推論と創作、その2.3 言語の定義を拡張する
- 2018/04/20
- 01:48
この記事は推論と創作、その2.2 音声ではない言語の続きです。
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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言語の定義を拡張する
先ほど、自然言語を、
・主に日常生活のための情報を、文字や音声で伝達するための、記号の体系
そして、音声ではない言語の方を、
・何のためかは不明の情報を、音声以外の方法で伝達するための、記号の体系
であるとした、この2つに共通の要素を抜き出し合体させると、
・何らかの情報を、何らかの方法で伝達するための、記号の体系
となり、これで言語一般の性質は言い尽くせてるように思われる。つまりこれが言語の、一般化された定義である。更に簡略にすれば、
・情報を伝達するための、記号の体系
となり、この性質を備えていれば、どんな情報をどう伝達しようと、それは言語なのだと見なせてしまう。
ただこれでは大ざっぱ過ぎて、従来は言語だとされてないもの、一般的には言語だと認められてないものも言語だと言えてしまう。音声ではない言語を言語だと言えるように一般化した定義なのだから、そうなって当然なのだけど、音声ではない言語、ですらないものまで言語だと誤認してしまうかも知れない。
しかしむしろ、人は古来より、言語ではないものを言語だと誤解して、言語ではないものから意味を読み取ろうと無駄な知恵を巡らしてたのかも知れない。つまりやはり、絵とか音楽とかは言語ではないのかも知れない。
とはいえ、暗号とか機械言語とかの、自然言語ではない言語が存在するのは事実だから、自然言語と、そうでないものと、言語のようで言語ではないもの等々を正しく区別し比較できるようにしたい。そのために必要な項目は何かを考えてみよう。
まずは「伝達」について。言語とは、誰かが誰かに情報を伝えるためのものである。どのような「誰か」は、その言語の機能の範囲と上限を定める上での最重要項目だと思われる。
「誰か」の分類は多岐にわたるので詳細は後述。自然言語についてのみ述べると、自然言語とは、たいていの人にとっての母語の事で、
母語 -wiki
wikiを要約すると、母語とは、
・幼少期から自然に習得する言語
との事で、たいていは血縁を基盤とする同族内での自然言語である。
「伝達」には、
・ある場所から別の場所への伝達
・現在から未来への伝達
つまり時空を超える伝達もある。
遠く離れた所に住んでる同族に何かを伝えたい、というような場合、これは空間を超える伝達である。
また、私の今日の経験を、一年後の私自身に伝える。つまり忘れないように記録しておくのは、時間を超える伝達。私が一生の間に経験した様々な事を、子や孫の世代に伝えようとするのも、時間を超える伝達である。
時空を超える伝達は音声で、つまり口伝で行うか、それとも文字の類で行うか、どちらでも可能だけど、時空を超える必要がなければ文字は不要。つまり文字は、時空を超えようとする場合にのみ必要な記号なので、だから言語の定義上は音声も記号、文字も記号なのだけど、文字は、音声とはかなり性質が異なる記号である。
動物は、とくに大きな群れを作らないタイプの動物は、臭いや立ち木への爪痕など、つまりマーキングを用いて、自分の縄張りを示す。その全領域を常に同時に監視してられないので、マーキングを用いて、一個体の肉体よりもはるかに大きい領域を「私である」と示してる。これは、時空を超える情報の伝達である。自分の周囲の利害関係者に対し、情報を伝達してる。
ところが一般的には、動物に言語はないとされてる。となると、言語は無くてもマーキングという記号を用いた情報の伝達は可能だという事になる。あるいは、情報が伝達されてるのだから動物にも、とても初歩的ではあるけどやはり、言語はあるのだという事になる。
要するにこれは、情報を伝達できさえすれば言語なのか、そうではないのかの問題で、マーキングは記号だけど体系化されてるとまでは言えないから言語ではない、のだとすると今度は、なぜ体系化されてない記号で情報を示せるのかが問題になる。
マーキングは単なる現象ではなく情報である。なぜならこれによって別個体に行動指針を与えてる。だからこれは、動物の脳の性能によって定まる機能の上限と、生活の必要性の範囲内で十分に、言語の役目を果たしてると言える。
結局、動物と人間の境界、言語と言語未満のものとの境界を厳密に定めようとするより、その違いは曖昧、あるいは連続的であるとする立場の方が、現実をより有意義に観察できるように思われる。人間には動物にはない能力があるが、一旦文明が成立した後は、動物と同等の生き方も出来る云々
「伝達」は誰がが誰かに、つまり人と人との間だけでなく、私から私へ伝達するのにも用いられる。たいていは自問自答の事である。
自問自答は、脳内に仮想の話し相手を立てたり、脳内の考えを文字で書き出したり等々の方法で行う。
脳内にいる二人の自分の片方が、「私」とは異なる人格であるとか、私の知らない情報を持ってるとか、私とは異なる考え方をするとかの場合、自問自答は「思考」となる。
そうでない場合の自問自答は、問答の形を借りた独り言の木霊が、脳内でループしてるだけである。
通常、人はたいてい忘れっぽく飽きっぽいものだし、一つの事をじっくり考える習慣も無い。あるいは、思考停止するための、あるいは脳の活動を暴走させないための安全装置みたいなキーワードがあって、たいていの人はそれの用い方を知ってる。というか学習させられてるので、ついうっかり問答型の独り言を呟いたとしても、ひどいループ状態には陥らない。
稀に、幾つかの条件が重なりループから抜け出せなくなると、どれだけ考えても答が出ず、なのに考えるのを止められない。しかし実は考えてるのではなく、独り言を呟き続けてるだけである、という状態に脳の活動が固定されてしまう。
・なぜ脳内に二人の人格を立てられるのか
・二人の自分の片方は、本来の「私」。片方は別人。なぜそう思えるのか
・また、なぜその区別を維持できるのか
等々の理由は言語の性質の範囲外の問題だと思うので、ここでは触れない。つまり、脳内に二人の人格を立てられるのは言語の応用法みたいなものかもだけど、二人目の自分と語る事が有用になるか否かの違いは、言語の用い方だけでは説明できない(と思う)。
もう一人の自分の助けを借りて、私の脳内にある言語の「体系」を拡大・改良しようとする場合にのみ、自問自答は思考的であると言えるのかも知れない。
伝達にはもう一つ、「相互的」か「一方的」かの区別がある。自然言語は同族集団内で日常的な情報を伝達し合うためのものだから、「命令」のような、命令される側からの反論・反問が許されない言明も日常的に行われるけど、それでも自然言語とは基本的には、対等な会話のためのものである。
複数の人がそれぞれ対等に語り合う事で、情報を伝え合い、その情報の真偽とか、より良い情報が他にないかとかを、検証し確認し合える。
