作の前段にある■を一旦無視し、その代わりに「判断力の有無を証明する」という課題を設けたらどうなるか、についてでした。本稿の建前は「推論と創作は似てる」だから、科学の推論で成り立つことが、芸能の創作でも同じく成り立つかは調べてみるべき。ですがその結果わかった事はやはりと言うべきか、科学では、この証明はすっきり明快に行えるのに、芸能ではアヤフヤ。結局ここにも科学と芸能の”真”の違いが表れてしまう。科学は■を明らかにする故、正しさを証明できるけど、芸能は■を放置するので、証明なんて出来ない。
そもそも、芸能の創作性は「replyを作れば証明できる」という前提が誤ってるのだ。でも私はここでちょっとズルをして、誤れる前提を抱えたまま議論をゴリ押ししてみたところ、replyのループが多くの作品を生み出すという仮想的な状況を描き出せて、更にそこからの流れで「二次創作」という語の意味を多少拡張し、肯定的に一般化できる、ような気がしたので、ともかくそこまでを書いてみた。■の中身とか証明が云々よりむしろ、こっちの方が大切な事かもだし。
前提が誤ってる、というか少しおかしい点についてもう一つ言うと、「他者が作った作品の創作性を証明するため、私が何かを作る」というのもおかしな話しかも知れない。人の作品を見て自分も何か作りたいと思うのは普通によくある事だけど、その時の気持ちの中身は、
・自分もあんなようなのを作りたい、とか
・自分ならもう少しここをこう変えあそこをああ変え、とか
・インスパイアされた
等々。他人の創作性を証明するため自分が何か作るなんて、そんなひまじんはいなさそげ。でも、何かを作りたくなるキッカケには、次のようなものもある;
・例えば私が、あるアニメ作品を見てとても良いと思った、とする。そして、こんな素晴らしいものを見せてくれた事への感謝の気持ちを表したくて、何かを作ろうと思う。
という動機で何かを作った事がある人は、わりと多いと思うけど、つまりこれもreplyなのですよと申し上げたい。そして、この動機の中には部分的にせよ、キッカケになった作品の創作性を証明したい気持が混ざってたかもという人も、少しはいるのではないか?いやま私の好きなアニメって、しばしば円盤爆死してたりするので、だからこういう意識が多めになってしまうという個人的な事情があり云々
でもまあ普通は作品を作るよりもまず、レビュー記事とかを書いて推す。そして更に余力のある人は、アニメのマテリアルに即した二次を作る。つまりイラストを描いたりスピン・オフ・ノベルを書いたり、劇中曲をコピーしたり。
でもコピーや変形は、replyとしてはあまり有効ではないと思う人は、replyしようとしてる作品との直接的な関係性を取り除いた作品を作る、という場合もありうる。そしてそれを公表する際にreplyである旨を明示しなければ、受け取る側はreplyだとは思わないわけで、また、以上の過程を無自覚に行ってる人もいるだろう。こういう事も考えるとやはり、世の中に出回ってる作品の多くはreplyかもと思われ云々
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
創作的ではない事の証明
科学では、新しい発見を発表する時は、それが正しい事を示す証明を添えねばならないし、その証明が誤ってないか複数の専門家が検証する。まだ証明できてないのに発表するのは予想。
そして、その発見や予想が実は正しくないなら、正しくないと証明するのも大事。例えばミレニアム問題では、否定的な解決、つまり正しくないと証明できた場合でも賞金がもらえる。
ミレニアム懸賞問題 -wiki
前節で書いたように、科学での、発見や予想の正しさの証明は明快である。正しくない方の証明についても同様。
では芸能ではどうだろうか?つまり例えば私が、ある作品に対してそれを創作的ではないと判断した場合、その判断の正しさを証明するのは可能だろうか。前節ではこれについて考えるため、
・ある作品を「創作的」であると認めた人は、なぜそう判断できたのか?
という問いを立てたが、今回はこれを少し変形し、創作的の反対の非創作的、ではなく、「良くない」という曖昧な言い方にしてみる。つまり、
Q.ある作品を「良くない」と認めた私は、なぜそう判断できたのか?
