推論と創作、その2.32 迷信を禁じてはいけない
- 2018/04/21
- 04:08
この記事は推論と創作、その2.3 言語の定義を拡張するの続きです。
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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ここまで述べてきた事は;
・言語とは相互的に語り合われるものだろうけど、言語の定義を拡張すると、一方的な言語というものを想定できる。
・芸能の作品は何かを表現するためのものだ、という通説が本当らしく思われるのは、一方的な言語が作用してるから。
・それは、占いが本当らしく思われるのと同じである。
という事だった。
しかし占いの事を説明するだけなら、わざわざ一方的な言語などという、本当にあるのか疑わしい、作業仮説にすぎないかも知れないものなど用いる必要はなく、従来は、というか普通は、「無知」というキーワードが用いられる。つまり、占いを信じるのは無知な人である。
一方、芸能での場合は、とくに歌詞のない器楽、あるいは抽象絵画などに対しては、それらを理解できない人とは、何が表現されてるか理解できない人、つまり「無知」な人である、という具合に、無知というワードが用いられる。
占いを理解できる、あるいは理解しようとするのは無知だからだけど、芸能を理解できない、あるいは理解しようとしないのも、無知だから。
無知でなくなれば、占いを信じる代わりに、芸能を理解できるようになる(かも知れない)。
だけど、一方的な言語というものがあると仮定すると、そもそも、芸能が何かを表現してるという通説が本当らしく思われてしまうのは、一方的な言語が作用してるからで、無知かどうかはあまり関係ない、と言えるようになる。
知識の量は人によりけりだから、一方的な言語を受け入れてしまってる人の知識量も多かったり少なかったりであろうし、その違いによって占いと芸能のどちらを信じるかは、お好み次第のようなものであろう。それに当然、占いと芸能の両方を信じてる人はいるだろうし、両方とも信じないという人もいるだろう。
だから、人間の集団を占い派と芸能派に二分するのではなく、あるいは、無知か物知りかで区別するのではなく、一方的な言語を受け入れているか、いないかで分けてみる。すると、一方的な言語を受け入れてる方の人は、占いも芸能も信じてないとしても、それらとはまた別の、一方的な言語が生じさせる何かしらを信じてるかも知れない、と考えられるようになる。
互いに関係なさそうな2つの事。関係ないというよりむしろ、片方の支持者が、もう片方も同じだと認めたがらないような、2つの事。つまり例えば占いと芸能の表現、その本当らしさが、実は同じ原因から生じてるなら、その原因は明示されるべきだし、更に、能力の不足を意味する「無知」という語ではなく、一方的な言語を受け入れる能力があるという事、つまり「有能さ」で説明できるなら、その方が良い。
また、無知のせいにすると、教育によって迷信をなくせるという、誤った期待を生じさせてしまう。
一方的な言語を受け入れてしまってる人は、知識があろうとなかろうと、一方的な言語で語り合う世界の住人である。だから、迷信に捉われてる状態から脱するという事は、一方的な言語の世界から離脱するという事である。
しかし、教育によって正しい知識を得たとしても、教わった事だから正しいのだと思うなら、それは相変わらず、一方的な言語を受け入れてるという事である。
教える側も、自分が教えてる事が正しいと、なぜ知ってるのか?そう教わったからだとか、常識だからというならそれは、教える側も一方的な言語を受け入れてる、つまり同じ世界の住人だという事である。
この場合の教育とは、同じ世界の中で知識があちこち移動してるにすぎず、あるいは、一方的な言語で語り合う諸ジャンルが顧客の奪い合いをしてるようなもので、これでは誰もが今いる世界からは離脱しづらい。ところで、一方的な言語の特徴は、
・命令的で、強制的
・情報の真偽を疑わず受容する
・作らない人が語り合うための言語