そこで、対等に語り合える言語は「相互的」である、としてみると、その反対の性質は「一方的」だから、「一方的な言語」などというものがあるとしたら、それはどのような言語だろうかと考えてみたくなる。相互的な言語と反対の性質を備えてるだろうから、まず、
・語る側が一方的に情報を示し、受け手側からは語りかけられない。
・一方通行の言語である。
・受け手側は、示された情報の真偽・用途・有用性について反論・質問できない。
という特徴があれば一方的だろうけど、自然言語での命令とあまり違わない。しかしこれが音声ではない言語で語られれば、一般化された一方的な言語となる。つまり、
・語る側は音声ではない言語で、一方的に情報を示す。
・あるいは自然言語で語るにしても、黙示録の形式で、つまり何を言ってるのかがよく分からない語の用い方で語る。
こうなるとたいていの人には何を言ってるのか分からないので、わざわざ理解しようとはしないだろうし、そもそも情報表示されてると気付かない場合もあるだろう。だから更に、
・受け手側に何らかの行動を起こさせるだけの強制力がある。つまり命令的である。
・あるいは、解読できれば有用かも知れないと期待できる。
という条件が加われば、解読の試みが開始され、
・音声ではない言語を自然言語に翻訳し、情報の意味を理解しようとする。
・理解できない場合は、解釈する。
・また、誰が何故、その情報を示してるのかも理解しようとする。
・それも理解できないなら、やはり解釈する。あるいは推し量る。
という事がなされ、ともかくも解読あるいは解釈できたとしても、相変わらず受け手側からは語りかけられない場合に、示された情報は「一方的な言語」となる。以上をまとめると、一方的な言語とは、
・何らかの言語を用いる、命令されてる(かのような)、あるいは有用性が期待できる情報の、一方的な言明である。
となる。
そして、そのような言語は、実際に存在する。人類史上に最も古くからあり、現在もそれほど廃れてないものとしては、天変地異への解釈や、星占いが代表的。
・自然災害には強制力がある。
災害が起きたら逃げなければだし、鎮まった後で、破壊された生活環境を再建せねばだし、再建が不可能なまでに破壊されたなら移住せねばならない。また、再び同じ災害が起こる場合に備え対策もしなければならない。
・天球上の星の配置には、有用性があるかも知れない。
これは実際にある。暦を知る事ができるし、航海での導きの星ともなってくれる。ならば、他の事にも役立つかも知れない。
つまりこの2つには、一方的な言語となる条件が備わってる。自然災害の発生や星の位置には規則性があるので、それらを記号と見なせば体系化でき、言語化できてしまう。
ただし、誰が語っているのかは分からない。それさえ分かれば、この2つは言語であると明言できる。言語であるなら、語ってる者と意思疎通できるようになるかも知れない。つまり、星の配置からより有用な情報を引き出せたり、なぜ自然災害が起こるのか、その理由を教えてもらえるようになるかもしれない。
まあ本当は星も地震も、人間に対して何も語りかけてないかもだけど、現象の背後に意思を持つ者がいると仮定し、その者が人間に語りかけてるに違いないと信じられるなら、自然現象は「一方的な言語」として成立してしまう。
2011年3月に東日本大震災が発生した数日後、当時の東京都知事・石原慎太郎氏は「津波は天罰」と発言した。
石原慎太郎 天罰 -google
これに対してはいろいろ非難されたのだけど、その大半は「不謹慎さ」についてで、石原氏は、
・地震を天罰と見なす宗教団体の関係者かも、とか、
・そう見なしてしまうのは知能が低すぎるからかも、
というような方向から行政府の長としての資質を云々する批判は少なかったように思われる。つまり、氏の不謹慎さを非難する人も、地震を天罰と見なす点についてはあまり問題視してないように見受けられる。
という私の観察に間違いがなければ、2011年時点での日本で、天変地異を神意と解釈する事は、それを正しいと公言する人は少ないけど、暗黙の了解事項としては多くの人に認められてたのだろうと判断できる。それに、星占いの類は今も変わらず多くの人が利用してる。なので結論;
・自然現象を「一方的な言語」として受け取り、これを読み解き、何らかの情報を得ようとする行い、というより試みは、今も多くの人に支持されてると考えられる。
粘土板に、様々な押され方をした楔(くさび)の痕跡、つまり楔形文字;
楔形文字 -wiki
とか、その他にも様々ある文字。こういうものから情報を読み取る習慣に慣れてしまうと、天球の様々な位置に開けられた針孔から漏れてくる光の点も、誰かが様々な開け方をした何らかの記号であるかのように思われてきてしまう。
大昔の人が想像してた宇宙は、プラネタリウムの天井みたいな丸いドームに小さな光の粒が貼り付けられてるか、あるいは針孔が無数に空いていて、ドームの向こう側にある巨大な光源からの光が漏れ出てきてる、というようなものだった。天球 -wiki
星々には大小や色の違いがあり、つまりどれも同じではなく、しかし互いの位置関係は固定されていて、天球全体としては整然と、一年周期で回転し、しかもその一巡は、地上での四季の一巡と同期してる。
ただいくつか、整然とは動かない星がある。ギリシャ語で「さまよう者・惑う者」を意味するplanetes、が変化したplanet、つまり惑星。
地上でも、概ね気候は整然と変化してくのだけど、時々予測不可能な事が起こる。地上をさ迷い歩く災厄の神が不意に現れ、凶事をもたらす。
だから大昔の人が、地上と天球は関連してて、天球を観察すれば地上で起こる事も予測できるのではないか、というか予測できて欲しいと願ったのは、しょうがない事ではありました。だって他に頼れるものがないのだから。
でま、一般的には星占い等を言語とは呼ばない。こういうのは人類が無知だったころの「迷信」であり、現象の原因を知りたがる人間の本性が生む錯覚にすぎず云々
なんだけど、無知なら無知で、もっとイマジネーションがフリーダムな迷信があってもよさそうなのに、案外そういうのは少なくて、自然現象は人間と同等の意志を持つ何者かが発生させてる。そしてその者は、自然現象を通じて人間へ語りかけもしてる、とするタイプの迷信が主流派のように思われるし、それ以外の迷信、例えば陰謀論とかも、たいていは自然現象を神意と見なす発想の変形である。
陰謀論 -wiki
つまりこの型の迷信は数多く、広く支持され、今でも廃れてない。でもなぜ、未だに廃れてないのか?その理由は、
・今でも無知な人はいるから。
だとすると、人は誰でも多かれ少なかれ無知なので、星占いも陰謀論も信じない、という人も、それらと外見は違うけど発想の型は同じ迷信に、無自覚なまま捉われてる可能性はある。
