推論と創作、その2.2 音声ではない言語
- 2018/04/01
- 03:41
この記事は推論と創作、その2 推論と言語の続きです。
「その4」がまだ書きかけなのだけど、いろいろ書き進めてるうちに、この2.2で扱う内容の事を先に説明した方が良いように思われてきて、全体の中のどこに置くかとしたら多分「2」の次なので、だからこの記事は今のところ2.2です。
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
音声ではない言語
絵や音楽の専門家には彼ら独自の思考法や世界観があって、それを絵画という言語、音楽という言語で表す、みたいな事は、大昔からわりとよく言われてきた。また数学でも、数学者達には彼ら独自の世界観があり、数学の言葉で世界を語る、というような事も。
つまり、口で話し文字で書くのが普通の言語、いわゆる自然言語だけど、それとは異なる言語的な何かがあると考える人は昔から少しはいた。でま私も、そういうのはあると考える。というか、絵のため等々の言語のようなものは、ようなものではなく、自然言語と同じだと考える。しかしそれは正しいだろうか?
絵のため等の言語は、自然言語と全く同じではないには違いない。しかしそれでも「同じ」だと主張するなら、どういう点でどのように同じなのかを示さねば。本節ではそれを試みる。要件は;
・機能;絵のため等の言語には、自然言語と同じ機能がある。
・使われ方;絵のため等の言語は、自然言語と同じ使われ方をしてる。
の2点を示せばよいと思うが、逆に、
・自然言語の機能は、不完全である。
・また、誰もが上手く使えてるのでもない。
という事を示すのも有効であろう。つまり、自然言語だけでは言い表せない事があり、自然言語よりも絵で語る方が言いたい事を上手く言い表せる、という人もいる。だから絵のため等の言語は必要なのだ。
前節では、推論と創作には言語が必要である事を示した。
ところで、自然言語の使い方は学び、真似る事ができる。絵のため等の言語も、それが言語であるなら、自然言語と同様に学び真似れなくてはならないけど、これは様々な実例から可能だと言える。
自然言語とは、たいていは母語の事である。だから絵のため等の言語は、外国語みたいなものである。誰もが外国語で語れるようにはならないが、極めて少数しかいない、という事はない。絵のため等の言語は外国語を学ぶように学べるものである。逆に、絵のため等の方が私の母語だ、という人がいてもおかしくないし、実際そうなのかなと思われるような人はいるものである。
ともかく、どのような言語であっても学び真似るのは可能。そして、推論・創作する際は言語が用いられてる。ならば、その際の言語の用い方を学べば、推論と創作の方法も学べるのではなかろうか?
ところが実際には、推論と創作の方法は学べないし、教えられもしない。少なくとも私はそれに成功したという実例を知らない。
私が知らないだけだから、知ってる人はいるかも知れない。でもそのような人が本稿を読む可能性は低いだろうから、本稿の読者のほとんどは私と同様、推論と創作を教えるのに成功した実例を知らないと判断して誤りはないだろう。
推論と創作に言語は必要だが、言語の用い方次第でどうかなるのではない、のだとすると、推論・創作にとって言語は、必要なものだけど、それがあれば出来るのではない。つまりいわゆる必要条件であって十分条件ではない、という事になるかも知れない。
では、推論と創作は思考によってなされるのだ、と考えてみる。これはまあ当然のことのように思われるかもだけど、「思考」とは何かが不明だと意味を成さない。
ならば、言語と思考との関係について考えてみよう。思考は言語が生み出してるのか?それとも言語が思考を生み出してるのか?言語が先か、思考が先か。仮に;
・言語が思考を生じさせる。そして、推論・創作は思考によってなされる。
のだとしたら、言語によって生じる思考によって推論・創作がなされてるという事になり、ならば、言語の用い方を学べば推論・創作の方法も学べる可能性がある。しかしこれは、推論・創作の方法は学べない・教えられないという現実とは食い違う。
そもそも、思考より先に言語があるなら、言語は思考されずに学ばれたのだという事になる(でも、最も初歩的な言語なら、それを学ぶ、あるいは真似るのに思考は不要かも知れない)。ともかくもう一方の仮定も検討;
・思考が言語を生み出す。そしてやはり、推論・創作は思考によってなされる。
のだとしたら、思考の方法を学べば推論・創作ができるようなるかもだけど、しかし推論・創作は学べないのだから、推論・創作のための「思考の方法」は学べない、となる。それは何故だろうか?今のところ思い付ける仮説は;