前節と同じくこの問いには、
A1.みんなが良くないと言ってるからとか、売れてないからとか。
A2.良くないと判断できる能力=判断力を、持ってるから。
の2通りが予想され、やはり前節同様、A2についてのみ考える。ただ、A2の中身の分類法を前節とは違えて、以下のようにしてみる;
まず、どう良くないのかを具体的に言うと、
a.好き嫌いの点から、良くない。つまり私はこの作品が嫌いである。
b.道徳や風紀の点から、良くない。つまりこの作品は、けしからぬ。
c.創作的ではないから、良くない。
そして、その良くなさは、
1.そう判断した私以外の人にとっても良くない。
2.私にとってのみ良くない。
そして、そう判断した私は、その判断の正しさを、
x.証明できない。
y.証明できる。
以上のように分類の次元を3つ設け、これでマトリックスを組むと、
3×2×2=12
だけど、嫌いであるのを証明する必要はないので、a1、a2についてのx,yは存しない。一方、道徳等については証明の必要と可不可が問題になる場合はありうるので、結局10通りの「良くない」がある。その全てについて色々書いてもいいけれど、創作的ではない事の証明に関係あるのは、
c1y→その作品が創作的ではない事を、私以外の人に対しても証明できる。
c2y→その作品が創作的ではない事を、私に対してのみ証明できる。
の2項だけなので、まずこれについてを考える。創作とは何かについては本稿の最初の方で簡略に定義した通り、
「未だ存在してないものを作る事」
だから、ある作品が創作的ではないという事は、それは既に存在してる作品のコピーか盗作かバージョン違いの類である。そう私が判断した場合、私はそれを創作的でないと言う。
盗作ではない作品に対して盗作疑惑がかけられた例は多数あり、つまりこの種の判断は誤ってる場合がある。その点だけを正しく確認できれば、創作的ではないという判断の正しさは、私に対して証明できる。
ではこの事が私以外の人にとっても創作的ではないかというと、これも本稿で既に述べたように、誰かにとっての既知も、それを未だ知らない人にとっては未知であり、それは創作的である。だからc1yの、私以外に対しての証明は、べつにやりたきゃやればいいけどやる意味はない。
コピー行為や盗作行為に違法性があれば指摘しなきゃかもだけど、それはたいていオリジナル作品の権利の所有者が行うべき事である。
なので事実上、私以外の人に対しての証明は不要。そして私自身に対しての証明は上記の通り、明快に行える。もちろんreplyなども不要。明快というより、至極かんたん。既にあるものを既にあると正しく認めるだけなのだ。
盗作やバージョン違いを作る技法が巧みで、それを見破れずに創作性ありと判断してる、という場合はありうるが、それは創作性がある事の証明での問題。
創作性がある事の証明にはreplyが必要で、しかもそれを作っただけではまだ証明にはならず、実際とこ証明なんて不可能。ところが「ない」の方はとても明快に証明できる。ではこれ有意義なのか?否である。創作性のなさなんて、たいした問題ではないのだ。だからかんたんに証明できるし、したところで甲斐もなし。創作で重要なのは、創作的でありうる場合だけ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なのに私は、この問題を考えるための分類項を前節より増やした。それはなぜか?もう一度示すと、
a.好き嫌いの点から、良くない。
b.道徳や風紀の点から、良くない。
c.創作的ではないから、良くない。
1.そう判断した私以外の人にとっても良くない。
2.私にとってのみ良くない。
x.証明できない。
y.証明できる。
前節には無かった要素は、好き嫌いと、道徳等と、私にとってのみかどうか。なぜ前節でこれらを問わなかったかというと、まず好き嫌いについては、それを証明する必要などない。
道徳等と、それが私だけの問題かは「正しさ」に関係する事だからもっと後で述べたいのだけど、「個人的」な好き嫌いを分類項に入れるなら「公的」な道徳も加えた方が良い。なぜならこの2つに創作性の有無を加えれば、芸能の価値判断に関わるキーワードの全てを包括できる(と思う)ので、つまり良し悪しを分けるのは好き嫌いや道徳の他にも無数にあるけど、全ては私的・公的・創作的のどれかと関連させられる故、この場合は個人的と公的をセットで用いた方が良い。
ともかく、創作性ありの証明に好き嫌いは無関係。ない方の証明にも関係ない。しかし好き嫌いは創作性「あり」の方と関係があって、この説明は創作性がない方の話しに混ぜた方が通りがいいかなと思うのでそうしてる次第。要点だけを述べると;
創作性の有無は、私的な好き嫌いとは関係ない。つまり、嫌いな作品に対してreplyする事もある。
あるいは逆に、例えば私が真に創作的な作品を作れたなら、その創作性は、私を嫌う人にも働きかける。
つまり創作性は、個人的な好き嫌いには囚われず作用しうる。
そしてまた好き嫌いとは基本的に、個人、personの価値判断の問題である。
道徳等は、基本的には公的なもので、それはたいてい比較的同質な個人の集合体、つまり国、nationが規定する価値判断の問題である。
では創作性はどうか?何百年も前の、私とは無縁な国の人が作った作品でも、私にとっては創作的である、という場合は多々ある。つまり創作性はpersonとnation(民族性)を超える、普遍的な作用である。
自分が好きな作品に対してreplyを作るのは普通によく行われると思うけど、好きだと示すだけなら創作性は不要。その場合は創作性のない二次にしかならないかもだけど、好きな仲間を増やす効果はあるかも。
上記分類項のa1、つまり私が嫌いなものはみんなも嫌いなはず、あるいは、嫌うべき、の場合にreplyを作るのは、ディス目的の劣化二次とかを除けば、まずない。自然言語で嫌いな旨を宣言し宣伝する。
好き嫌いを表明すれば、価値観を同じくする事によって、あるいはいわゆる共感によって、仲間を増やせる。それによって芸能の消費量は拡大されるだろうから、これは重要。
嫌いである事の表明も、共通の敵を作る効果が期待できるので、仲間集めに有効。同じものを好む集団の結束は、同じものを嫌う事で更に強化される。