ところが、「一方的な言語」というものを設定すると、迷信が生じるのは無知だからではなく、言語を扱えるからだ、と言えるようになる。つまり、ちょっと物知りになったくらいでは、この型の迷信からは逃れられないけど、言語を扱えるから、つまりたぶん知能が高いからこそ生じる錯覚なのかもだから、生活に支障が出ない程度で収まってくれるなら、せいぜい上手く利用すればいい、のかも知れない。まず、たいていの人の脳には、
・関連性がありそうな記号がいくつかあると体系化でき、言語化できる。
という能力が備わっている。
そして、人間とは無関係に、あるいは私とは無関係に起こってる何らかの現象を、人間への、あるいは私への、メッセージだと解釈する脳の機能、というより性向は、言語を扱える能力のオマケ機能みたいなもので、たいていの人の脳には、これが備わっている。
そして、星占いは非科学的だから信じないという人でも、別の場面では、このオマケ機能を利用して、星占いを信じてる人がそれによって得てる何かしら、例えば、
・分からない事が分かった時に得られる満足感
・不安の解消
・同じものを信じてる者同士での相互的な同意確認
等々と同じものを、星占いではない別の何かしらから得てるのではないか?という仮定に基いて改めて現実を観察し直してみると、たしかにそういうのがあるのが分かる。例えば;
芸能の作品は、作者が何かを「表す」ために作ったものである、という迷信がある。つまり作品とは「表現」のためのものである。
ある種の人々にとってこの事は、迷信ではなく、むしろ常識である。あるいは、そのようにしか考えられない。あるいは、それ以外の可能性についてを知りたがらない。
この場合の「ある種の人々」とはたいてい、作品を作らない人々である。音楽でなら、作曲しない人。自分で演奏するにしてもしないにしても、あるいはプロかアマチュアかのどちらにしても、とにかく作曲はしない、という人。
そういう人の全てが、星占いを読むように音楽を聴くのではないとは思う。たまにしか夜空を見上げない人は、満天の星を見てもたいていは、審美的あるいは量的あるいは感情的に評価するのみである。音楽に対しても、そのようにしか評価しない人はいるだろうし、音楽が何かを表現してる、つまり何らかの情報を示してるとは、そういうものらしいとは知らされてても、星占いを本気で信じる人は少ないのと同様、音楽から何らかの情報を読み取れるとも、本気では思わないであろう。
しかし毎晩のように星を見て、しかもそれ以外には大した娯楽がない、というのが大昔の人で、そんな日々を送ってれば段々と、あっちの星とこっちの星の違いに気づき、それについて色々考え始める、のと同じように、常日頃から音楽を聴いてばかりいる人も、音楽について色々考える。
ただし星占いとは、地上からは星の位置を変えたり増やしたり出来ない、つまり夜空に対しては何も働きかけられない人が、星々について考えた事である。
それと同様、芸能の作品に対して、受け取る側が作品を作り替えたり、新しいのを作って増やしたりはしない、つまり音楽の世界に対して何も働きかけられない人が音楽について考える事が、作者の意図とか、それへの解釈とか、何が表現されてるか等々である。
作品が「一方的な言語」となる条件が、ここに一つ生じてる。作者と相互的に語り合うなら、受け手側も同じ言語で語ればいい。つまり作品を作ればいいのだけど、それを行わない人にとっての芸能の作品は、一方的な言語になってしまう。あとは、
・受容しろと強制される、あるいは有用性が期待できる。
・作品についてを自然言語で語れる。
・作品(という現象)の背後で、意図的に語ってる者がいる(かも知れない)。
という条件が揃えば、芸能の作品は「一方的な言語」として成り立ってしまうし、実際、これらの性質を完備してる。
まず、芸能の作品は自然現象ではなく、全て必ず人為によるものだから、語ってる者は確かにいると見なすのは、間違いではないように思われる。
本当は作者は、音声ではない言語を扱えない者には語りかけてないかもなのだけど、この点については考慮されない。それに、一方的な言語とはむしろ、受け手同士が自然言語で語り合うためのものなのだから、それが可能なら、作者が本当は何語で話してるかなど無視してもかまわない。
また、芸能の受容は強制される事が多い。学校での友達付き合いを続けたいなら、みんなが知ってるヒット作品を受容しなければならない。立派でエラい人の仲間になりたければクラシック音楽を聴いたりムツかしそうな本を読んだりしなければならない等々。
そういう強制は子供に対しての教育・習慣付けとして行われる事も多く、上手く教育されてしまった人にとってこの習慣は「常識」と化してしまい、自分の周囲の者に対しても同じ事を強制しがちである。
有用性の方については星占いと同じく、
・分からない事が分かった時に得られる満足感
・不安の解消
・同じものを信じてる者同士での相互的な同意確認
等々が期待できる。
この、芸能の受容の形態は、星占いと同じ。星占いはフィクションだと知ってる人でも、芸能は何かを表現してるという迷信の方は、いとも簡単に信じてしまう。
ではこれは間違った事だから止めるべきなのかというと、先に述べたように、生活に支障が出ないなら上手く利用すればいい。津波は天罰と言った石原氏は、その後も都知事選に出馬し当選した。だからこういうのは、べつに何を言っても問題ないもよお。芸能の表現を云々する人々も常々、何をどう感じどう言おうと自分の勝手だと宣言しておられる。
間違った事を言うのがいけないのではなく、言うタイミングや場面を誤ると不謹慎になったりするから、その点だけは気を付けましょう。
作品を作る人が、何かを表すために作ってると言明する事は多い。なので、一方的な言語の受け手側がそのように判断するのは、作者が真実を述べてるなら、その場合に限り一応は正しい。
ただ、これは後でも述べる事だけど、作る人が自分について語る事は、どれもあてにならない。様々な理由からそう言える。
自然言語では語れない事があるから、芸能という、音声ではない言語で語る。だからこそ芸能の創作は有意義なのだ、とすると、作者が自然言語で語る事は全て無意味だから、無視すべきであろう。
作る側の人も、自然言語で語る際には、一方的な言語の受け手側に混ざって語ってる。つまり、作らない者として語ってる。
占いを信じない人にとっての占い師とは、真実を語らない者であろう。
あるいは、いつも嘘ばかり言ってるのではないが、肝心な時にはアテにならない者である。
あるいは、べつに知らなくてもいいような事を、知らなくてはならない事であるかのように語る者である。
あるいは、受け手側の解釈次第で真とも偽ともなるような、曖昧な(黙示的な)語り方ばかりする者である。
芸能の作者や、それの解説者が語る事の多くは、上記の特徴のどれかを備えてる。つまり芸能について語る者の多くは、占い師のように語る。ならば、星占いを信じないという人は、芸能について語られる事も信じるべきではないのだろうけど、生活に支障が出ないなら占いを信じていけない理由はない、のだとすると、芸能での迷信も、べつに信じてたってかまわないのかも知れない。
未来を予測する占いは生活に支障を生じさせる場合があるが、芸能の占いにその危険性は少ない。毒にも薬にもならない占いである。