・学び真似れるものとは、感覚器官で捉えられるものである。そうでないものは学べないし、真似れもしない。だから思考とは、感覚器官では捉えられない、姿かたちのないものなのだろう。自分の中で思考が作用してるのは分かるが、それが何かは分からない。つまり、なぜ考えられるのかが分からない。思考とはそういうものである。
ともかく、言語とは何かを、推論・創作に関わるものとして説明するには、思考との関係も明らかにせねばで、これも本節の課題である。
でもま、思考とは何かについては古来いろいろ研究されてきて、だけど未だによく分からない事なのだから、私にだって当然わからない。ただし推論・創作と言語との関係に限って「何がどう分からないのか」くらいまでは明らかにしたい。
以上が本節の課題である。最終的には;
・人間は、自然言語以外にも様々な言語を用いる。
・しかしそれでも、この世の全ては言い表せてない。
・推論・創作とは、何が言えてないかを知り、それを明言する事である。
という具合の事を読者の皆様にも納得して頂くのが目標である。上記をもう少し具体的に例えば、音楽という言語と創作との関係を簡略にスケッチしてみると;
音楽がしたくて楽器を練習したり作曲してる人の内、音楽という言語を学ぼうとするのはごく一部である。
楽器の弾き方を覚えたり、コピー演奏したり、楽譜を読み書きしたり、理論を勉強したりするのは、自然言語の範囲内で出来るけど、それらだけでは音楽で何かを語れるようにはならない。
と気付ける少数の人は、音楽という言語を学び始める。というよりまずは真似てみる。
先に述べたように、音楽という言語を学ぶのは可能だし、口まねが出来るくらいのレベルになら、わりと誰でも到達できる。
でもそれは口まねでしかない。
だけど、自分は口まねしてるにすぎない、と気付けるのは、ともかく何かを言ってみた人のみである。
でま、口まね出来るようになった人の内の、また更に一部が、音楽の世界の中に未だ言われてない事があるのを知り、あるいは見出し、それを明言しようと決意し、それのためにいろいろ工夫した中の、更にまたごく一部の人が、明言するのに成功する。
これが音楽での創作である。
なお、音楽に未だ言われてない事があるのを知って、それを言おうと決意するのは「動機」の問題かもで、つまりこれは心か感情に関する事柄だから本稿は扱わない建前だけど、未だ言われてないものを知ってしまった、あるいは見出してしまった人は、動機があろうとなかろうと、それを言おうとするものである。言わないではいられない。つまり創作とは、したくてする事とはちょっと違う。言うべき事があるのを知ってしまった自分の経験から逃れられず、それを裏切れず、したくなくてもする事である。
本稿の最初の方で、「表現」は創作ではないと書いたけど、この事も言語を絡めれば念押し的に更に分かりやすく説明できるかも知れない。ここでも音楽を例にすれば;
音楽で表現を行うには、音楽という言語で語る必要はない。自然言語で出来る。
その場合の音楽とは言語ではなく、自然言語を盛るための器(もるためのうつわ)として利用される。
外国語を学んで原書を読むより、翻訳された母語版を読むのを好む人の方が多い。それと同様に、音楽という言語を学ぶより、自然言語で解釈され、自然言語での表現に置き換えられた音楽(という器)を好む人の方が多い。
外国語から母語へ、つまり自然言語同士なら、まだそれなりに意味の通じる翻訳になるかもだけど、自然言語と音楽という言語とでは、何ら有意義な翻訳は行えない。そもそも翻訳不可能だからこそ、音楽という言語がある。
その代わり、自然言語で解釈し直された音楽は、わりと誰でも楽しめる娯楽となる。この事はいろいろな意味で重要。とくに歌詞のない器楽の場合、自然言語に翻訳された方のを好む人がいなければ、趣味人口は極めて少なくなってしまう。だけど、
・音楽は多くの人にとって良いものである
という事と、
・翻訳された音楽は誰にとっても分かりやすい娯楽である
という事は、けして同じではない。
とまこう書いてみると、これでもまだ表現は創作ではないと納得できない人はいそうに思われる。一番わかりにくいのは音楽にも自然言語に相当するものがあり、音楽という言語とは、それとは違うものだ、という点だろうか。
ところでここまで、絵画という言語、音楽という言語、数学の言葉、絵のため等の言語などなど、何通りかの呼び名を用いたけど、いちいち文字数が多くて煩わしいから、ひとまとめで呼ぶための用語を定めたい。取りあえず思い付けるのは、数学等は学問、絵や音楽は芸能。二つ合わせて略記すれば「学芸」。だから、
・学芸という言語
あるいは
・学芸のための言語
が良いかもだけど、これはダメなのである。
辞書的な意味での「学芸」とは学問と芸能、ではなく「芸術」を合わせた略語。しかし本稿では芸術って、NGワード。そういう私的ルールがある。まあ絶対に使っちゃいけないのではなく、どうしても他の語に置き換えられない場合には使うだろうけど、でも、避けられるなら使わない。何故か?