創作する立場からすると、嫌いな作品は無視すればいい。わざわざ気にかけてイヤな思いをする必要はない。なのになぜか無視できない嫌いな作品というのはあるもので、その場合は、なぜ嫌いなのかを考えてみるのは面白い。好悪の感情が自分の創作のキッカケになる場合は、好きも嫌いも一緒である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なお、創作的ではない証明は、それが既にある事を示すだけでおk。なら創作的である証明は、それが未だ存在してない事を示すので良さそうだけど、一般的に「ない」の証明は困難で、ある作品が別の作品の盗作やバージョン違いでは「ない」事を証明するのは事実上不可能だから、この方法は使えない。結局、創作性の証明とは、あるなしの問題ではないのだ。
あるいは、創作の定義の「未だ存在してないものを作る事」が、芸能に対しては厳しすぎるのかも知れない。誰かにとっての既知も、それを未だ知らない人にとっては未知である事のみが、芸能の創作性を支えてる。あるいはむしろ、芸能でも創作が可能であるという錯覚を生じさせてるに過ぎないのかも知れない。
初心者の頃は、未だ知らない事が多い。年齢的には、若年層である場合が多い。その時期の人の芸能への接し方は、見るもの聞くもの全てが興味深く、面白く、知らない事はまだまだ沢山あるからどんどん知りたく、だからたとえその芸能がクラシック音楽のような、既に数十年以上も目ぼしい新作を生み出せてないようなジャンルであっても、若いクラシック・ファンにとってのクラシック音楽は創作的なのだ。
だけど一定期間を過ぎると、未だ知らない事は少なくなる。また、たいていの人は経験を一般化できるので、あれとこれは似てる、というような事も知り始める。これはクラシック音楽だけでなく、新作がどんどん生み出されるポップスでも同じ。芸能はシジフォスの神話にも似て、同じことを繰り返してるだけである。あるいはどれも似たようなものである。という事を知ってしまう。
以上の経緯は音楽だけでなく、映画でもマンガでも、ともかく「作品」を介する形式の芸能の全てについて同様である。
しかしそれでも、もう若くなくなっても、若い頃に親しんだ芸能を好み続ける人は多い。そのような人の創作性への対し方は大まかに分けて、
・もともと創作性など求めてなかった。
・創作的である事は諦めたが、若い頃の好印象は維持されてる。
・まだ、創作は可能だと思ってる。
・その他
等々かと思う。でま、replyするのなんのってのはたぶん、創作が可能だと思ってる人にとってのみの問題なのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日はここまで。続きはまた明日以降。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
言葉にならない推論
推論や創作をしてると時々現れる「わたし自身わからない」という謎の作用。それは本当に謎なのか?「わからない」だけじゃなく、
・突然ひらめいた
・なんとなく分かった
・気がついたら出来てた
・ギターをテキトーにちゃんちゃか弾いてたら1曲できた
等々、言い表し方は様々だけど、どれも中身は概ね同じであろう。
上記諸々は、推論や創作が出来ない人が、出来る人になぜ出来るかを質問した時の答えなのでもあるけどこの場合、質問された側は、あまり真面目に、正確に、誠実に、答えようとはしてないかも知れない。とくに芸能の創作は、結果さえ良ければ作られた過程など、わりとどうでもいいのである。考えてもみて欲しい。絵描きやギター弾きの類の人種が、上手くできた理由についてを真剣に思い悩んだりするだろうか?
いや、もしかしたら彼らは、上手くできる理由がちゃんと分かってるのかも知れない。ならむしろ、それは彼らの企業秘密である。ならそれを、正直に明かすわけがない。ありがちなワードでお茶を濁しておk。という二方面の理由から以下のように言える;
・推論・創作した人の発言内容に基いて、できる理由を探るのは無意味。
なのにこれらを真面目に受取ってしまう人が時々いて、できる人の言の葉を頼りに、推論・創作できる理由を探そうとする。にしてもてきとーに、なんとなくできちゃったじゃあんまりなので、それらを解釈し直し、
・神様
・直観
・無意識
等々に置き換える。なんだけど、推論・創作できない人はむしろ「普通の人に推論・創作は、やっぱ無理」な理由として、これらのワードを用いる事も多い。
ちなみに、できる人がこれらを用いる場合は、カリスマりたいとか、情弱を釣りたいとか、あるいはまじでやばい人。まあ、仕事で芸能してる人なら自分に箔を付けるのも大事ですけど。
上記3つは概ね歴史的な並び順になってる。ガウスの時代までは、数学者でさえ神様を理由にしてた。その百年後は直観。これを用いたポアンカレは、なぜ出来るのかの理由をわりと真剣に考えた方の人だからギター弾きの類と一緒扱いするのは失礼かもだけど、あまり真剣じゃない人も多用するので云々
無意識は心理学の用語。ポアンカレの頃、あるいはその少し前の時代に用いられ始めたけど、その後ひどく俗化した。無意識とは心理学が始まったばかりの時期の作業仮説みたいなもので、意識・無意識という概念を用いない行動心理学という一派もある。つまり心理学会内でも胡散臭い扱いで、神様なんていない(かも知れない)のと同様、無意識なんてものもない(かも知れない)。それは脳科学がもっと発達してから検討し直せばよい事で、今はまだ、このワードを用いるべきではない。
なんだけど無意識は、何故できないかの理由付けには一番便利かも。「わたし自身わからない」のは、無意識で考えてるから。実はちゃんと考えてる。でも無意識だから言葉にできない、という説明のされ方。なんの説明にもなってないのだが、字面が科学っぽいから現代人には好まれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
でもま、推論・創作できない人がいる一方、新しい発見や面白い作品は日々続々と生み出されてる。つまり、できる人にはできている。だから何故できないかの理由なんてどうでもいい。どうでもいいついでに言うと、推論や創作が、本当に何の考えもなしに出来てしまうのだとしたら、むしろその方が良いかも知れない。ハッピーでフリーダムなワールドである。