星占いを信じるとか、作品は何かを表現してると信じるとかの共通点には、次のようなものもある;
星占いで知ろうとしてるのは、地上で起こる事の方である。実は、星にはあまり興味がない。興味あるのは地上、つまりたいていは自分の事である。あるいは、星についての既知を利用して自分についての未知を知ろうとするのが星占いである、と言える。
ついでに言うと、星占いを頼る人のほとんどは、自分で天体観測するのではないし、それに基く占い≒予測の真偽を、自ら推論して判断するのでもない。
ニュース等で用いられる一次ソース・二次ソースという語を当てはめるなら、占いで扱われる情報はほとんどが二次ソースである。
ところで二次ソースとは、複数の一次ソースの中から取捨選択され加工されフィルタリングされた情報だから、現象の実態は伝えてない(場合が多い)。
二次ソースには、それを送信する・語る者の意図が含まれてる場合も多い。星や作品に意図はなくても、それについての二次ソースには、たしかに意図があるとは言える。けれど何を意図してるかまでは不明な場合も多いから、つまり二次ソースとはたいてい、安易に信じてはいけない情報なのだけど、二次ソースを疑わないように習慣づけられてる、あるいは疑ってはいけないと教育されてる人は多い。
ともかく、星占いで知りたいのは星ではなく自分の事、という構図は、作品の表現を云々する方についても同様である。なぜなら、作品を作らない人とは、作る事に興味がない人なのだ。
作れない、のではなく興味がない。なぜそう言えるかというと、作る事に興味がある人は、自分には作れないなと思っても、作るのを諦めず、作ろうとし続けるのだから。
作品を作れないのは、作る能力がない。つまり「無能」だからかも知れない。作ってるけどバージョン違いみたいのしか作れなければ、それは創作者としての無能である。しかし、作品を作ろうとしないのは、作る事に興味が「持てない」という点での無能で、つまり創作に関する無能には、少なくとも2種類ある。以前は創作できてた人も、何らかの事情で作る事への興味を失うと創作できなくなってしまう、という事もある。
作らない人だって創作に興味ある、かも知れないけど、電子回路を設計するつもりはない人が電気の事を知ろうとしてもたいていは、電気を水に例える擬え説明(なぞらえせつめい)という、作る事の実際にはほとんど役に立たない知識を得るに留まる。そういう知りたがりの人達の知識欲は「興味本位」等と呼ばれる。
芸能の創作についても例えば、作曲しない人でも、作曲のための専門用語を知ろうとしたりする。それを知れば演奏の役に立つかも等と予想するらしい。だけど、作る時にしか役立たない知識を作らない人が知っても役立てようがない。つまり、作らない人にとっての作るための知識は、役に立たない。作らない人は、作るための知識を得る事で、それは自分にとっては役立たないものである、という事を知る事ができる。
しかしこれは、牧草を食べてみようという興味を起し、ちょっとかじってみて、やはり牧草は食べれないと言うようなもので、「人間が食べるものとしては」という条件を加えた場合にのみ、この判断は正しい。実際は、牧草は人間が食べるためのものではないが、それでも人間にとってはとても有用なものである。
作るための知識は、「作らない人にとっては」という条件を加えた場合に、役に立たないと判断するのは正しい。ただしこの「正しさ」は、作らない人が何故それを知りたがったのかの動機を質さなければ、そう判断したことの意義が定まらない正しさである。
芸能は娯楽であるし、役に立たない知識を弄ぶのも娯楽である。使い道のない道具を買い集めるのも娯楽だし、使い道のない知識を自分の脳内にコレクションするのも娯楽である。それによって、教養が増えた等の満足感が得られるかも知れない。
あるいは、役立て方の分からない知識を得れば、知識は役に立たない、と判断できる。それを雑に一般化すれば、音楽に理屈は要らない、となるから、その通説を確信できるようになるかも知れない。役立て方を知ってる側からすると、無能な人がますます自信まんまんになってるようにも見えるのだけど、作らない人にとっての芸能とは占いのようなもの、なのだとすると、なんらかの満足感や確信が得られさえすれば、役に立たない知識を得る事も十分に有意義である、と言えるようになる。
ともかく、作らない人が語る「表現」とは、作る事には興味ない人にとっての表現であるが、これによって何が語られるのだろうか?
星占いは、星を利用して自分が何者かを知ろうとする事であるが、プロフィール欄に自分の星座を入れる事で自分が何者かを示す、という利用法もある。つまり星を利用して自分を表現できる。
作品の表現についてを語る人も、同じ事をする。占いとは違って未来を予測するのではなく、現在あるいは過去の自分について語り、それを示すのが主目的になる。作る事に興味ない人でも、他人の作品を利用すれば、自分を表現できる。
星占いは主に未来の自分についてを知ろうとし、作品の表現についてはもっぱら、過去と現在の自分を語ろうとする、という点が違うけど、というよりむしろ真逆の事をしてるようだけど、あまり興味ない対象を介してそれらを行うという点が同じ。
「あまり興味ない」とは、音楽に対して興味ないのではなく、音楽を作る事に興味ない、という事。作る事に興味ないなら作られた理由にも興味ないであろうに、何故それについて語ろうとするのかを問題にしてる。
作品を作らない人の作品についての言明が常に必ず「自分語り」になるとは限らないが、そうなってしまってる実例の方が多い。
例えば、作品とは、作者が自己主張するために作るものである、とはよく言われる事だけど、作者側からすると、作ってしまった結果、自己主張もしてしまってるに過ぎない場合も多く、つまり自己主張は作る事の目的ではなく、作った後に生じるオマケ要素でしかなかったりもする。
一方、作品は作らないが自己主張はしたい、という人がいるとしたら、その人が何かを行う目的は「自己主張する事」である場合が多いかも知れないし、その人が芸能を好むのだとしたら、それは、芸能を「自己主張するための場」と見なしてるからかも知れない。
その場合、作らない人は、作る人の目的を「自己主張するため」と判断しがちだろうし、それ以外の可能性は考慮されにくいであろう。そして、作らない者としての語るべき事を語れば、つまり例えば「この作品の作者は自己主張してる」と主張できれば、自分が何者かを主張できる。
にしても「自己主張してる」とは、ずいぶん大雑把な主張であるから、たいていはもっといろいろ細かな事が語られる。詳しく語られれば、作ろうとしない人が作品に対して何を自己投影してるかが、より詳しく分かるようになる。
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今日はここまで。続きはまた明日以降。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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言語の定義を拡張する
