推論と創作、その2.33 命令と集団
- 2018/04/23
- 03:47
この記事は推論と創作、その2.32 迷信を禁じてはいけないの続きです。
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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とは言えやはり、芸能と占いは似てる、と示すだけなら、一方的な言語で説明する必要はない。つまり、芸能と占いが似てる事は、一方的な言語というものが存在する事の証明には、なってくれてない。なら他の例もあればとも思うのだけど、ちょっと思い付けない。なので;
・一方的な言語が本当に存在するなら、それを受け入れてる人は、その事を自覚できるだろうか?
という事について考えてみたい。自覚できるなら、たしかにそういうものはあると納得できるかも知れない。
少なくとも私自身はかつて、星の配置への過剰解釈が迷信を生み出すのと同じ仕組みで生み出される様々な迷信に捉われてたし、今はそれらから逃れられてるのだとしても、どうしても捨てられない迷信あるいは信念は、今でもいくつも残ってる。捨てられないと自覚してる信念がいくつかあり、だからたぶん、自覚できてない迷信もいくつか持ってるに違いない。だから私には、一方的な言語に捉われていた・いる、という自覚があるし、ならば私以外の人も、それを自覚するのは可能だろうと思われてしまう。
ただ私は、音声ではない言語というものがある前提で世界を捉えてるので、このような結論に至る。しかし、音声ではない言語というものがあるように思われてしまうのも、迷信かも知れない。少なくとも、そのようなものがあるとは認めない人はいるだろうし、その人にとって、ここまで述べてきた事の全ては、真とは認めがたいであろう。
ならば一旦、音声ではない言語など必要ない状態、つまり自然言語について言える事の範囲内だけで、一方的な言語は存在するのかと、それを受け入れてしまってる事を自覚できるのかについて考えてみよう。まず、
・自然言語とは基本的には、対等な立場の者同士が相互的に語り合うためのものである。
・しかし、反論・反問が許されない「命令」も自然言語で語られる。
・つまり自然言語とは、相互的でもあり一方的でもある。
・この違いは、言語の種類の違いではなく、用いられ方・受け入れられ方の違いである。
としてみる。つまり、一方的にしか用いられない特殊な言語などというものを想定しなくても、言語とは時に一方的なものであると言える。これならたいていの人からの同意も得られるであろう。
ところで、この世には様々な人がいるので、人間同士が対等であるのを望む人と、望まない人がいる。対等でなさには、自分が相手より上位か下位かの2通りがある。
対等的であるのを望まない人はたいてい、相互的に語り合うのも望まないであろう。つまり、一方的に語りたがる人というのはいるものだし、その反対に、一方的に語られ、反論・反問するのを望まない人もいる。
また、人間は群れを作るタイプの動物である。しかも、野生動物には不可能なほど巨大で、高度に組織化された群れ・集団を作る事ができ、それを長期間維持する事もできる。
自然の脅威≒人間の生命を脅かす要因を斥けるための知識や技術は、集団の共有財産として、これも長期間保持され、そのため累積的に高度化させられる。
人類が、他の動物とは比べものにならないほど文明を高度化できた最大の要因はこの、大規模集団を作り維持する能力かも知れない。ともかく、文明化が十分に進んだ段階の人間の集団には、概ね次の4通りがある。
・生まれると同時に所属先が定まる、血縁族や国家などの集団
・死なないための活動≒たいていは、いわゆる職業・本業の事、のための集団
・死なないための集団に入るための準備をする集団(たいていは学校)
・それ以外の活動のための集団
死なないためには職業集団に入るだけでなく、例えば女性が結婚して主婦になる、つまり生まれた時のとは異なる血縁集団に入る事も、死なないための活動である。血縁や国家は、死なないための活動のための最も重要な基盤である。