ただま、世の中全体を見渡してみた感じ的に、考えなしのフリーダムの数千年間が累積して現在の文明段階に達したとも考えにくく、だから本稿の建前は「推論と創作は似てる」だし、趣味の数学みたいな科学っぽいのも併せて創作について考えてるから、なんも考えない方は扱わない。
・発見や発明は推論によって成される。
・同様に、創作も推論で成される(と見なす)。
しかしそれらは「わたし自身わからない」ような、謎の作用で成される場合もある。それも私は推論の一部と見なし、推論の前段にある真偽不明の命題、ブラックボックスと呼び、■で略記する。そして私はこれを、推論・創作する人たちが「わからない、なんとなく、テキトー」等々と言ってる通りに扱いたい。つまり■の蓋を無理にこじ開けようとしたり、中身をあれこれ想像したりはしない。
ちゃんと言葉にしろとか、言語化が大事とか、よく言われる事ではありますね。試しににググってみると、
言語化 -google
wikiに「言語化」のページはありません。他のweb辞書にはあるけど、どうやら学問用語じゃないみたい。その代わり意識高い系の人は好みそう。検索上位の記事をざっと拾い読みしてみたところ;
「頭の中のモヤっとした考えを言葉にするのが大事で、それが思考力を鍛える。何を見ても「やばい」「かわいい」等の連呼しか出来ないのはやばいんで、見聞きした事や思った事を100文字の文章にするのが良い訓練。それをネットに晒しましょう。」
等々と書かれてる。たしかにこれ大事というか、出来ない人の方が多いんだとは思う。ネットのせいで若者が、だけじゃなく、40代以上の中高齢者のブログの文章も、しかもクラシック音楽みたいな高尚でアタマ良さそげな趣味の人の、CD聴いた感想文等の中身でさえも、やばい連呼と概ね同等。ワード集のネタ元が20代と違うのと、語数がやや多い。でも、借り物の、有り物のワードを切り張りしてるだけな点は、やばい連呼と同じ。ゆとりやネットの影響で知能が低下したとは、私には思えない。昭和の頃からずっとこんなもんすよ。
つべを見たり音盤聴いたりして感想文を書くのは、たいていは創作しない趣味。受動的で消費的。なら推論も不要なので、そのための能力を鍛えもしない。鍛えられてない人の頭の中身がネットに多数うpされ可視化され、可視化される事で同レベルの者同士で集いやすくなった点は、昭和とは異なる。
見たまま感じたままを正確に文字に移し替える、そして、ちゃんと出来てるかを検証するってのは、推論への第一歩には違いないです。検証の方が大事なのだけど。
でもこれは一歩目でしかない。次は、100文字で表した内容を短いワードに畳み込む訓練をする。つまり、やばい連呼の状態に戻す。訓練されてる人は、されてない人と同じ語数で、より多くの事を言える。推論と創作に、速さと簡潔さは重要。
そして更に次の段階は、もう言葉は用いない。■を用いるのだ。これでようやく、推論・創作の準備は整った。だかなんだか。
まあこういうのは人それぞれで、■を用いず推論・創作する人もいるだろうけどともかく、とくに芸能の創作の場合、その過程を言語化する必要は無いので、■は■のままでかまわない。もう一度書くけど、芸能の創作は結果が良ければそれでいい。■の中身を知りたがるのは創作できない人。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
創作性の証明
ところでここまで色々な事を書いてきたのは、推論をするには言葉を正しく用いるべきだろうから、それについて考えるためだった。そして、ブラックボックス=■も推論の過程に含まれてる何かしらだから、これも正しく用いられるべき。だけど中身が分からない■の「正しさ」についてを云々するのは、無理だし無意味。なので次のように考えてみる;
・科学では、前段に■を含めて行われた推論の結果は予想と呼ばれ、それはいわば未完成品である。完成させるには■の中身を明らかにせねばなので、たとえ百年かかろうとそのための努力が続けられる。
・芸能では、■を用いて作られた作品でも、それを創作的な完成品であると認める者にとっては完成品であり、■の内容や真偽は問われない。
そして、
・科学の予想の■の中身が不明なままではいかんのは、その予想≒未完成品がたぶん正しく、有益だから。
・芸能の作品の■の中身が問われないのは、その、たぶん完成してる作品に創作性があり、やはり有益だと認められるから。
上記から、■の中身を問う問わないと、完成・未完成という項を除去すると、「たぶん・正しい≒創作的・有益」という項が残る。科学も芸能も、これらは共通。■があるのは推論の前段なので、推論・創作された結果の方についてだけ考えるなら取りあえず、■の事は気にしなくていい。そこで次のように問うてみる;
Q.推論・創作された結果を「たぶん」にせよ、「正しい≒創作的・有益」と認めた人は、なぜそう判断できたのか?
この問いには2通りの答えが予想される。
A1.みんなが正しいと言ってるからとか、ヒットチャートの上位だからとか。
A2.それを判断するための能力=判断力を、持ってるから。
A1については後述。まず先にA2の方を考える。私は判断できると言ってる人の実態は、以下の3通りであろう。
1.実は私は判断力を持ってない。その代わり「みんなの意見」への強い影響力を持ってる。
2.私は判断力を持ってる、と私は思ってるが、本当に持ってるかは証明できない。
3.私は判断力を持ってるし、それを持ってる事を証明できる。
科学が常に厳密で公正なら1.を考慮しなくていいけど、大金が絡むと科学だっていろいろあれで、というか科学は有益だからこそ大金も絡んでくるので云々。芸能の方については言わずもがな。いずれにせよこれはA1.みんなが正しい云々に関わる事なので、今は考慮しない。
2.は、そう思ってる私が成長期の人か、それを過ぎてしまった人かで扱いが異なり、成長期の人なら、そのうち証明できるようになるかも知れない。根拠のない自信を持つのが許される期間というのはあるものです。しかしその期間中に証明できるようにならなかった人は、こじれた大人みたいなもので、にしても今は、これも考慮しない。
3.は、自分に判断力があるのを自他の双方に対して証明できる人。では、どうやって証明するのか?