等々で、つまり推論・創作しない人の言語であるから、一方的な言語の世界から脱け出すという事は、推論・創作できる人の世界に移動する、という事である。しかし既に何度も述べてるように、推論・創作の方法を教えるのはたぶん不可能だから、一方的な言語の世界から離脱する方法を教えるのも、不可能である。したがって、迷信を信じる人を、信じさせないよう教育するのは不可能である、と言える。
しかし迷信は、一方的な言語の作用から生じる。つまり、一方的な言語を受け入れられるという有能さの現れなのだから、その能力を奪ってはいけない、のだとも言える。つまり、迷信を禁じてはいけない。
ある人が何かを信じてる、というのは、何らかの信念や常識を持ってるという事である。それを禁じるのは、一方的な言語についての能力を使わせないという事で、代わりの能力を与えないならそれは、人を無能な状態に落す事になり、代わりに推論・創作する能力を与えようとしてるなら、それを教えるのは不可能である。
自分の信念・常識をどう扱うべきかの決定権を持ってるのは当人のみで、その人に何らかの事情があって、自分の信念・常識を捨てたい・改めたいと願ってるのだとしても、他人は手助けできない。それに、うかつに他人に助けを求めてもたいていは、また別の迷信を押し付けられるだけである。
例えば、創作しない人の信念とは、創作しない事である。というより、その人にとっては創作しない事が、常識的な事である。
しかし、この世には実に様々な迷信がり、例えば、作るための知識は作らない人にとっても役に立つ、という迷信もある。そしてこの迷信は、創作しない人の「創作しないという信念」と両立しうる。なので創作しない人も、作るための知識を知ろうとする場合がある。
しかし知識と信念・常識のどちらが優位かは状況次第で、だから知識が信念・常識を変える・改めるという事は、とくに成長期を過ぎてしまった人の場合には起こりにくく、むしろ信念・常識を強化するための補助材として、知識は利用される。あるいは、役に立たないはずの知識も役に立つという迷信が、本当らしく思われたり思われなかったりする。しかしどのみち、作ろうとしない人の信念・常識は揺らがず、知識があろうとなかろうと、作らないままである。
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今日はここまで。続きはまた明日以降。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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ここまで述べてきた事は;
・言語とは相互的に語り合われるものだろうけど、言語の定義を拡張すると、一方的な言語というものを想定できる。
・芸能の作品は何かを表現するためのものだ、という通説が本当らしく思われるのは、一方的な言語が作用してるから。
・それは、占いが本当らしく思われるのと同じである。
という事だった。
しかし占いの事を説明するだけなら、わざわざ一方的な言語などという、本当にあるのか疑わしい、作業仮説にすぎないかも知れないものなど用いる必要はなく、従来は、というか普通は、「無知」というキーワードが用いられる。つまり、占いを信じるのは無知な人である。
一方、芸能での場合は、とくに歌詞のない器楽、あるいは抽象絵画などに対しては、それらを理解できない人とは、何が表現されてるか理解できない人、つまり「無知」な人である、という具合に、無知というワードが用いられる。
占いを理解できる、あるいは理解しようとするのは無知だからだけど、芸能を理解できない、あるいは理解しようとしないのも、無知だから。
無知でなくなれば、占いを信じる代わりに、芸能を理解できるようになる(かも知れない)。
だけど、一方的な言語というものがあると仮定すると、そもそも、芸能が何かを表現してるという通説が本当らしく思われてしまうのは、一方的な言語が作用してるからで、無知かどうかはあまり関係ない、と言えるようになる。
知識の量は人によりけりだから、一方的な言語を受け入れてしまってる人の知識量も多かったり少なかったりであろうし、その違いによって占いと芸能のどちらを信じるかは、お好み次第のようなものであろう。それに当然、占いと芸能の両方を信じてる人はいるだろうし、両方とも信じないという人もいるだろう。