子供を作り子孫を増やすのは、個々人が死なないための活動ではないので、「それ以外の活動」のための集団で行われる。それはたいていは「家族」だけど、この、家族という集団は人類が文明化する以前からあるもので、しかも実は、文明化した後の世界の中での位置が上手く定められないでいる、いわば取りこぼされたカテゴリなのだ。なぜそう言えるかというと、
・近代化以降、あるいは工業化以降、家族の在り方や、それへの法規定は二転三転しており、未だに定まってない。
・工業化は、人口が少ない国家では行えないが、国民に子供を多く産ませるのではなく、大量の移民を受け入れる事で工業化に成功した国がある(アメリカ)。
文明が高度化するほど、個々人はあまり死ななくなり、子孫を残すよりも個々人がより良く生きる事の方が重要になる。しかも移民政策により、集団内で子作りしなくても上手くいった実例もあり、だから近代以降の国家は、子供を作るための集団をあまり重視しない。文明が高度化するほど少子化傾向が強まるのは必然である。
工業化する以前の人類は、今よりも死にやすかった。その分、子孫を残す事を重視した。子供を生めるのは女性のみなので、だから女性は、個々人が死なないための集団、つまり職業集団には入らず、あるいは入るのを禁じられ、当然その準備のための集団、つまり学校等に行く必要もないとされ、あるいはこれも禁じられてた。
その後、二度の世界大戦を経る事で、国家同士の争いが激化した場合は女性も国家の正式な構成員として扱わざるを得ない事が明らかになり、あるいは、女性も国民化されてる国の方が有利であろうと予想され、更にその後いろいろあり現在に至る。
現在でも、工業化が十分進展してない国や地域での女性のあり方は当然、工業化以前の文明段階でのと概ね同じである。
死なないための活動をしたい人は職業集団に入ろうとするけど、
・入れてもらえない
・入れてはもらえたけど、解雇される
・入った会社が倒産してしまう
等々の事情が生じて、死なないための活動ができなくなる場合はあり得る。その場合に頼るのは血縁(つまり一旦実家に戻って云々)、あるいは国家(失業保険を受取るとか、雇用を増やしてもらうとか)である。という点でもやはり、血縁や国家は、死なないための活動のための最も重要な基盤である。
集団に入らず一人きりで生きてる、という人はいるだろうか?
お金を使わず生きるてる人なら、一人きりで生きれてる可能性はある。なぜなら貨幣とは、集団に属する者にとってのみ価値があるものなのだから。
貨幣を用いない集団はありうるし、だから貨幣を用いず一人きりで生きてる人もいるかも知れない。しかし、ごく少額でも定期的・習慣的に貨幣を用いてるなら、それは集団の機能を利用してるという事になるので、ならば、一人きりで生きてるとは言えない。
医療を受けるのも、死なないための活動である。現在の文明国ではほぼ必ず、そのためにはお金が要る。お金を使わず生きてる人は医療を受けられず、わりと短期間で死んでしまうであろう。
文明化が進んでる国では生活保護等が整備されてるので、無収入でも医療を受けられる場合はある。その場合は、やはり国家が、死なないための最も重要な基盤となっている。文明化した世界では、人間の生命≒貨幣であり、健康も長寿も金で買うものである。
生まれた時に所属先が定まってない人、つまり家族あるいは国家に所属してない状態で生まれてきた人は、たいてい短期間で死んでしまう。
家族や国家という、排他的で利己的な集団ではなく、人は誰でも人類全体という大きな集団に属する存在、つまり人類は一つの家族(かなにか)なのだ、とはよく言われる事かもだけど、集団というものを「死なないための活動の基盤」と捉える視点からすると、「人類全体」は今のところ、集団としては機能してない、と言える。
紛争地域での乳幼児救済を行う国際ボランティアとか、国家の枠を超えて活動する職業集団のようなものは例外的に存在するけど基本的には、死なないための集団の最大規模は今のところ、国家である。
人は死なないために集団を作り、そこに属する。「人類全体」は個々人が死なないための基盤としては機能してない。したがって、人類全体が分け隔てなく語り合える(自然言語としての)普遍言語とか、共通の価値観とかは、必要とされてないし、今のところは存在してない。
ただし以上は「死なないための活動」についての事で、それ以外の活動のための普遍言語等は、既に大昔から存在してる。ただ「それ以外の活動」は多岐にわたり、人類の全てが参加してない場合がほとんどだから、やはり、全人類が理解できる普遍言語等は存在しない。