科学でなら、推論する事で証明する。推論してる対象が「予想」なら、■の中身を明らかにする。それによって、その予想が正しかった事と、それを正しいと判断できる能力が自分にあった事の両方を、同時に証明できる。これはとても明快な証明法。
芸能でなら、創作する事で証明する。創作できる人ならたぶん、他者の作品の創作性についても正しく判断できるであろう。
本稿の建前は「推論と創作は似てる」だから、科学での判断力の証明が推論でなされるのなら、芸能では創作でなされるであろうと仮定する。つまりこの件の真偽は不明だけど、この過程に基いて何が言えるかを考えるのは有意義かも知れない。
でま、創作できる人なら他者の作品の創作性についても、たぶん、正しく判断できる。ただしその判断を自然言語で、つまり口頭で「創作性あるね!」と言ったりレビュー記事でほめたりとかするだけでは、証明にはならない。それだけじゃ1.2.と同じ。
では何をすべきかと言えば、創作する。つまり例えば私が、ある作品に対して創作性ありと認めた、その判断の正しさは、私が新たな何かしらを創作する事でのみ証明される。つまり、良いなと思った作品への応答・replyを作らねばならない。そしてそのreplyにも創作性があるなら、私の判断は正しかったと証明される。
*)ポップスにはアンサーソングというのがあって、
アンサーソング -wiki
この語が広く通用してるなら芸能一般に拡大適用して例えば、アンサー作品というような用語を作ってもいいのだけど、残念ながらアンサーソングは、あまり一般的な語ではない。他にリスペクトとか(肯定的な意味合いでの)オマージュとかもあるけど、やはりどれもイマイチ。しかも意味範囲が限定的。なら、答え≒answerよりも意味合いが広い応答≒responseの縁語であり、やはりポップスで時々使われるreplyを選び、以下しばらく、これを応答作品とでもいうような意味合いの語として用います。
でま、私に判断力があるかは、replyを作れば証明できる。なんだけど、そのreplyが創作的でないと、証明した事にはならない。なぜなら創作的でない作品は、創作できない人にも作れる。つまり前述1.2.の人でも作れる。だからreplyの創作性に対しても証明が必要だけど、それはreplyの作者である私には行えない。なぜって、それが可能ならそもそも、この話しの発端になってる最初の作品に対する証明は、それの作者が行えばよい、という事になるのだから。
なので、私が作ったreplyが創作的であるかは、また別の人が私のreplyに対するreplyを作ってくれない限り証明されない。でもま幸い、誰かが2つめのreplyを作ってくれたとする。すると2つめの証明には3つめのreplyが必要になり、このループはその後も、創作性が途絶えない限り延々と続けられる。つまり創作は、応答の連鎖を引き起こす。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
とま、以上のような事が実際に起こってるかは、こういうやり取りを経験した事がある人になら、たしかにそうだとか似たような何かがあったと納得してくれるかもだけど、納得できない人も多いであろう。
一方、科学での証明は日々実際に、公的な場で生じてる事なので、これは本当の事だと納得してくれる人は、少なくとも芸能での事についてよりかは多いのではなかろうか。
あるいは、数学には「証明問題」というのがある。何々を証明せよ、という文言で出題されるやつ。たしか中学では少しあって、高校になると増えたかも。
「計算問題」の場合は、それを解いたら問題集の、たいていは最後の方とかに載ってる「答え」と照らし合わせて正誤を確認する。答えがないと正解してるかどうか確かめられない。
だけど証明問題は、正しく解けさえすれば、答えを見る必要がない。一応とけたけどちょっと自信ない、というのではなく、パズルのピースが全て正しく合わさった時のように、これなら完璧だと確信できる回答が作れたなら、答えなど見ずとも正解できてるのが分かる。正しく推論できれば証明問題を解ける。と同時に、それが正しいと判断できる能力が自分にはある、という事も証明できてる。
という経験をした事がある人なら、同じような事は芸能の創作でもありうるかもと想像しやすいかも知れない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
でま、replyのループが無数の作品を生み出してる、という話しが本当だとすると、古今東西あまた存する創作物の何割かは、replyなのかもとも思われてくる。逆に考えるなら、replyでない作品などあるのだろうか?もしあるならreplyと、そうでないのとの判別が可能かについて考えるべきだが、それは無益な事のように私には思われる。それにまた、創作とは未だ存在してない何かしらを作る事ではあるけれど、
「全ては二次創作でしかない」
ともよく言われる事で、これは全てがreplyだと言うのと似てる。しかしもしも、二次創作という語を「劣ったもの」という意味合いで用いてるなら、この謂いは半面の真実である。いずれにせよ作品とは、それが創作を目指してるなら、ただ作られただけでは不十分で、創作性の有無が証明されなければならない。創作性があれば、replyであろうと二次であろうと、あるいはまた別の何かであろうと、それは創作的なのだ。
全ての作品は多かれ少なかれreply的である事を示す例としては、次のようなものもある;
・ベートーヴェンはソナタ形式を用いて、創作性の高い作品を書いた。