だから、人間の集団を占い派と芸能派に二分するのではなく、あるいは、無知か物知りかで区別するのではなく、一方的な言語を受け入れているか、いないかで分けてみる。すると、一方的な言語を受け入れてる方の人は、占いも芸能も信じてないとしても、それらとはまた別の、一方的な言語が生じさせる何かしらを信じてるかも知れない、と考えられるようになる。
互いに関係なさそうな2つの事。関係ないというよりむしろ、片方の支持者が、もう片方も同じだと認めたがらないような、2つの事。つまり例えば占いと芸能の表現、その本当らしさが、実は同じ原因から生じてるなら、その原因は明示されるべきだし、更に、能力の不足を意味する「無知」という語ではなく、一方的な言語を受け入れる能力があるという事、つまり「有能さ」で説明できるなら、その方が良い。
また、無知のせいにすると、教育によって迷信をなくせるという、誤った期待を生じさせてしまう。
一方的な言語を受け入れてしまってる人は、知識があろうとなかろうと、一方的な言語で語り合う世界の住人である。だから、迷信に捉われてる状態から脱するという事は、一方的な言語の世界から離脱するという事である。
しかし、教育によって正しい知識を得たとしても、教わった事だから正しいのだと思うなら、それは相変わらず、一方的な言語を受け入れてるという事である。
教える側も、自分が教えてる事が正しいと、なぜ知ってるのか?そう教わったからだとか、常識だからというならそれは、教える側も一方的な言語を受け入れてる、つまり同じ世界の住人だという事である。
この場合の教育とは、同じ世界の中で知識があちこち移動してるにすぎず、あるいは、一方的な言語で語り合う諸ジャンルが顧客の奪い合いをしてるようなもので、これでは誰もが今いる世界からは離脱しづらい。ところで、一方的な言語の特徴は、
・命令的で、強制的
・情報の真偽を疑わず受容する
・作らない人が語り合うための言語
等々で、つまり推論・創作しない人の言語であるから、一方的な言語の世界から脱け出すという事は、推論・創作できる人の世界に移動する、という事である。しかし既に何度も述べてるように、推論・創作の方法を教えるのはたぶん不可能だから、一方的な言語の世界から離脱する方法を教えるのも、不可能である。したがって、迷信を信じる人を、信じさせないよう教育するのは不可能である、と言える。
しかし迷信は、一方的な言語の作用から生じる。つまり、一方的な言語を受け入れられるという有能さの現れなのだから、その能力を奪ってはいけない、のだとも言える。つまり、迷信を禁じてはいけない。
ある人が何かを信じてる、というのは、何らかの信念や常識を持ってるという事である。それを禁じるのは、一方的な言語についての能力を使わせないという事で、代わりの能力を与えないならそれは、人を無能な状態に落す事になり、代わりに推論・創作する能力を与えようとしてるなら、それを教えるのは不可能である。
自分の信念・常識をどう扱うべきかの決定権を持ってるのは当人のみで、その人に何らかの事情があって、自分の信念・常識を捨てたい・改めたいと願ってるのだとしても、他人は手助けできない。それに、うかつに他人に助けを求めてもたいていは、また別の迷信を押し付けられるだけである。
例えば、創作しない人の信念とは、創作しない事である。というより、その人にとっては創作しない事が、常識的な事である。
しかし、この世には実に様々な迷信がり、例えば、作るための知識は作らない人にとっても役に立つ、という迷信もある。そしてこの迷信は、創作しない人の「創作しないという信念」と両立しうる。なので創作しない人も、作るための知識を知ろうとする場合がある。
しかし知識と信念・常識のどちらが優位かは状況次第で、だから知識が信念・常識を変える・改めるという事は、とくに成長期を過ぎてしまった人の場合には起こりにくく、むしろ信念・常識を強化するための補助材として、知識は利用される。あるいは、役に立たないはずの知識も役に立つという迷信が、本当らしく思われたり思われなかったりする。しかしどのみち、作ろうとしない人の信念・常識は揺らがず、知識があろうとなかろうと、作らないままである。
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今日はここまで。続きはまた明日以降。
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