先ほど、自然言語を、
・主に日常生活のための情報を、文字や音声で伝達するための、記号の体系
そして、音声ではない言語の方を、
・何のためかは不明の情報を、音声以外の方法で伝達するための、記号の体系
であるとした、この2つに共通の要素を抜き出し合体させると、
・何らかの情報を、何らかの方法で伝達するための、記号の体系
となり、これで言語一般の性質は言い尽くせてるように思われる。つまりこれが言語の、一般化された定義である。更に簡略にすれば、
・情報を伝達するための、記号の体系
となり、この性質を備えていれば、どんな情報をどう伝達しようと、それは言語なのだと見なせてしまう。
ただこれでは大ざっぱ過ぎて、従来は言語だとされてないもの、一般的には言語だと認められてないものも言語だと言えてしまう。音声ではない言語を言語だと言えるように一般化した定義なのだから、そうなって当然なのだけど、音声ではない言語、ですらないものまで言語だと誤認してしまうかも知れない。
しかしむしろ、人は古来より、言語ではないものを言語だと誤解して、言語ではないものから意味を読み取ろうと無駄な知恵を巡らしてたのかも知れない。つまりやはり、絵とか音楽とかは言語ではないのかも知れない。
とはいえ、暗号とか機械言語とかの、自然言語ではない言語が存在するのは事実だから、自然言語と、そうでないものと、言語のようで言語ではないもの等々を正しく区別し比較できるようにしたい。そのために必要な項目は何かを考えてみよう。
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まずは「伝達」について。言語とは、誰かが誰かに情報を伝えるためのものである。どのような「誰か」は、その言語の機能の範囲と上限を定める上での最重要項目だと思われる。
「誰か」の分類は多岐にわたるので詳細は後述。自然言語についてのみ述べると、自然言語とは、たいていの人にとっての母語の事で、
母語 -wiki
wikiを要約すると、母語とは、
・幼少期から自然に習得する言語
との事で、たいていは血縁を基盤とする同族内での自然言語である。
***
「伝達」には、
・ある場所から別の場所への伝達
・現在から未来への伝達
つまり時空を超える伝達もある。
遠く離れた所に住んでる同族に何かを伝えたい、というような場合、これは空間を超える伝達である。
また、私の今日の経験を、一年後の私自身に伝える。つまり忘れないように記録しておくのは、時間を超える伝達。私が一生の間に経験した様々な事を、子や孫の世代に伝えようとするのも、時間を超える伝達である。
時空を超える伝達は音声で、つまり口伝で行うか、それとも文字の類で行うか、どちらでも可能だけど、時空を超える必要がなければ文字は不要。つまり文字は、時空を超えようとする場合にのみ必要な記号なので、だから言語の定義上は音声も記号、文字も記号なのだけど、文字は、音声とはかなり性質が異なる記号である。
動物は、とくに大きな群れを作らないタイプの動物は、臭いや立ち木への爪痕など、つまりマーキングを用いて、自分の縄張りを示す。その全領域を常に同時に監視してられないので、マーキングを用いて、一個体の肉体よりもはるかに大きい領域を「私である」と示してる。これは、時空を超える情報の伝達である。自分の周囲の利害関係者に対し、情報を伝達してる。
ところが一般的には、動物に言語はないとされてる。となると、言語は無くてもマーキングという記号を用いた情報の伝達は可能だという事になる。あるいは、情報が伝達されてるのだから動物にも、とても初歩的ではあるけどやはり、言語はあるのだという事になる。
要するにこれは、情報を伝達できさえすれば言語なのか、そうではないのかの問題で、マーキングは記号だけど体系化されてるとまでは言えないから言語ではない、のだとすると今度は、なぜ体系化されてない記号で情報を示せるのかが問題になる。
マーキングは単なる現象ではなく情報である。なぜならこれによって別個体に行動指針を与えてる。だからこれは、動物の脳の性能によって定まる機能の上限と、生活の必要性の範囲内で十分に、言語の役目を果たしてると言える。
結局、動物と人間の境界、言語と言語未満のものとの境界を厳密に定めようとするより、その違いは曖昧、あるいは連続的であるとする立場の方が、現実をより有意義に観察できるように思われる。人間には動物にはない能力があるが、一旦文明が成立した後は、動物と同等の生き方も出来る云々
***
「伝達」は誰がが誰かに、つまり人と人との間だけでなく、私から私へ伝達するのにも用いられる。たいていは自問自答の事である。
自問自答は、脳内に仮想の話し相手を立てたり、脳内の考えを文字で書き出したり等々の方法で行う。
脳内にいる二人の自分の片方が、「私」とは異なる人格であるとか、私の知らない情報を持ってるとか、私とは異なる考え方をするとかの場合、自問自答は「思考」となる。
そうでない場合の自問自答は、問答の形を借りた独り言の木霊が、脳内でループしてるだけである。
通常、人はたいてい忘れっぽく飽きっぽいものだし、一つの事をじっくり考える習慣も無い。あるいは、思考停止するための、あるいは脳の活動を暴走させないための安全装置みたいなキーワードがあって、たいていの人はそれの用い方を知ってる。というか学習させられてるので、ついうっかり問答型の独り言を呟いたとしても、ひどいループ状態には陥らない。
稀に、幾つかの条件が重なりループから抜け出せなくなると、どれだけ考えても答が出ず、なのに考えるのを止められない。しかし実は考えてるのではなく、独り言を呟き続けてるだけである、という状態に脳の活動が固定されてしまう。
・なぜ脳内に二人の人格を立てられるのか
・二人の自分の片方は、本来の「私」。片方は別人。なぜそう思えるのか
・また、なぜその区別を維持できるのか
等々の理由は言語の性質の範囲外の問題だと思うので、ここでは触れない。つまり、脳内に二人の人格を立てられるのは言語の応用法みたいなものかもだけど、二人目の自分と語る事が有用になるか否かの違いは、言語の用い方だけでは説明できない(と思う)。
もう一人の自分の助けを借りて、私の脳内にある言語の「体系」を拡大・改良しようとする場合にのみ、自問自答は思考的であると言えるのかも知れない。
***
伝達にはもう一つ、「相互的」か「一方的」かの区別がある。自然言語は同族集団内で日常的な情報を伝達し合うためのものだから、「命令」のような、命令される側からの反論・反問が許されない言明も日常的に行われるけど、それでも自然言語とは基本的には、対等な会話のためのものである。
複数の人がそれぞれ対等に語り合う事で、情報を伝え合い、その情報の真偽とか、より良い情報が他にないかとかを、検証し確認し合える。