専門用語や学術用語ではない、わりと日常的に用いてるのに意味がよく分からない単語、というのはあるものだけど、その「分からなさ」には、その語の意味を問い詰めると、
1.より単純で基本的な語で言い換えられる
2.複数の意味に分かれてしまう
の2種類がある。基本的な語で言い換えられるなら、基本的な方を用いればいい。わざわざ分かりにくい語を使う必要はない。
複数の意味に分かれてしまう語は、一つの語が複数の意味を含み持ってるという事だから、語る側と受け取る側とで意味が食い違う可能性があり、不正確で曖昧な事しか言えない。
また、他者とのやり取りではなく自分一人で考え事をする場合でも、このタイプの語を用いると、たいていは誤った、あるいは無意味な結論しか導き出せない。
こういう語を用いて語ったり、考え事をしてはいけない。
それで「芸術」は、誰もが日常的に口にする語ではない、という点では専門用語のようだけど、その意味内容がきちんと定まってはいない、という点では専門用語でも学術用語でもない。だからこれは、たまにしか用いられない非専門家のための語。なのに複数の意味合いを含み持ってるため分かりづらくなってるタイプの方の語だから、私はこれを用いない。
なぜ「芸術」がそういう語になってしまったかについての説明は略。wikiを参照してください。
芸術 -wiki
ちゃんと説明するには多くの文字数が必要だから略すのだけど、それくらい「芸術」という語は、歴史的ないろいろの影響を受けすぎ、元々は無かった多くの意味合いを纏い付けられてしまった、とてもいかがわしい語なのだ。
複数の意味を含み持っていても、文脈が一つに固定してくれる、という語はある。そういうのもなるたけなら使わない方が良いけど、実はとても多いので、使わざるを得ない場合は多い。例えば「正しさ」とか。
正しさとは何かを問い詰めると、実はこの語には多くの意味合いが含まれてるのが分かる。あるいはむしろ、正しさとは何かが分からなくなる。
私は今、前節の最後に掲げた「言葉の正しい用い方」について考えるという課題を受けてこの文章を書いてるのだけど、そして例えば「芸術」のような語は使ってはいけない、というのは言葉を正しく用いるルールの一つなのだけど、しかしそもそも「正しさ」が、使ってはいけない語の仲間かも知れないという。だから言葉を用いて思考するのはいろいろ面倒で、だからこそ自然言語ではない言語も必要なわけです。
でも以上の事は、思考し、推論・創作する際に限る問題で、それ以外でなら好きな語を好きなように使ってかまわない、のだろうか?
私は絵とか音楽とかをひとまとめに「芸能」と呼ぶ。芸術とは呼ばない。芸”能”の方が雑多なものを含んでるから曖昧になりそうなのに、むしろ余分な意味が加わってないから、単純で、誤りなく用いれる、と思うから芸”能”を用いる。つまり私にとっての芸”術”とは、
・余分な意味が加わった芸能
である。その余分な要素は複数ありそうだけど、例えば「精神」というのは、その中の一つかと思う。つまり芸術とは、
・精神という属性が加えられた芸能
である。では「精神」とは何か?この語の意味が明確なら、「芸術」は、文脈が意味を固定してくれるタイプの語として用いれるかも知れない。
でも「精神」も、曖昧な語なのだ。少なくとも「芸術」を専門・学術用語としてではなく日常語として曖昧に用いる人は、「精神」も、やはり曖昧な意味合いでしか用いない。
そのような人にとっての「精神」とは、たぶん心・気持ち・感情等の仲間の語なのだろうけど、心その他ではなくあえて精神と呼ぶからには、それ相応の理由があるに違いない。つまり心その他と精神は、別のものである。ではどう違うのだろう?まあそれが分からないから曖昧なのだ。
でま「芸術」は、複数の意味があるうえに、それはまた曖昧な「精神」という語で拡張された曖昧さ。これはちょっとひどすぎる。こんな語は思考のためであろうとなかろうと使わないのが吉と思うけど、こういうのは人それぞれで、一概に良くないとは言い切れない事情もあって云々。でも今は、
・学芸という言語
・学芸のための言語
の両方がダメだという話しに戻るべき。でまどのみち、この後すぐ説明するように本稿では「学芸」も用いない。以上書いた事は、ずっと後の方で書くはずの「正しさ」についての、簡略なプレビューみたいなものでした。
でま本稿では芸術も学芸も用いないのだけど、では別のワードなら、という事ではなく、
・という
・のための
がダメなのである。この事を説明するためにまず、言語と自然言語の辞書的な意味を確認;
言語 -wiki
本稿にとって重要な点を要約すると、
・(音声や文字によって)「情報を表現したり伝達する記号の体系」
となる。
次は自然言語;
自然言語 -wiki
こちらも要点を抜き出すと、
・日常の意思疎通のために用いられる、文化的背景を持って自然に発展してきた言語
となる。
なお、日本語には「言語」とよく似た「言葉」という語もあって、
ことば -wiki