例えば、科学のための普遍言語は存在し、科学者だけが、それで語り合える。
しかし科学は発明品を生み出し、それは科学者以外にも恩恵を与える場合が多い。だから「それ以外の活動」のための普遍言語は誰でも話せるものではないが、誰とも無関係に話されてるのでもない、と言える。
高度に組織化された集団は、あたかも一つの人格であるかのように思考し、行動し、発言する。なので個々人同士と同じく集団同士でも、対等であるのを望む集団と、それを望まない集団とがある。
対等でない場合は上位か下位かの区別があるのも個々人と同様だけど、民族集団以上の大きな集団が自ら下位になるのを望む例は、あまりない。
さて、集団が高度に組織化されてる、とは、集団内に何層も、何通りもの上下関係が存するという事なので、人間同士の関係は対等ではない場合が多いし、各人が望む通りの上下関係になってはくれてない場合も多い。したがって、ある人にとっての、その人の主観も交えた上下関係のあり方は、
・望んだ通りに、対等である
・望んだ通りに、上位である
・望んだ通りに、下位である
・望みに反して、対等である
・望みに反して、上位である
・望みに反して、下位である
の6通りがあり得る。
そしてこの関係の中で発声されるであろう「命令」に対する各人の態度、あるいは待ち構え方には、
・命令する必要がない
・命令しない
・命令したい
・命令されたい
・命令したくない
・命令されたくない
の6通りがあり、命令を受けてからの行動には、
・命令に従う
・命令に従わない
の2通りがある。
以上の何通りかの場合分けが、またそれぞれに組み合わさる事で、「命令」を巡る様々な事態が生じる。
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今日はここまで。続きはまた明日以降。
推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
なお、推論と創作シリーズの一番最初は→推論と創作、その1
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とは言えやはり、芸能と占いは似てる、と示すだけなら、一方的な言語で説明する必要はない。つまり、芸能と占いが似てる事は、一方的な言語というものが存在する事の証明には、なってくれてない。なら他の例もあればとも思うのだけど、ちょっと思い付けない。なので;
・一方的な言語が本当に存在するなら、それを受け入れてる人は、その事を自覚できるだろうか?
という事について考えてみたい。自覚できるなら、たしかにそういうものはあると納得できるかも知れない。
少なくとも私自身はかつて、星の配置への過剰解釈が迷信を生み出すのと同じ仕組みで生み出される様々な迷信に捉われてたし、今はそれらから逃れられてるのだとしても、どうしても捨てられない迷信あるいは信念は、今でもいくつも残ってる。捨てられないと自覚してる信念がいくつかあり、だからたぶん、自覚できてない迷信もいくつか持ってるに違いない。だから私には、一方的な言語に捉われていた・いる、という自覚があるし、ならば私以外の人も、それを自覚するのは可能だろうと思われてしまう。
ただ私は、音声ではない言語というものがある前提で世界を捉えてるので、このような結論に至る。しかし、音声ではない言語というものがあるように思われてしまうのも、迷信かも知れない。少なくとも、そのようなものがあるとは認めない人はいるだろうし、その人にとって、ここまで述べてきた事の全ては、真とは認めがたいであろう。
ならば一旦、音声ではない言語など必要ない状態、つまり自然言語について言える事の範囲内だけで、一方的な言語は存在するのかと、それを受け入れてしまってる事を自覚できるのかについて考えてみよう。まず、
・自然言語とは基本的には、対等な立場の者同士が相互的に語り合うためのものである。
・しかし、反論・反問が許されない「命令」も自然言語で語られる。
・つまり自然言語とは、相互的でもあり一方的でもある。
・この違いは、言語の種類の違いではなく、用いられ方・受け入れられ方の違いである。
としてみる。つまり、一方的にしか用いられない特殊な言語などというものを想定しなくても、言語とは時に一方的なものであると言える。これならたいていの人からの同意も得られるであろう。