そこで、対等に語り合える言語は「相互的」である、としてみると、その反対の性質は「一方的」だから、「一方的な言語」などというものがあるとしたら、それはどのような言語だろうかと考えてみたくなる。相互的な言語と反対の性質を備えてるだろうから、まず、
・語る側が一方的に情報を示し、受け手側からは語りかけられない。
・一方通行の言語である。
・受け手側は、示された情報の真偽・用途・有用性について反論・質問できない。
という特徴があれば一方的だろうけど、自然言語での命令とあまり違わない。しかしこれが音声ではない言語で語られれば、一般化された一方的な言語となる。つまり、
・語る側は音声ではない言語で、一方的に情報を示す。
・あるいは自然言語で語るにしても、黙示録の形式で、つまり何を言ってるのかがよく分からない語の用い方で語る。
こうなるとたいていの人には何を言ってるのか分からないので、わざわざ理解しようとはしないだろうし、そもそも情報表示されてると気付かない場合もあるだろう。だから更に、
・受け手側に何らかの行動を起こさせるだけの強制力がある。つまり命令的である。
・あるいは、解読できれば有用かも知れないと期待できる。
という条件が加われば、解読の試みが開始され、
・音声ではない言語を自然言語に翻訳し、情報の意味を理解しようとする。
・理解できない場合は、解釈する。
・また、誰が何故、その情報を示してるのかも理解しようとする。
・それも理解できないなら、やはり解釈する。あるいは推し量る。
という事がなされ、ともかくも解読あるいは解釈できたとしても、相変わらず受け手側からは語りかけられない場合に、示された情報は「一方的な言語」となる。以上をまとめると、一方的な言語とは、
・何らかの言語を用いる、命令されてる(かのような)、あるいは有用性が期待できる情報の、一方的な言明である。
となる。
そして、そのような言語は、実際に存在する。人類史上に最も古くからあり、現在もそれほど廃れてないものとしては、天変地異への解釈や、星占いが代表的。
・自然災害には強制力がある。
災害が起きたら逃げなければだし、鎮まった後で、破壊された生活環境を再建せねばだし、再建が不可能なまでに破壊されたなら移住せねばならない。また、再び同じ災害が起こる場合に備え対策もしなければならない。
・天球上の星の配置には、有用性があるかも知れない。
これは実際にある。暦を知る事ができるし、航海での導きの星ともなってくれる。ならば、他の事にも役立つかも知れない。
つまりこの2つには、一方的な言語となる条件が備わってる。自然災害の発生や星の位置には規則性があるので、それらを記号と見なせば体系化でき、言語化できてしまう。
ただし、誰が語っているのかは分からない。それさえ分かれば、この2つは言語であると明言できる。言語であるなら、語ってる者と意思疎通できるようになるかも知れない。つまり、星の配置からより有用な情報を引き出せたり、なぜ自然災害が起こるのか、その理由を教えてもらえるようになるかもしれない。
まあ本当は星も地震も、人間に対して何も語りかけてないかもだけど、現象の背後に意思を持つ者がいると仮定し、その者が人間に語りかけてるに違いないと信じられるなら、自然現象は「一方的な言語」として成立してしまう。
***
2011年3月に東日本大震災が発生した数日後、当時の東京都知事・石原慎太郎氏は「津波は天罰」と発言した。
石原慎太郎 天罰 -google
これに対してはいろいろ非難されたのだけど、その大半は「不謹慎さ」についてで、石原氏は、
・地震を天罰と見なす宗教団体の関係者かも、とか、
・そう見なしてしまうのは知能が低すぎるからかも、
というような方向から行政府の長としての資質を云々する批判は少なかったように思われる。つまり、氏の不謹慎さを非難する人も、地震を天罰と見なす点についてはあまり問題視してないように見受けられる。
という私の観察に間違いがなければ、2011年時点での日本で、天変地異を神意と解釈する事は、それを正しいと公言する人は少ないけど、暗黙の了解事項としては多くの人に認められてたのだろうと判断できる。それに、星占いの類は今も変わらず多くの人が利用してる。なので結論;
・自然現象を「一方的な言語」として受け取り、これを読み解き、何らかの情報を得ようとする行い、というより試みは、今も多くの人に支持されてると考えられる。
粘土板に、様々な押され方をした楔(くさび)の痕跡、つまり楔形文字;
楔形文字 -wiki
とか、その他にも様々ある文字。こういうものから情報を読み取る習慣に慣れてしまうと、天球の様々な位置に開けられた針孔から漏れてくる光の点も、誰かが様々な開け方をした何らかの記号であるかのように思われてきてしまう。
大昔の人が想像してた宇宙は、プラネタリウムの天井みたいな丸いドームに小さな光の粒が貼り付けられてるか、あるいは針孔が無数に空いていて、ドームの向こう側にある巨大な光源からの光が漏れ出てきてる、というようなものだった。天球 -wiki
星々には大小や色の違いがあり、つまりどれも同じではなく、しかし互いの位置関係は固定されていて、天球全体としては整然と、一年周期で回転し、しかもその一巡は、地上での四季の一巡と同期してる。
ただいくつか、整然とは動かない星がある。ギリシャ語で「さまよう者・惑う者」を意味するplanetes、が変化したplanet、つまり惑星。
地上でも、概ね気候は整然と変化してくのだけど、時々予測不可能な事が起こる。地上をさ迷い歩く災厄の神が不意に現れ、凶事をもたらす。
だから大昔の人が、地上と天球は関連してて、天球を観察すれば地上で起こる事も予測できるのではないか、というか予測できて欲しいと願ったのは、しょうがない事ではありました。だって他に頼れるものがないのだから。
でま、一般的には星占い等を言語とは呼ばない。こういうのは人類が無知だったころの「迷信」であり、現象の原因を知りたがる人間の本性が生む錯覚にすぎず云々
なんだけど、無知なら無知で、もっとイマジネーションがフリーダムな迷信があってもよさそうなのに、案外そういうのは少なくて、自然現象は人間と同等の意志を持つ何者かが発生させてる。そしてその者は、自然現象を通じて人間へ語りかけもしてる、とするタイプの迷信が主流派のように思われるし、それ以外の迷信、例えば陰謀論とかも、たいていは自然現象を神意と見なす発想の変形である。
陰謀論 -wiki
つまりこの型の迷信は数多く、広く支持され、今でも廃れてない。でもなぜ、未だに廃れてないのか?その理由は、
・今でも無知な人はいるから。
だとすると、人は誰でも多かれ少なかれ無知なので、星占いも陰謀論も信じない、という人も、それらと外見は違うけど発想の型は同じ迷信に、無自覚なまま捉われてる可能性はある。
ところが、「一方的な言語」というものを設定すると、迷信が生じるのは無知だからではなく、言語を扱えるからだ、と言えるようになる。つまり、ちょっと物知りになったくらいでは、この型の迷信からは逃れられないけど、言語を扱えるから、つまりたぶん知能が高いからこそ生じる錯覚なのかもだから、生活に支障が出ない程度で収まってくれるなら、せいぜい上手く利用すればいい、のかも知れない。まず、たいていの人の脳には、