「言葉」は、語源的には言語よりも「語」に近い、あるいは「発話された語」という意味合いの語だったかもだけど、現在の日本語では「言語」と概ね同じ意味になってるようなので、本稿ではこの2語を区別なく用います。文章の流れとか組み合わせる語との語呂の良し悪しで、どちらか好きな方を用いる方式。
さて以上の2つを合体させると、自然言語とは、
・主に日常生活のための情報を、文字や音声で伝達するための、記号の体系
となる。そこでこれを、
「日常のための言語」
と略記してみる。そしてこの省略法を、例えば「音楽のための言語」に逆方向に適用してみる。つまり「音楽のための言語」の中身を多少丁寧に書き出してみると、
・音楽のための情報を、何らかの方法で伝達するための、記号の体系
となる。ではそれはどうのようなものか?
「何らかの方法」は、たぶん何でもいい。多くの人にとっての分かりやすさを重視するなら自然言語がいい。紙に書かれた記号、つまり楽譜とかコード記号とかでもいい。それらは皆さんよくご存じの、音楽の専門用語の事である。でも私は、
・自然言語では表せない何かしらがあるから、自然言語以外の手段を用いる言語が必要だ
という問題を提起し、それは絵とか音楽とか数学だから、それらをまとめて何と呼ぼうかと考えてる。そこで「〇〇のための言語」と呼んでみたら、〇〇の中身が何であろうと、伝達の手段は自然言語でかまわないという事になってしまう。だから「のため」じゃダメなのだ。
もう一つの「○○という言語」の方はどうかというと、以上に示した展開をもう一度くり返すのは面倒なので略。どうせ「という」も使わない。それよりもっと良い方法がある。伝達の方法が自然言語以外ならいいのだから、先の、
・主に日常生活のための情報を、文字や音声で伝達するための、記号の体系
を、以下のように変形してみる;
・(何のためかは不明だけど、ともかく何らかの)情報を、音声以外の方法で伝達するための、記号の体系
だけどこれを「のため」式に略記すると「?のための言語」となってしまうから良くない。なので言い回しを変える。情報を伝達する目的は省略し、代わりに方法の方に着目し、
・音声ではない言語
とする。これはこれで、何のためのどういう言語なのかを示せてないが、
・音声ではない、という事
・言語であるなら、何らかの情報を伝えられるのであろう事
は示せてるから、これでいいかなと思う。音声でないなら何でもいい。例えば絵であり音楽であり数学である、あるいはその他の諸々。何を伝えるかは、その手段ごとの得手不得手があるのでしょう。
という事で以後、本稿では「音声ではない言語」という語を使うだろうけど、たぶんこれは例えば、
・音楽という、音声ではない言語
・数学という、音声ではない言語
みたいな表記になるかも知れない。で、この文字数が多くて面倒だと思ったら、やはり「音楽という言語」等々としてしまうかもで、だったらここまでいろいろ書いてきたのは何だったんだという話しだけど、以上を読み終えた読者なら、本稿での「音楽という言語」という表記を見れば、それは「音声ではない」が略されてるんだなとご理解いただけるに違いなく、でもなるたけなら「音声ではない」も添えた方が良いには違いない。
もう一方の「のための」は、これはもう使わない、と宣言できたら良いのだけど、日本語としての語呂の良し悪しで、うっかり使ってしまうかも知れない。考えが整理されてないまま作文すると、言葉の扱いが雑になる。思考の未熟さは、そのまま文章に現れる。これは気を付けなくてはいけない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日はここまで。続きはまた明日以降。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
今日はここまで。続きはまた明日以降。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
「その4」がまだ書きかけなのだけど、いろいろ書き進めてるうちに、この2.2で扱う内容の事を先に説明した方が良いように思われてきて、全体の中のどこに置くかとしたら多分「2」の次なので、だからこの記事は今のところ2.2です。
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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音声ではない言語
絵や音楽の専門家には彼ら独自の思考法や世界観があって、それを絵画という言語、音楽という言語で表す、みたいな事は、大昔からわりとよく言われてきた。また数学でも、数学者達には彼ら独自の世界観があり、数学の言葉で世界を語る、というような事も。
つまり、口で話し文字で書くのが普通の言語、いわゆる自然言語だけど、それとは異なる言語的な何かがあると考える人は昔から少しはいた。でま私も、そういうのはあると考える。というか、絵のため等々の言語のようなものは、ようなものではなく、自然言語と同じだと考える。しかしそれは正しいだろうか?