上記はまた、
・ベートーヴェンはソナタ形式を用いて、自分に創作力があるのを証明した。
とも言い換えられる。
ソナタ形式 -wiki
ところでソナタ形式とは、ベートーヴェンの師のハイドンが完成させたものである。ハイドンはソナタ形式という音楽の「方法」を発明した。それはハイドンに先立つ100年あるいはそれ以上の年月の中で発達した、ヨーロッパ器楽の成果の集大成の一つなのでもある。ところが、そういう経緯で成立したソナタ形式であるため、ハイドンは前の時代の影響に縛られ、この形式(という発明品)の可能性を十分利用できなかった、かも知れない。
ベートーヴェンはハイドンの作品を聴いて、ソナタ形式でならもっと色々な事ができる、と思ったかもしれない。そして彼もソナタ形式を用いて作曲し、その結果、ハイドンよりも多くの音楽的成果を、この発明品から引き出した。つまりベートーヴェンのソナタとは、ソナタ形式には創作性がある事を証明するためのreplyである。と同時に彼は、ソナタ形式の創作性を証明する事で、自らに創作力がある事をも証明し得てる。
ただま、ベートーヴェンがreplyするつもりで作曲してたかどうかは分からない。彼の語録を探れば何かそれっぽい発言を見つけられるかもだけど、創作した人の頭の中身を当人の発言から推し量ろうとしても無益なのは先述した通り。
ただしまた、ベートーヴェンの曲はハイドンの事など知らない人にとっても創作的である(場合がある)のは事実。つまりベートーヴェンの曲は、replyであろうとなかろうと創作的である。
と同時に彼の曲は、ソナタ形式の有意義性を示す事で、ハイドンへのreplyとして機能してる(と見なせる)のも事実。つまりやはり、ベートーヴェンのソナタはreplyである。
そして以上の事はベートーヴェンのソナタについてだけでなく、変奏曲やフーガといった他の楽式で書かれた曲についても言えるし、それはハイドンではない他の作曲家との関係でもあるし、楽式だけでなく管弦楽法とかピアノ奏法とか、その他諸々についても同じ事が言え、そしてそれはまたベートーヴェンと他の作曲家との関係だけでなく、クラシック音楽でだけの話でもなく、全ての音楽家の全作品についても、同じ事が多かれ少なかれ言える。したがって全ての創作的な楽曲は、それぞれが独立的に創作的であると同時に、どれもがreply的なのでもある、という事が言える。
以上は、音楽家が音楽作品に対して音楽でreplyする例だけど、replyは一つのジャンル内だけで行われるのでもない。つまり絵を見てインスパイアされて(感化、啓発、触発されて、刺激を受けて)作曲したとか、あるいはその逆とか、そういう例はごく当たり前にあるものだし、それは当然、絵と音楽だけじゃなく芸能のほぼ全てのジャンル間で生じる事で、それらも全て多かれ少なかれreplyなのだとすれば益々、人が作り出した創作物の多くは、あるいはほぼ全ては、reply的なのだと思われてくる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
とま、この段落で書いてきた事は、推論・創作の前段にある■を一旦無視し、その代わりに「判断力の有無を証明する」という課題を設けたらどうなるか、についてでした。本稿の建前は「推論と創作は似てる」だから、科学の推論で成り立つことが、芸能の創作でも同じく成り立つかは調べてみるべき。ですがその結果わかった事はやはりと言うべきか、科学では、この証明はすっきり明快に行えるのに、芸能ではアヤフヤ。結局ここにも科学と芸能の”真”の違いが表れてしまう。科学は■を明らかにする故、正しさを証明できるけど、芸能は■を放置するので、証明なんて出来ない。
そもそも、芸能の創作性は「replyを作れば証明できる」という前提が誤ってるのだ。でも私はここでちょっとズルをして、誤れる前提を抱えたまま議論をゴリ押ししてみたところ、replyのループが多くの作品を生み出すという仮想的な状況を描き出せて、更にそこからの流れで「二次創作」という語の意味を多少拡張し、肯定的に一般化できる、ような気がしたので、ともかくそこまでを書いてみた。■の中身とか証明が云々よりむしろ、こっちの方が大切な事かもだし。
前提が誤ってる、というか少しおかしい点についてもう一つ言うと、「他者が作った作品の創作性を証明するため、私が何かを作る」というのもおかしな話しかも知れない。人の作品を見て自分も何か作りたいと思うのは普通によくある事だけど、その時の気持ちの中身は、
・自分もあんなようなのを作りたい、とか
・自分ならもう少しここをこう変えあそこをああ変え、とか
・インスパイアされた
等々。他人の創作性を証明するため自分が何か作るなんて、そんなひまじんはいなさそげ。でも、何かを作りたくなるキッカケには、次のようなものもある;
・例えば私が、あるアニメ作品を見てとても良いと思った、とする。そして、こんな素晴らしいものを見せてくれた事への感謝の気持ちを表したくて、何かを作ろうと思う。
という動機で何かを作った事がある人は、わりと多いと思うけど、つまりこれもreplyなのですよと申し上げたい。そして、この動機の中には部分的にせよ、キッカケになった作品の創作性を証明したい気持が混ざってたかもという人も、少しはいるのではないか?いやま私の好きなアニメって、しばしば円盤爆死してたりするので、だからこういう意識が多めになってしまうという個人的な事情があり云々