・関連性がありそうな記号がいくつかあると体系化でき、言語化できる。
という能力が備わっている。
そして、人間とは無関係に、あるいは私とは無関係に起こってる何らかの現象を、人間への、あるいは私への、メッセージだと解釈する脳の機能、というより性向は、言語を扱える能力のオマケ機能みたいなもので、たいていの人の脳には、これが備わっている。
そして、星占いは非科学的だから信じないという人でも、別の場面では、このオマケ機能を利用して、星占いを信じてる人がそれによって得てる何かしら、例えば、
・分からない事が分かった時に得られる満足感
・不安の解消
・同じものを信じてる者同士での相互的な同意確認
等々と同じものを、星占いではない別の何かしらから得てるのではないか?という仮定に基いて改めて現実を観察し直してみると、たしかにそういうのがあるのが分かる。例えば;
芸能の作品は、作者が何かを「表す」ために作ったものである、という迷信がある。つまり作品とは「表現」のためのものである。
ある種の人々にとってこの事は、迷信ではなく、むしろ常識である。あるいは、そのようにしか考えられない。あるいは、それ以外の可能性についてを知りたがらない。
この場合の「ある種の人々」とはたいてい、作品を作らない人々である。音楽でなら、作曲しない人。自分で演奏するにしてもしないにしても、あるいはプロかアマチュアかのどちらにしても、とにかく作曲はしない、という人。
そういう人の全てが、星占いを読むように音楽を聴くのではないとは思う。たまにしか夜空を見上げない人は、満天の星を見てもたいていは、審美的あるいは量的あるいは感情的に評価するのみである。音楽に対しても、そのようにしか評価しない人はいるだろうし、音楽が何かを表現してる、つまり何らかの情報を示してるとは、そういうものらしいとは知らされてても、星占いを本気で信じる人は少ないのと同様、音楽から何らかの情報を読み取れるとも、本気では思わないであろう。
しかし毎晩のように星を見て、しかもそれ以外には大した娯楽がない、というのが大昔の人で、そんな日々を送ってれば段々と、あっちの星とこっちの星の違いに気づき、それについて色々考え始める、のと同じように、常日頃から音楽を聴いてばかりいる人も、音楽について色々考える。
ただし星占いとは、地上からは星の位置を変えたり増やしたり出来ない、つまり夜空に対しては何も働きかけられない人が、星々について考えた事である。
それと同様、芸能の作品に対して、受け取る側が作品を作り替えたり、新しいのを作って増やしたりはしない、つまり音楽の世界に対して何も働きかけられない人が音楽について考える事が、作者の意図とか、それへの解釈とか、何が表現されてるか等々である。
作品が「一方的な言語」となる条件が、ここに一つ生じてる。作者と相互的に語り合うなら、受け手側も同じ言語で語ればいい。つまり作品を作ればいいのだけど、それを行わない人にとっての芸能の作品は、一方的な言語になってしまう。あとは、
・受容しろと強制される、あるいは有用性が期待できる。
・作品についてを自然言語で語れる。
・作品(という現象)の背後で、意図的に語ってる者がいる(かも知れない)。
という条件が揃えば、芸能の作品は「一方的な言語」として成り立ってしまうし、実際、これらの性質を完備してる。
まず、芸能の作品は自然現象ではなく、全て必ず人為によるものだから、語ってる者は確かにいると見なすのは、間違いではないように思われる。
本当は作者は、音声ではない言語を扱えない者には語りかけてないかもなのだけど、この点については考慮されない。それに、一方的な言語とはむしろ、受け手同士が自然言語で語り合うためのものなのだから、それが可能なら、作者が本当は何語で話してるかなど無視してもかまわない。
また、芸能の受容は強制される事が多い。学校での友達付き合いを続けたいなら、みんなが知ってるヒット作品を受容しなければならない。立派でエラい人の仲間になりたければクラシック音楽を聴いたりムツかしそうな本を読んだりしなければならない等々。
そういう強制は子供に対しての教育・習慣付けとして行われる事も多く、上手く教育されてしまった人にとってこの習慣は「常識」と化してしまい、自分の周囲の者に対しても同じ事を強制しがちである。
有用性の方については星占いと同じく、
・分からない事が分かった時に得られる満足感
・不安の解消
・同じものを信じてる者同士での相互的な同意確認
等々が期待できる。
この、芸能の受容の形態は、星占いと同じ。星占いはフィクションだと知ってる人でも、芸能は何かを表現してるという迷信の方は、いとも簡単に信じてしまう。
ではこれは間違った事だから止めるべきなのかというと、先に述べたように、生活に支障が出ないなら上手く利用すればいい。津波は天罰と言った石原氏は、その後も都知事選に出馬し当選した。だからこういうのは、べつに何を言っても問題ないもよお。芸能の表現を云々する人々も常々、何をどう感じどう言おうと自分の勝手だと宣言しておられる。
間違った事を言うのがいけないのではなく、言うタイミングや場面を誤ると不謹慎になったりするから、その点だけは気を付けましょう。
作品を作る人が、何かを表すために作ってると言明する事は多い。なので、一方的な言語の受け手側がそのように判断するのは、作者が真実を述べてるなら、その場合に限り一応は正しい。
ただ、これは後でも述べる事だけど、作る人が自分について語る事は、どれもあてにならない。様々な理由からそう言える。
自然言語では語れない事があるから、芸能という、音声ではない言語で語る。だからこそ芸能の創作は有意義なのだ、とすると、作者が自然言語で語る事は全て無意味だから、無視すべきであろう。
作る側の人も、自然言語で語る際には、一方的な言語の受け手側に混ざって語ってる。つまり、作らない者として語ってる。
占いを信じない人にとっての占い師とは、真実を語らない者であろう。
あるいは、いつも嘘ばかり言ってるのではないが、肝心な時にはアテにならない者である。
あるいは、べつに知らなくてもいいような事を、知らなくてはならない事であるかのように語る者である。
あるいは、受け手側の解釈次第で真とも偽ともなるような、曖昧な(黙示的な)語り方ばかりする者である。
芸能の作者や、それの解説者が語る事の多くは、上記の特徴のどれかを備えてる。つまり芸能について語る者の多くは、占い師のように語る。ならば、星占いを信じないという人は、芸能について語られる事も信じるべきではないのだろうけど、生活に支障が出ないなら占いを信じていけない理由はない、のだとすると、芸能での迷信も、べつに信じてたってかまわないのかも知れない。
未来を予測する占いは生活に支障を生じさせる場合があるが、芸能の占いにその危険性は少ない。毒にも薬にもならない占いである。
***
星占いを信じるとか、作品は何かを表現してると信じるとかの共通点には、次のようなものもある;