絵のため等の言語は、自然言語と全く同じではないには違いない。しかしそれでも「同じ」だと主張するなら、どういう点でどのように同じなのかを示さねば。本節ではそれを試みる。要件は;
・機能;絵のため等の言語には、自然言語と同じ機能がある。
・使われ方;絵のため等の言語は、自然言語と同じ使われ方をしてる。
の2点を示せばよいと思うが、逆に、
・自然言語の機能は、不完全である。
・また、誰もが上手く使えてるのでもない。
という事を示すのも有効であろう。つまり、自然言語だけでは言い表せない事があり、自然言語よりも絵で語る方が言いたい事を上手く言い表せる、という人もいる。だから絵のため等の言語は必要なのだ。
***
前節では、推論と創作には言語が必要である事を示した。
ところで、自然言語の使い方は学び、真似る事ができる。絵のため等の言語も、それが言語であるなら、自然言語と同様に学び真似れなくてはならないけど、これは様々な実例から可能だと言える。
自然言語とは、たいていは母語の事である。だから絵のため等の言語は、外国語みたいなものである。誰もが外国語で語れるようにはならないが、極めて少数しかいない、という事はない。絵のため等の言語は外国語を学ぶように学べるものである。逆に、絵のため等の方が私の母語だ、という人がいてもおかしくないし、実際そうなのかなと思われるような人はいるものである。
ともかく、どのような言語であっても学び真似るのは可能。そして、推論・創作する際は言語が用いられてる。ならば、その際の言語の用い方を学べば、推論と創作の方法も学べるのではなかろうか?
ところが実際には、推論と創作の方法は学べないし、教えられもしない。少なくとも私はそれに成功したという実例を知らない。
私が知らないだけだから、知ってる人はいるかも知れない。でもそのような人が本稿を読む可能性は低いだろうから、本稿の読者のほとんどは私と同様、推論と創作を教えるのに成功した実例を知らないと判断して誤りはないだろう。
推論と創作に言語は必要だが、言語の用い方次第でどうかなるのではない、のだとすると、推論・創作にとって言語は、必要なものだけど、それがあれば出来るのではない。つまりいわゆる必要条件であって十分条件ではない、という事になるかも知れない。
では、推論と創作は思考によってなされるのだ、と考えてみる。これはまあ当然のことのように思われるかもだけど、「思考」とは何かが不明だと意味を成さない。
ならば、言語と思考との関係について考えてみよう。思考は言語が生み出してるのか?それとも言語が思考を生み出してるのか?言語が先か、思考が先か。仮に;
・言語が思考を生じさせる。そして、推論・創作は思考によってなされる。
のだとしたら、言語によって生じる思考によって推論・創作がなされてるという事になり、ならば、言語の用い方を学べば推論・創作の方法も学べる可能性がある。しかしこれは、推論・創作の方法は学べない・教えられないという現実とは食い違う。
そもそも、思考より先に言語があるなら、言語は思考されずに学ばれたのだという事になる(でも、最も初歩的な言語なら、それを学ぶ、あるいは真似るのに思考は不要かも知れない)。ともかくもう一方の仮定も検討;
・思考が言語を生み出す。そしてやはり、推論・創作は思考によってなされる。
のだとしたら、思考の方法を学べば推論・創作ができるようなるかもだけど、しかし推論・創作は学べないのだから、推論・創作のための「思考の方法」は学べない、となる。それは何故だろうか?今のところ思い付ける仮説は;
・学び真似れるものとは、感覚器官で捉えられるものである。そうでないものは学べないし、真似れもしない。だから思考とは、感覚器官では捉えられない、姿かたちのないものなのだろう。自分の中で思考が作用してるのは分かるが、それが何かは分からない。つまり、なぜ考えられるのかが分からない。思考とはそういうものである。
ともかく、言語とは何かを、推論・創作に関わるものとして説明するには、思考との関係も明らかにせねばで、これも本節の課題である。
でもま、思考とは何かについては古来いろいろ研究されてきて、だけど未だによく分からない事なのだから、私にだって当然わからない。ただし推論・創作と言語との関係に限って「何がどう分からないのか」くらいまでは明らかにしたい。
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以上が本節の課題である。最終的には;