でもまあ普通は作品を作るよりもまず、レビュー記事とかを書いて推す。そして更に余力のある人は、アニメのマテリアルに即した二次を作る。つまりイラストを描いたりスピン・オフ・ノベルを書いたり、劇中曲をコピーしたり。
でもコピーや変形は、replyとしてはあまり有効ではないと思う人は、replyしようとしてる作品との直接的な関係性を取り除いた作品を作る、という場合もありうる。そしてそれを公表する際にreplyである旨を明示しなければ、受け取る側はreplyだとは思わないわけで、また、以上の過程を無自覚に行ってる人もいるだろう。こういう事も考えるとやはり、世の中に出回ってる作品の多くはreplyかもと思われ云々
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
創作的ではない事の証明
科学では、新しい発見を発表する時は、それが正しい事を示す証明を添えねばならないし、その証明が誤ってないか複数の専門家が検証する。まだ証明できてないのに発表するのは予想。
そして、その発見や予想が実は正しくないなら、正しくないと証明するのも大事。例えばミレニアム問題では、否定的な解決、つまり正しくないと証明できた場合でも賞金がもらえる。
ミレニアム懸賞問題 -wiki
前節で書いたように、科学での、発見や予想の正しさの証明は明快である。正しくない方の証明についても同様。
では芸能ではどうだろうか?つまり例えば私が、ある作品に対してそれを創作的ではないと判断した場合、その判断の正しさを証明するのは可能だろうか。前節ではこれについて考えるため、
・ある作品を「創作的」であると認めた人は、なぜそう判断できたのか?
という問いを立てたが、今回はこれを少し変形し、創作的の反対の非創作的、ではなく、「良くない」という曖昧な言い方にしてみる。つまり、
Q.ある作品を「良くない」と認めた私は、なぜそう判断できたのか?
前節と同じくこの問いには、
A1.みんなが良くないと言ってるからとか、売れてないからとか。
A2.良くないと判断できる能力=判断力を、持ってるから。
の2通りが予想され、やはり前節同様、A2についてのみ考える。ただ、A2の中身の分類法を前節とは違えて、以下のようにしてみる;
まず、どう良くないのかを具体的に言うと、
a.好き嫌いの点から、良くない。つまり私はこの作品が嫌いである。
b.道徳や風紀の点から、良くない。つまりこの作品は、けしからぬ。
c.創作的ではないから、良くない。
そして、その良くなさは、
1.そう判断した私以外の人にとっても良くない。
2.私にとってのみ良くない。
そして、そう判断した私は、その判断の正しさを、
x.証明できない。
y.証明できる。
以上のように分類の次元を3つ設け、これでマトリックスを組むと、
3×2×2=12
だけど、嫌いであるのを証明する必要はないので、a1、a2についてのx,yは存しない。一方、道徳等については証明の必要と可不可が問題になる場合はありうるので、結局10通りの「良くない」がある。その全てについて色々書いてもいいけれど、創作的ではない事の証明に関係あるのは、
c1y→その作品が創作的ではない事を、私以外の人に対しても証明できる。
c2y→その作品が創作的ではない事を、私に対してのみ証明できる。
の2項だけなので、まずこれについてを考える。創作とは何かについては本稿の最初の方で簡略に定義した通り、
「未だ存在してないものを作る事」
だから、ある作品が創作的ではないという事は、それは既に存在してる作品のコピーか盗作かバージョン違いの類である。そう私が判断した場合、私はそれを創作的でないと言う。
盗作ではない作品に対して盗作疑惑がかけられた例は多数あり、つまりこの種の判断は誤ってる場合がある。その点だけを正しく確認できれば、創作的ではないという判断の正しさは、私に対して証明できる。
ではこの事が私以外の人にとっても創作的ではないかというと、これも本稿で既に述べたように、誰かにとっての既知も、それを未だ知らない人にとっては未知であり、それは創作的である。だからc1yの、私以外に対しての証明は、べつにやりたきゃやればいいけどやる意味はない。
コピー行為や盗作行為に違法性があれば指摘しなきゃかもだけど、それはたいていオリジナル作品の権利の所有者が行うべき事である。
なので事実上、私以外の人に対しての証明は不要。そして私自身に対しての証明は上記の通り、明快に行える。もちろんreplyなども不要。明快というより、至極かんたん。既にあるものを既にあると正しく認めるだけなのだ。
盗作やバージョン違いを作る技法が巧みで、それを見破れずに創作性ありと判断してる、という場合はありうるが、それは創作性がある事の証明での問題。
創作性がある事の証明にはreplyが必要で、しかもそれを作っただけではまだ証明にはならず、実際とこ証明なんて不可能。ところが「ない」の方はとても明快に証明できる。ではこれ有意義なのか?否である。創作性のなさなんて、たいした問題ではないのだ。だからかんたんに証明できるし、したところで甲斐もなし。創作で重要なのは、創作的でありうる場合だけ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なのに私は、この問題を考えるための分類項を前節より増やした。それはなぜか?もう一度示すと、
a.好き嫌いの点から、良くない。
b.道徳や風紀の点から、良くない。
c.創作的ではないから、良くない。
1.そう判断した私以外の人にとっても良くない。
2.私にとってのみ良くない。
x.証明できない。
y.証明できる。