ところで、この世には様々な人がいるので、人間同士が対等であるのを望む人と、望まない人がいる。対等でなさには、自分が相手より上位か下位かの2通りがある。
対等的であるのを望まない人はたいてい、相互的に語り合うのも望まないであろう。つまり、一方的に語りたがる人というのはいるものだし、その反対に、一方的に語られ、反論・反問するのを望まない人もいる。
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また、人間は群れを作るタイプの動物である。しかも、野生動物には不可能なほど巨大で、高度に組織化された群れ・集団を作る事ができ、それを長期間維持する事もできる。
自然の脅威≒人間の生命を脅かす要因を斥けるための知識や技術は、集団の共有財産として、これも長期間保持され、そのため累積的に高度化させられる。
人類が、他の動物とは比べものにならないほど文明を高度化できた最大の要因はこの、大規模集団を作り維持する能力かも知れない。ともかく、文明化が十分に進んだ段階の人間の集団には、概ね次の4通りがある。
・生まれると同時に所属先が定まる、血縁族や国家などの集団
・死なないための活動≒たいていは、いわゆる職業・本業の事、のための集団
・死なないための集団に入るための準備をする集団(たいていは学校)
・それ以外の活動のための集団
死なないためには職業集団に入るだけでなく、例えば女性が結婚して主婦になる、つまり生まれた時のとは異なる血縁集団に入る事も、死なないための活動である。血縁や国家は、死なないための活動のための最も重要な基盤である。
子供を作り子孫を増やすのは、個々人が死なないための活動ではないので、「それ以外の活動」のための集団で行われる。それはたいていは「家族」だけど、この、家族という集団は人類が文明化する以前からあるもので、しかも実は、文明化した後の世界の中での位置が上手く定められないでいる、いわば取りこぼされたカテゴリなのだ。なぜそう言えるかというと、
・近代化以降、あるいは工業化以降、家族の在り方や、それへの法規定は二転三転しており、未だに定まってない。
・工業化は、人口が少ない国家では行えないが、国民に子供を多く産ませるのではなく、大量の移民を受け入れる事で工業化に成功した国がある(アメリカ)。
文明が高度化するほど、個々人はあまり死ななくなり、子孫を残すよりも個々人がより良く生きる事の方が重要になる。しかも移民政策により、集団内で子作りしなくても上手くいった実例もあり、だから近代以降の国家は、子供を作るための集団をあまり重視しない。文明が高度化するほど少子化傾向が強まるのは必然である。
工業化する以前の人類は、今よりも死にやすかった。その分、子孫を残す事を重視した。子供を生めるのは女性のみなので、だから女性は、個々人が死なないための集団、つまり職業集団には入らず、あるいは入るのを禁じられ、当然その準備のための集団、つまり学校等に行く必要もないとされ、あるいはこれも禁じられてた。
その後、二度の世界大戦を経る事で、国家同士の争いが激化した場合は女性も国家の正式な構成員として扱わざるを得ない事が明らかになり、あるいは、女性も国民化されてる国の方が有利であろうと予想され、更にその後いろいろあり現在に至る。
現在でも、工業化が十分進展してない国や地域での女性のあり方は当然、工業化以前の文明段階でのと概ね同じである。
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死なないための活動をしたい人は職業集団に入ろうとするけど、
・入れてもらえない
・入れてはもらえたけど、解雇される
・入った会社が倒産してしまう
等々の事情が生じて、死なないための活動ができなくなる場合はあり得る。その場合に頼るのは血縁(つまり一旦実家に戻って云々)、あるいは国家(失業保険を受取るとか、雇用を増やしてもらうとか)である。という点でもやはり、血縁や国家は、死なないための活動のための最も重要な基盤である。
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集団に入らず一人きりで生きてる、という人はいるだろうか?