・人間は、自然言語以外にも様々な言語を用いる。
・しかしそれでも、この世の全ては言い表せてない。
・推論・創作とは、何が言えてないかを知り、それを明言する事である。
という具合の事を読者の皆様にも納得して頂くのが目標である。上記をもう少し具体的に例えば、音楽という言語と創作との関係を簡略にスケッチしてみると;
音楽がしたくて楽器を練習したり作曲してる人の内、音楽という言語を学ぼうとするのはごく一部である。
楽器の弾き方を覚えたり、コピー演奏したり、楽譜を読み書きしたり、理論を勉強したりするのは、自然言語の範囲内で出来るけど、それらだけでは音楽で何かを語れるようにはならない。
と気付ける少数の人は、音楽という言語を学び始める。というよりまずは真似てみる。
先に述べたように、音楽という言語を学ぶのは可能だし、口まねが出来るくらいのレベルになら、わりと誰でも到達できる。
でもそれは口まねでしかない。
だけど、自分は口まねしてるにすぎない、と気付けるのは、ともかく何かを言ってみた人のみである。
でま、口まね出来るようになった人の内の、また更に一部が、音楽の世界の中に未だ言われてない事があるのを知り、あるいは見出し、それを明言しようと決意し、それのためにいろいろ工夫した中の、更にまたごく一部の人が、明言するのに成功する。
これが音楽での創作である。
なお、音楽に未だ言われてない事があるのを知って、それを言おうと決意するのは「動機」の問題かもで、つまりこれは心か感情に関する事柄だから本稿は扱わない建前だけど、未だ言われてないものを知ってしまった、あるいは見出してしまった人は、動機があろうとなかろうと、それを言おうとするものである。言わないではいられない。つまり創作とは、したくてする事とはちょっと違う。言うべき事があるのを知ってしまった自分の経験から逃れられず、それを裏切れず、したくなくてもする事である。
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本稿の最初の方で、「表現」は創作ではないと書いたけど、この事も言語を絡めれば念押し的に更に分かりやすく説明できるかも知れない。ここでも音楽を例にすれば;
音楽で表現を行うには、音楽という言語で語る必要はない。自然言語で出来る。
その場合の音楽とは言語ではなく、自然言語を盛るための器(もるためのうつわ)として利用される。
外国語を学んで原書を読むより、翻訳された母語版を読むのを好む人の方が多い。それと同様に、音楽という言語を学ぶより、自然言語で解釈され、自然言語での表現に置き換えられた音楽(という器)を好む人の方が多い。
外国語から母語へ、つまり自然言語同士なら、まだそれなりに意味の通じる翻訳になるかもだけど、自然言語と音楽という言語とでは、何ら有意義な翻訳は行えない。そもそも翻訳不可能だからこそ、音楽という言語がある。
その代わり、自然言語で解釈し直された音楽は、わりと誰でも楽しめる娯楽となる。この事はいろいろな意味で重要。とくに歌詞のない器楽の場合、自然言語に翻訳された方のを好む人がいなければ、趣味人口は極めて少なくなってしまう。だけど、
・音楽は多くの人にとって良いものである
という事と、
・翻訳された音楽は誰にとっても分かりやすい娯楽である
という事は、けして同じではない。
とまこう書いてみると、これでもまだ表現は創作ではないと納得できない人はいそうに思われる。一番わかりにくいのは音楽にも自然言語に相当するものがあり、音楽という言語とは、それとは違うものだ、という点だろうか。
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ところでここまで、絵画という言語、音楽という言語、数学の言葉、絵のため等の言語などなど、何通りかの呼び名を用いたけど、いちいち文字数が多くて煩わしいから、ひとまとめで呼ぶための用語を定めたい。取りあえず思い付けるのは、数学等は学問、絵や音楽は芸能。二つ合わせて略記すれば「学芸」。だから、
・学芸という言語
あるいは
・学芸のための言語
が良いかもだけど、これはダメなのである。
辞書的な意味での「学芸」とは学問と芸能、ではなく「芸術」を合わせた略語。しかし本稿では芸術って、NGワード。そういう私的ルールがある。まあ絶対に使っちゃいけないのではなく、どうしても他の語に置き換えられない場合には使うだろうけど、でも、避けられるなら使わない。何故か?