前節には無かった要素は、好き嫌いと、道徳等と、私にとってのみかどうか。なぜ前節でこれらを問わなかったかというと、まず好き嫌いについては、それを証明する必要などない。
道徳等と、それが私だけの問題かは「正しさ」に関係する事だからもっと後で述べたいのだけど、「個人的」な好き嫌いを分類項に入れるなら「公的」な道徳も加えた方が良い。なぜならこの2つに創作性の有無を加えれば、芸能の価値判断に関わるキーワードの全てを包括できる(と思う)ので、つまり良し悪しを分けるのは好き嫌いや道徳の他にも無数にあるけど、全ては私的・公的・創作的のどれかと関連させられる故、この場合は個人的と公的をセットで用いた方が良い。
ともかく、創作性ありの証明に好き嫌いは無関係。ない方の証明にも関係ない。しかし好き嫌いは創作性「あり」の方と関係があって、この説明は創作性がない方の話しに混ぜた方が通りがいいかなと思うのでそうしてる次第。要点だけを述べると;
創作性の有無は、私的な好き嫌いとは関係ない。つまり、嫌いな作品に対してreplyする事もある。
あるいは逆に、例えば私が真に創作的な作品を作れたなら、その創作性は、私を嫌う人にも働きかける。
つまり創作性は、個人的な好き嫌いには囚われず作用しうる。
そしてまた好き嫌いとは基本的に、個人、personの価値判断の問題である。
道徳等は、基本的には公的なもので、それはたいてい比較的同質な個人の集合体、つまり国、nationが規定する価値判断の問題である。
では創作性はどうか?何百年も前の、私とは無縁な国の人が作った作品でも、私にとっては創作的である、という場合は多々ある。つまり創作性はpersonとnation(民族性)を超える、普遍的な作用である。
自分が好きな作品に対してreplyを作るのは普通によく行われると思うけど、好きだと示すだけなら創作性は不要。その場合は創作性のない二次にしかならないかもだけど、好きな仲間を増やす効果はあるかも。
上記分類項のa1、つまり私が嫌いなものはみんなも嫌いなはず、あるいは、嫌うべき、の場合にreplyを作るのは、ディス目的の劣化二次とかを除けば、まずない。自然言語で嫌いな旨を宣言し宣伝する。
好き嫌いを表明すれば、価値観を同じくする事によって、あるいはいわゆる共感によって、仲間を増やせる。それによって芸能の消費量は拡大されるだろうから、これは重要。
嫌いである事の表明も、共通の敵を作る効果が期待できるので、仲間集めに有効。同じものを好む集団の結束は、同じものを嫌う事で更に強化される。
創作する立場からすると、嫌いな作品は無視すればいい。わざわざ気にかけてイヤな思いをする必要はない。なのになぜか無視できない嫌いな作品というのはあるもので、その場合は、なぜ嫌いなのかを考えてみるのは面白い。好悪の感情が自分の創作のキッカケになる場合は、好きも嫌いも一緒である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なお、創作的ではない証明は、それが既にある事を示すだけでおk。なら創作的である証明は、それが未だ存在してない事を示すので良さそうだけど、一般的に「ない」の証明は困難で、ある作品が別の作品の盗作やバージョン違いでは「ない」事を証明するのは事実上不可能だから、この方法は使えない。結局、創作性の証明とは、あるなしの問題ではないのだ。
あるいは、創作の定義の「未だ存在してないものを作る事」が、芸能に対しては厳しすぎるのかも知れない。誰かにとっての既知も、それを未だ知らない人にとっては未知である事のみが、芸能の創作性を支えてる。あるいはむしろ、芸能でも創作が可能であるという錯覚を生じさせてるに過ぎないのかも知れない。
初心者の頃は、未だ知らない事が多い。年齢的には、若年層である場合が多い。その時期の人の芸能への接し方は、見るもの聞くもの全てが興味深く、面白く、知らない事はまだまだ沢山あるからどんどん知りたく、だからたとえその芸能がクラシック音楽のような、既に数十年以上も目ぼしい新作を生み出せてないようなジャンルであっても、若いクラシック・ファンにとってのクラシック音楽は創作的なのだ。
だけど一定期間を過ぎると、未だ知らない事は少なくなる。また、たいていの人は経験を一般化できるので、あれとこれは似てる、というような事も知り始める。これはクラシック音楽だけでなく、新作がどんどん生み出されるポップスでも同じ。芸能はシジフォスの神話にも似て、同じことを繰り返してるだけである。あるいはどれも似たようなものである。という事を知ってしまう。
以上の経緯は音楽だけでなく、映画でもマンガでも、ともかく「作品」を介する形式の芸能の全てについて同様である。
しかしそれでも、もう若くなくなっても、若い頃に親しんだ芸能を好み続ける人は多い。そのような人の創作性への対し方は大まかに分けて、
・もともと創作性など求めてなかった。
・創作的である事は諦めたが、若い頃の好印象は維持されてる。
・まだ、創作は可能だと思ってる。
・その他
等々かと思う。でま、replyするのなんのってのはたぶん、創作が可能だと思ってる人にとってのみの問題なのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日はここまで。続きはまた明日以降。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:作詞・作曲
- ジャンル:音楽
- カテゴリ:雑文(よろずネタ)
- CM:0
- TB:0