星占いで知ろうとしてるのは、地上で起こる事の方である。実は、星にはあまり興味がない。興味あるのは地上、つまりたいていは自分の事である。あるいは、星についての既知を利用して自分についての未知を知ろうとするのが星占いである、と言える。
ついでに言うと、星占いを頼る人のほとんどは、自分で天体観測するのではないし、それに基く占い≒予測の真偽を、自ら推論して判断するのでもない。
ニュース等で用いられる一次ソース・二次ソースという語を当てはめるなら、占いで扱われる情報はほとんどが二次ソースである。
ところで二次ソースとは、複数の一次ソースの中から取捨選択され加工されフィルタリングされた情報だから、現象の実態は伝えてない(場合が多い)。
二次ソースには、それを送信する・語る者の意図が含まれてる場合も多い。星や作品に意図はなくても、それについての二次ソースには、たしかに意図があるとは言える。けれど何を意図してるかまでは不明な場合も多いから、つまり二次ソースとはたいてい、安易に信じてはいけない情報なのだけど、二次ソースを疑わないように習慣づけられてる、あるいは疑ってはいけないと教育されてる人は多い。
ともかく、星占いで知りたいのは星ではなく自分の事、という構図は、作品の表現を云々する方についても同様である。なぜなら、作品を作らない人とは、作る事に興味がない人なのだ。
作れない、のではなく興味がない。なぜそう言えるかというと、作る事に興味がある人は、自分には作れないなと思っても、作るのを諦めず、作ろうとし続けるのだから。
作品を作れないのは、作る能力がない。つまり「無能」だからかも知れない。作ってるけどバージョン違いみたいのしか作れなければ、それは創作者としての無能である。しかし、作品を作ろうとしないのは、作る事に興味が「持てない」という点での無能で、つまり創作に関する無能には、少なくとも2種類ある。以前は創作できてた人も、何らかの事情で作る事への興味を失うと創作できなくなってしまう、という事もある。
作らない人だって創作に興味ある、かも知れないけど、電子回路を設計するつもりはない人が電気の事を知ろうとしてもたいていは、電気を水に例える擬え説明(なぞらえせつめい)という、作る事の実際にはほとんど役に立たない知識を得るに留まる。そういう知りたがりの人達の知識欲は「興味本位」等と呼ばれる。
芸能の創作についても例えば、作曲しない人でも、作曲のための専門用語を知ろうとしたりする。それを知れば演奏の役に立つかも等と予想するらしい。だけど、作る時にしか役立たない知識を作らない人が知っても役立てようがない。つまり、作らない人にとっての作るための知識は、役に立たない。作らない人は、作るための知識を得る事で、それは自分にとっては役立たないものである、という事を知る事ができる。
しかしこれは、牧草を食べてみようという興味を起し、ちょっとかじってみて、やはり牧草は食べれないと言うようなもので、「人間が食べるものとしては」という条件を加えた場合にのみ、この判断は正しい。実際は、牧草は人間が食べるためのものではないが、それでも人間にとってはとても有用なものである。
作るための知識は、「作らない人にとっては」という条件を加えた場合に、役に立たないと判断するのは正しい。ただしこの「正しさ」は、作らない人が何故それを知りたがったのかの動機を質さなければ、そう判断したことの意義が定まらない正しさである。
芸能は娯楽であるし、役に立たない知識を弄ぶのも娯楽である。使い道のない道具を買い集めるのも娯楽だし、使い道のない知識を自分の脳内にコレクションするのも娯楽である。それによって、教養が増えた等の満足感が得られるかも知れない。
あるいは、役立て方の分からない知識を得れば、知識は役に立たない、と判断できる。それを雑に一般化すれば、音楽に理屈は要らない、となるから、その通説を確信できるようになるかも知れない。役立て方を知ってる側からすると、無能な人がますます自信まんまんになってるようにも見えるのだけど、作らない人にとっての芸能とは占いのようなもの、なのだとすると、なんらかの満足感や確信が得られさえすれば、役に立たない知識を得る事も十分に有意義である、と言えるようになる。
ともかく、作らない人が語る「表現」とは、作る事には興味ない人にとっての表現であるが、これによって何が語られるのだろうか?
星占いは、星を利用して自分が何者かを知ろうとする事であるが、プロフィール欄に自分の星座を入れる事で自分が何者かを示す、という利用法もある。つまり星を利用して自分を表現できる。
作品の表現についてを語る人も、同じ事をする。占いとは違って未来を予測するのではなく、現在あるいは過去の自分について語り、それを示すのが主目的になる。作る事に興味ない人でも、他人の作品を利用すれば、自分を表現できる。
星占いは主に未来の自分についてを知ろうとし、作品の表現についてはもっぱら、過去と現在の自分を語ろうとする、という点が違うけど、というよりむしろ真逆の事をしてるようだけど、あまり興味ない対象を介してそれらを行うという点が同じ。
「あまり興味ない」とは、音楽に対して興味ないのではなく、音楽を作る事に興味ない、という事。作る事に興味ないなら作られた理由にも興味ないであろうに、何故それについて語ろうとするのかを問題にしてる。
作品を作らない人の作品についての言明が常に必ず「自分語り」になるとは限らないが、そうなってしまってる実例の方が多い。
例えば、作品とは、作者が自己主張するために作るものである、とはよく言われる事だけど、作者側からすると、作ってしまった結果、自己主張もしてしまってるに過ぎない場合も多く、つまり自己主張は作る事の目的ではなく、作った後に生じるオマケ要素でしかなかったりもする。
一方、作品は作らないが自己主張はしたい、という人がいるとしたら、その人が何かを行う目的は「自己主張する事」である場合が多いかも知れないし、その人が芸能を好むのだとしたら、それは、芸能を「自己主張するための場」と見なしてるからかも知れない。
その場合、作らない人は、作る人の目的を「自己主張するため」と判断しがちだろうし、それ以外の可能性は考慮されにくいであろう。そして、作らない者としての語るべき事を語れば、つまり例えば「この作品の作者は自己主張してる」と主張できれば、自分が何者かを主張できる。
にしても「自己主張してる」とは、ずいぶん大雑把な主張であるから、たいていはもっといろいろ細かな事が語られる。詳しく語られれば、作ろうとしない人が作品に対して何を自己投影してるかが、より詳しく分かるようになる。
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今日はここまで。続きはまた明日以降。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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