専門用語や学術用語ではない、わりと日常的に用いてるのに意味がよく分からない単語、というのはあるものだけど、その「分からなさ」には、その語の意味を問い詰めると、
1.より単純で基本的な語で言い換えられる
2.複数の意味に分かれてしまう
の2種類がある。基本的な語で言い換えられるなら、基本的な方を用いればいい。わざわざ分かりにくい語を使う必要はない。
複数の意味に分かれてしまう語は、一つの語が複数の意味を含み持ってるという事だから、語る側と受け取る側とで意味が食い違う可能性があり、不正確で曖昧な事しか言えない。
また、他者とのやり取りではなく自分一人で考え事をする場合でも、このタイプの語を用いると、たいていは誤った、あるいは無意味な結論しか導き出せない。
こういう語を用いて語ったり、考え事をしてはいけない。
それで「芸術」は、誰もが日常的に口にする語ではない、という点では専門用語のようだけど、その意味内容がきちんと定まってはいない、という点では専門用語でも学術用語でもない。だからこれは、たまにしか用いられない非専門家のための語。なのに複数の意味合いを含み持ってるため分かりづらくなってるタイプの方の語だから、私はこれを用いない。
なぜ「芸術」がそういう語になってしまったかについての説明は略。wikiを参照してください。
芸術 -wiki
ちゃんと説明するには多くの文字数が必要だから略すのだけど、それくらい「芸術」という語は、歴史的ないろいろの影響を受けすぎ、元々は無かった多くの意味合いを纏い付けられてしまった、とてもいかがわしい語なのだ。
複数の意味を含み持っていても、文脈が一つに固定してくれる、という語はある。そういうのもなるたけなら使わない方が良いけど、実はとても多いので、使わざるを得ない場合は多い。例えば「正しさ」とか。
正しさとは何かを問い詰めると、実はこの語には多くの意味合いが含まれてるのが分かる。あるいはむしろ、正しさとは何かが分からなくなる。
私は今、前節の最後に掲げた「言葉の正しい用い方」について考えるという課題を受けてこの文章を書いてるのだけど、そして例えば「芸術」のような語は使ってはいけない、というのは言葉を正しく用いるルールの一つなのだけど、しかしそもそも「正しさ」が、使ってはいけない語の仲間かも知れないという。だから言葉を用いて思考するのはいろいろ面倒で、だからこそ自然言語ではない言語も必要なわけです。
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でも以上の事は、思考し、推論・創作する際に限る問題で、それ以外でなら好きな語を好きなように使ってかまわない、のだろうか?
私は絵とか音楽とかをひとまとめに「芸能」と呼ぶ。芸術とは呼ばない。芸”能”の方が雑多なものを含んでるから曖昧になりそうなのに、むしろ余分な意味が加わってないから、単純で、誤りなく用いれる、と思うから芸”能”を用いる。つまり私にとっての芸”術”とは、
・余分な意味が加わった芸能
である。その余分な要素は複数ありそうだけど、例えば「精神」というのは、その中の一つかと思う。つまり芸術とは、
・精神という属性が加えられた芸能
である。では「精神」とは何か?この語の意味が明確なら、「芸術」は、文脈が意味を固定してくれるタイプの語として用いれるかも知れない。
でも「精神」も、曖昧な語なのだ。少なくとも「芸術」を専門・学術用語としてではなく日常語として曖昧に用いる人は、「精神」も、やはり曖昧な意味合いでしか用いない。
そのような人にとっての「精神」とは、たぶん心・気持ち・感情等の仲間の語なのだろうけど、心その他ではなくあえて精神と呼ぶからには、それ相応の理由があるに違いない。つまり心その他と精神は、別のものである。ではどう違うのだろう?まあそれが分からないから曖昧なのだ。
でま「芸術」は、複数の意味があるうえに、それはまた曖昧な「精神」という語で拡張された曖昧さ。これはちょっとひどすぎる。こんな語は思考のためであろうとなかろうと使わないのが吉と思うけど、こういうのは人それぞれで、一概に良くないとは言い切れない事情もあって云々。でも今は、
・学芸という言語
・学芸のための言語
の両方がダメだという話しに戻るべき。でまどのみち、この後すぐ説明するように本稿では「学芸」も用いない。以上書いた事は、ずっと後の方で書くはずの「正しさ」についての、簡略なプレビューみたいなものでした。
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でま本稿では芸術も学芸も用いないのだけど、では別のワードなら、という事ではなく、