お金を使わず生きるてる人なら、一人きりで生きれてる可能性はある。なぜなら貨幣とは、集団に属する者にとってのみ価値があるものなのだから。
貨幣を用いない集団はありうるし、だから貨幣を用いず一人きりで生きてる人もいるかも知れない。しかし、ごく少額でも定期的・習慣的に貨幣を用いてるなら、それは集団の機能を利用してるという事になるので、ならば、一人きりで生きてるとは言えない。
医療を受けるのも、死なないための活動である。現在の文明国ではほぼ必ず、そのためにはお金が要る。お金を使わず生きてる人は医療を受けられず、わりと短期間で死んでしまうであろう。
文明化が進んでる国では生活保護等が整備されてるので、無収入でも医療を受けられる場合はある。その場合は、やはり国家が、死なないための最も重要な基盤となっている。文明化した世界では、人間の生命≒貨幣であり、健康も長寿も金で買うものである。
生まれた時に所属先が定まってない人、つまり家族あるいは国家に所属してない状態で生まれてきた人は、たいてい短期間で死んでしまう。
家族や国家という、排他的で利己的な集団ではなく、人は誰でも人類全体という大きな集団に属する存在、つまり人類は一つの家族(かなにか)なのだ、とはよく言われる事かもだけど、集団というものを「死なないための活動の基盤」と捉える視点からすると、「人類全体」は今のところ、集団としては機能してない、と言える。
紛争地域での乳幼児救済を行う国際ボランティアとか、国家の枠を超えて活動する職業集団のようなものは例外的に存在するけど基本的には、死なないための集団の最大規模は今のところ、国家である。
人は死なないために集団を作り、そこに属する。「人類全体」は個々人が死なないための基盤としては機能してない。したがって、人類全体が分け隔てなく語り合える(自然言語としての)普遍言語とか、共通の価値観とかは、必要とされてないし、今のところは存在してない。
ただし以上は「死なないための活動」についての事で、それ以外の活動のための普遍言語等は、既に大昔から存在してる。ただ「それ以外の活動」は多岐にわたり、人類の全てが参加してない場合がほとんどだから、やはり、全人類が理解できる普遍言語等は存在しない。
例えば、科学のための普遍言語は存在し、科学者だけが、それで語り合える。
しかし科学は発明品を生み出し、それは科学者以外にも恩恵を与える場合が多い。だから「それ以外の活動」のための普遍言語は誰でも話せるものではないが、誰とも無関係に話されてるのでもない、と言える。
高度に組織化された集団は、あたかも一つの人格であるかのように思考し、行動し、発言する。なので個々人同士と同じく集団同士でも、対等であるのを望む集団と、それを望まない集団とがある。
対等でない場合は上位か下位かの区別があるのも個々人と同様だけど、民族集団以上の大きな集団が自ら下位になるのを望む例は、あまりない。
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さて、集団が高度に組織化されてる、とは、集団内に何層も、何通りもの上下関係が存するという事なので、人間同士の関係は対等ではない場合が多いし、各人が望む通りの上下関係になってはくれてない場合も多い。したがって、ある人にとっての、その人の主観も交えた上下関係のあり方は、
・望んだ通りに、対等である
・望んだ通りに、上位である
・望んだ通りに、下位である
・望みに反して、対等である
・望みに反して、上位である
・望みに反して、下位である
の6通りがあり得る。
そしてこの関係の中で発声されるであろう「命令」に対する各人の態度、あるいは待ち構え方には、
・命令する必要がない
・命令しない
・命令したい
・命令されたい
・命令したくない
・命令されたくない
の6通りがあり、命令を受けてからの行動には、
・命令に従う
・命令に従わない
の2通りがある。
以上の何通りかの場合分けが、またそれぞれに組み合わさる事で、「命令」を巡る様々な事態が生じる。
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今日はここまで。続きはまた明日以降。
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