・という
・のための
がダメなのである。この事を説明するためにまず、言語と自然言語の辞書的な意味を確認;
言語 -wiki
本稿にとって重要な点を要約すると、
・(音声や文字によって)「情報を表現したり伝達する記号の体系」
となる。
次は自然言語;
自然言語 -wiki
こちらも要点を抜き出すと、
・日常の意思疎通のために用いられる、文化的背景を持って自然に発展してきた言語
となる。
なお、日本語には「言語」とよく似た「言葉」という語もあって、
ことば -wiki
「言葉」は、語源的には言語よりも「語」に近い、あるいは「発話された語」という意味合いの語だったかもだけど、現在の日本語では「言語」と概ね同じ意味になってるようなので、本稿ではこの2語を区別なく用います。文章の流れとか組み合わせる語との語呂の良し悪しで、どちらか好きな方を用いる方式。
さて以上の2つを合体させると、自然言語とは、
・主に日常生活のための情報を、文字や音声で伝達するための、記号の体系
となる。そこでこれを、
「日常のための言語」
と略記してみる。そしてこの省略法を、例えば「音楽のための言語」に逆方向に適用してみる。つまり「音楽のための言語」の中身を多少丁寧に書き出してみると、
・音楽のための情報を、何らかの方法で伝達するための、記号の体系
となる。ではそれはどうのようなものか?
「何らかの方法」は、たぶん何でもいい。多くの人にとっての分かりやすさを重視するなら自然言語がいい。紙に書かれた記号、つまり楽譜とかコード記号とかでもいい。それらは皆さんよくご存じの、音楽の専門用語の事である。でも私は、
・自然言語では表せない何かしらがあるから、自然言語以外の手段を用いる言語が必要だ
という問題を提起し、それは絵とか音楽とか数学だから、それらをまとめて何と呼ぼうかと考えてる。そこで「〇〇のための言語」と呼んでみたら、〇〇の中身が何であろうと、伝達の手段は自然言語でかまわないという事になってしまう。だから「のため」じゃダメなのだ。
もう一つの「○○という言語」の方はどうかというと、以上に示した展開をもう一度くり返すのは面倒なので略。どうせ「という」も使わない。それよりもっと良い方法がある。伝達の方法が自然言語以外ならいいのだから、先の、
・主に日常生活のための情報を、文字や音声で伝達するための、記号の体系
を、以下のように変形してみる;
・(何のためかは不明だけど、ともかく何らかの)情報を、音声以外の方法で伝達するための、記号の体系
だけどこれを「のため」式に略記すると「?のための言語」となってしまうから良くない。なので言い回しを変える。情報を伝達する目的は省略し、代わりに方法の方に着目し、
・音声ではない言語
とする。これはこれで、何のためのどういう言語なのかを示せてないが、
・音声ではない、という事
・言語であるなら、何らかの情報を伝えられるのであろう事
は示せてるから、これでいいかなと思う。音声でないなら何でもいい。例えば絵であり音楽であり数学である、あるいはその他の諸々。何を伝えるかは、その手段ごとの得手不得手があるのでしょう。
***
という事で以後、本稿では「音声ではない言語」という語を使うだろうけど、たぶんこれは例えば、
・音楽という、音声ではない言語
・数学という、音声ではない言語
みたいな表記になるかも知れない。で、この文字数が多くて面倒だと思ったら、やはり「音楽という言語」等々としてしまうかもで、だったらここまでいろいろ書いてきたのは何だったんだという話しだけど、以上を読み終えた読者なら、本稿での「音楽という言語」という表記を見れば、それは「音声ではない」が略されてるんだなとご理解いただけるに違いなく、でもなるたけなら「音声ではない」も添えた方が良いには違いない。
もう一方の「のための」は、これはもう使わない、と宣言できたら良いのだけど、日本語としての語呂の良し悪しで、うっかり使ってしまうかも知れない。考えが整理されてないまま作文すると、言葉の扱いが雑になる。思考の未熟さは、そのまま文章に現れる。これは気を付けなくてはいけない。
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今日はここまで。続きはまた明日以降。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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